時間旅行。
「おや?これはこれは」
紳士はそんな台詞を吐きながら、磨いていた本の時計をごちゃごちゃした机の上に置きました。
本の時計はそれが不満ででもあるかのように、ページをぱらぱらと繰っています。
「あの時のお嬢さんじゃないですか」
乱雑に、整然と、ぎゅうぎゅうにひしめき合い“積み重ねられた”時計たちが溢れかえった店内。
そんな中に佇む紳士は、まるでアリスの中に出てくる「いかれ帽子屋」みたいな格好をしていました。
歯車が一杯付いた、くすんだ緑色のシルクハット。
光沢のある深い赤色の蝶ネクタイ。
茶色のシャツに、これまたくすんだ緑色の上着とスラックス。
そこになぜか、真っ赤な靴を履いているんだから、オシャレなのかそうじゃないのか、少し考え物です。
ですが、その顔は記憶のままの綺麗な綺麗な美男子だったので、マリアの顔はポッと赤くなりました。
服装を変えて、眼鏡を外して、その、ポケットというポケットにドライバーなどの道具を詰め込まなければ、それはそれはカッコいい“普通の人”になることでしょう。
昔はただ面白いお兄さんと思ったものでしたが、時が止まったように変わらないその姿は、今ではもっとずっとよく見えて、何だか気恥ずかしくなってきます。
こんな不思議な店だもの、きっと時が止まっているのね。
恥ずかしい思いを少しでも緩和しようと、マリアはそんなことを考えるのでした。
「覚えてらっしゃるの?」
マリアは紳士に、そんな問いを投げ掛けます。
あれから何年も経ち、自分は随分と成長しているのに分かるだなんて、人違いをしているんじゃないかしら、とマリアは思ったのでした。
だって、見た目だって随分変わっているはずだもの。
でも、その紳士はゆっくりと頷くと「お父様と二人で連れ立って、この店に入らしたでしょう?」と言うのでした。
「幾ら成長したって美女は見分けられるものです。随分時を経たようで、今ではすっかりレディーですがね?」
「あら、いやだわ」
マリアの顔は益々赤くなっていきます。
だって、本当に綺麗なお顔なんですもの。
こんなに綺麗なお顔の人なんて見たことないわ。
きっとこんな不思議な通りだから、なんだって不思議で、なんだっておかしいのね。
時計屋さんの格好がおかしいのも、不思議なくらい綺麗な顔立ちなのも、逆に何の不思議でもないんだわ。
そう、きっと当たり前なのね。
「今日はどんな御用でこちらに? お嬢さん」
紳士はいかにも紳士然とした口調でそう尋ねます。
マリアは意を決して「父を捜しに」と言いました。
それに対して、「お父様を?」と紳士は首を傾げました。
その顔はなんだか全てを知り得ているような表情です。
マリアの方こそ、その表情に首を傾げたくなりました。
「どうやら外では随分時間が経っているようですが、どれくらい経ちましたでしょうか?」
外、というのは夢の中でないあの、現実の世界のことかしらと、少々首をひねりながらも、マリアは正直に紳士の問いに答えます。
「父とこの店で別れてから、もう十年になります」
「十年!おおそれは、大問題だ!」
紳士は突然そう叫びました。
それに吃驚して「何がそう大変ですの?」とマリアは思わず聞いてしまいました。
十年も親が失踪しているだなんて、それこそ大問題である筈ですが、紳士のあまりに驚いたという態度に圧倒されてしまったのです。
ずっとずっと探し求めて探し求めて、やっと見付けた記憶通りの時計屋さんだというのに、感動している暇もありません。
父を捜し求めていたことさえ、頭の片隅に飛んでいってしまいそうでした。
「十年も経っていただなんて!ああ、どうしたことだろう!私としたことが!こんなにも時計があるというのに正確な時さえ刻めないなんて!」
紳士は狭い店の中を器用にたったか歩きながら、顎に手をやって「うーむ」と唸ります。
「これは大変だ。これ以上あれを使ったら、料金がかさんで大変なことに……」
「それは……」
マリアは思わず尋ねます。
「それは、いったいどういうことですの?」
何だか急に不安になってきました。
時計屋さんがこんなに慌てるようなこと、しかも料金などと言っている。
その目の前の情景に、マリアは鼓動が早くなるのを感じました。
父はいったいどうなってしまったというのでしょう。
いったい何が大変で、料金はどれ程のものになってしまうというのでしょう。
マリアだってもう子供と言うには大きな年齢です。お金勘定ができない訳がありません。
しかしそこで、でも、と思い直しました。
ここは不思議な不思議な時計屋さん。
何もかもがへんてこで、何もかもが理路整然。
そんな時計屋さんなのだから、“普通”なことなど逆に、有り得るのでしょうか?
