イギリスでの生活は刺激的で、一つ一つが新たな発見と勉強の連続だった。
休む間も無い毎日は、仲間よりも一足早い卒業と言う寂しさを紛れさせてはくれたが、それでも、可愛がっていた後輩からの手紙が届いた時や、日本料理店の前を通った時。そんなふとした拍子に、故郷が恋しくなる事もある。
巻島が兄から声を掛けられたのは、何通目かの手紙を手に、そんな懐かしさを一人噛み締めていた時だった。


「裕介、今日は会社の方にもちょっと顔出してくれないか。」
「ん、分かったっショ。」

イギリスに来たのはロードが盛んだからと言うのもあるが、一番の理由はこの兄の仕事の手伝いをするためである。
とは言え、巻島の仕事は専ら在宅業務だ。オフィスに顔を出すのは精々月に数回、急な欠員が出た時や繁忙期に駆り出される程度で、今回もそんなものだろうかと予想して向かった先での言葉に、少なからず驚いた。
「お前に紹介したい人が居るんだ。」
「何なんショ、改まって。」
その言い草ではまるで婚約者だなと思ったが、一つ屋根の下に住んでいて気付かないと言う事も無いだろう。

一体何なんだと疑問を感じながらも促されるまま応接室の扉を開けて、固まった。







「何でお前が此処に居るっショ!?」
「巻ちゃんの居る所この東堂ありだ!!!」

見憶えのあり過ぎる顔とつい昨日も電話越しに聞いた声が、勢いよく全く回答になっていない回答を叫んだ。


「会いたかったぞ巻ちゃん!」
両手を広げて近付いて来る姿は夢でも人違いでもなさそうで、巻島は軽いパニックに陥りかける。
「え、いや本当何で居るっショ。お前学校は?」
「何を言っているんだ巻ちゃん。もう春だぞ。つまりは俺も卒業している。」
自分の卒業が半年も前だった為にうっかり失念していたが、そう言えば今は四月であり、日本の学生が春休みに入っていてもおかしくはない。
成る程それならば、自分恋しさに東堂がついうっかり海を越えてしまったのも納得だ。

しかし東堂はそんな予想を裏切って、胸ポケットを探ったかと思うと、巻島に向かって一枚のカードを差し出した。

「何だコレ名刺?…株式会社スリーピングスパイダー代表取締役……東堂尽八…って……ショォォ!?」

驚愕の叫びを上げてそのまま固まってしまった巻島を、東堂は少しばかり不安気に窺った。
「む、もしやビューティースパイダーの方が良かったか?それは俺もギリギリまで迷ったのだよ。だが略称にした時BSだと衛星放送になってしまうからな…。」
「違うっショ。と言うか俺を混ぜるのを止めるっショ。」

最早東堂が何を言っているのか分からない。
「お前、会社って…。」

途切れ途切れの呟きであったが、よくぞ聞いてくれたとばかりに胸を張って、うむと頷いて見せた。
「最初は巻ちゃんを追い掛けて俺もこっちの大学を受験しようかと思ったんだ。」
俺もそれは予想の範囲内だったっショ。とは言いたくなかった。予想の範囲内だったが。

「だが俺は気付いたんだ。大学は良くてもその先は?プロになるならばどこかの会社にスポンサーになって貰わねばならん。しかし、しかしだぞ巻ちゃん。考えてもみてくれ。そのスポンサーが巻ちゃんの美貌に目がくらみセクハラなどと言う卑劣な行為をして来たら…!!」
「あり得ないっショ。」
脱線としか言いようのないとんでもない妄想に思わずそう突っ込みを入れたが、残念ながら彼のトークはきれない。

「そこで俺は考えた。ならば俺が会社を立ち上げ、ロードレースの一大スポンサーになってしまえば良いと。」
そう言い切る東堂はどこまでも真っ直ぐで死んだ目をしていた。

「登れる上にトークも切れる、加えてこの美形は更に仕事まで出来る!天は俺に四物を与えた!!」
そのままフハハハと高笑いをしながら、両手を天に突き上げて神を讃えるようなポーズを取っている。
「巻ちゃん!」
満面の笑みの東堂を止める気力は最早巻島には無かった。
頼むから助けてくれ兄貴と、この場に居る唯一の第三者へ視線を投げる。

「俺も巻ちゃんだぞ尽八!」
「いややっぱ兄貴黙るっショ。」
「尽八が可愛くてしょうがないんだ。俺も混ぜろ。」
どのような経緯があって兄がこんなにも東堂を気に入っているのかは分からないが「裕介じゃなくて俺と仕事だけじゃないパートナーにならないか」などと大真面目な顔をして言うのは止めて欲しい。
そしてその言葉で漸く何故東堂がこのオフィスに居るのかが判明したが、それはつまり今後は元ライバルと言う肩書き以外の関係が二人の間に新たに結ばれると言うことであり、自宅、職場バレかつ家族公認と言う言葉の響きに巻島は顔を青ざめさせた。

「すいませんお義兄さん、俺は巻ちゃ…裕介のものなので…代わりと言ってはなんですが、姉の三和子(みわこ)五希(いつき)六對(むつみ)七恵(ななえ)のどれかで手を打ちませんか?一奈(かずな)と二美花(ふみか)と四乃(しの)は既婚なので無理ですが…。」
「えっ、東堂お前、姉ちゃん居るのは聞いてたけど、えっ、尽八ってそう言う…。」

巻ちゃん(弟)の困惑を他所に、東堂は固く拳を握り締めて宣言する。
「巻ちゃん、俺は必ずこの会社を巻ちゃんに相応しくなるまで成長させてくる。だからそれまで誰のものにもならず待っていてくれ。」

その後、巻ちゃん(兄)と少しばかり仕事の話をしてから颯爽と立ち去った東堂の背中には、巻島の呟きは残念ながら届かなかった。






「いや、俺は普通に兄貴の会社で働いてるっショ。」