そうよ。
もしかしたら支払いはお金なんかじゃないのかもしれないわ。
どうにかこうにか心を落ち着けながら、マリアは紳士の答えを待ちます。
すると、「実は……」と紳士は言いにくそうに切り出すのでした。
「実は、あなたのお父様は今時間の中を旅をしていらっしゃるのです」
「時間の中を?」
やっぱり。
マリアはそう思いました。
不思議な不思議な時計屋さん。
普通な方法では見付からない。
そんな時計屋さんで、普通な答えを求める方が間違っているのです。
「父は今、何時を旅しているのでしょう?」
だからマリアは努めて冷静にそう紳士に尋ねました。
失礼が無いように、いつものように唇に指など当てません。
首を可愛らしく傾げて、真っ直ぐに紳士の瞳を覗き込みます。
紳士はその真っ直ぐな瞳に「それが、分からないのです」と困ったように微笑みました。
そう、マリアの質問は間違っていなかったのです。
何時を旅しているのか?なんて質問、普通ならば通じません。
何を言っているのかと不思議がられてお終いです。
ですが、マリアが思った通り、ここでは普通は通じません。
おかしいことこそ真実なのです。
「わたし、捜しますわ。だって、その為に来たんですもの」
マリアは意を決したようにそう言いました。
しかし、時計屋さんの方は困ったようにまた微笑むだけです。
何か言い方がまずかったかしら?と思いましたが、もう言葉にしてしまったのですから今更それを帳消しになどできません。
ですがふと、その時マリアは思いました。
そう、時間はなんと24もあるのです。
その何処に父が居るのか分からないとなると、一々その時間を捜し回ることになってしまいます。
運がよければいいですが、悪ければそれこそ自分も十年旅をすることになってしまうかもしれません。
「見当が付かない訳ではないのですが……」
時計屋さんはそう言います。
「そうなると、あなたも時間の中を旅することになってしまう。そこでは常識など通じません。あなたはそれでも耐えられますか?」
「ええ、耐えられますわ」
でも、もうこうなってしまったら後戻りなどできません。
マリアは二つ返事でそう時計屋さんに言いました。
ここに来るのに十年。
そうしてもう、ここで既に不思議なことばかり起こっているのよ。
これ以上何があろうと起ころうと、どうにでもなれって感じだわ。
マリアの心は強く、もう幼い頃とは違いました。
父に付いて行けなかった昔とは、違うのです。
その決意に満ちた瞳を見た時計屋さんも、何かを決心したかのように頷きました。
「では、これを」
そう言って胸のポケットから一つの懐中時計をマリアへと差し出します。
それは不思議な不思議な時計でした。
針が何処にもありません。
はて、これで時計と呼べるのでしょうか。
でも文字盤はしっかりと刻まれています。
足りないのは針だけでした。
「この時計の針に、あなたがなるのです。これは私の責任ですから料金はおまけしておきましょう。私の経験から言わせて頂きますと、お父様はきっと……」
時計屋さんは文字盤だけの時計の3と12と6を指差しました。
「このどれかに居る可能性が高いと思われます。そんなに帰って来ないと言うのなら、きっと」
「でも……」
どうやって針になると言うのかしら。
そう言う前に、マリアの体は時計の中へと吸い込まれて行ってしまいました。