「・・・ルシフェル?そろそろ離して欲しいんだが・・・」
「嫌だ」
腰に黒髪の大天使を巻き付けた天界の書記官は、途方に暮れて溜め息を吐いた。


指切り断ち切り


椅子に腰掛けたイーノックは、どうしたものかと首を傾げる。目の前には跪きひしと自分にしがみつくルシフェル。
「君だって分かっているだろう。もう行かなければ」
凛々しく整った眉目を今ばかりはしんなりと下げ、目下の愛しい相手に告げる。そんな情けない様子にもかかわらず相手といえば白皙の美貌も珍かな赤い目も俯き隠して、黒い髪が見えるばかりだった。
その短い黒髪を恐る恐る梳く。元々書記官とはいえ最近手にしている物は専ら武器ばかりで、武骨な、血に塗れた自分の手で触れてしまっては彼の穢れにならないか恐ろしかった。
だが、猫が懐くよう手に擦り寄るルシフェルを見ているとそんな事も段々気にならなくなっていく。可愛い、愛おしいひと。
そんな場合ではないが和み顔を緩めると、ぽつりと言葉が齎された。
「行けば、おまえはまた傷付き帰って来る。それならまだ耐えられるが、しかし・・・」
長い腕をイーノックの腰に回したままぼそぼそ呟くルシフェルの声。イーノックはそんな事かとばかりに破顔し答える。
「大丈夫だ、問題ない。心配しなくてもすぐに帰ってくるさ」
にこりと、自分でも上出来だと思える程満面の笑みで言ったのに、それが堪らなく苦痛だとでもいうようにルシフェルが顔を歪めた。
「・・・、 せに」

「私を置いて、死んでしまうくせに」

虚を、衝かれた。
拗ねた顔で囁かれた台詞は、その可愛らしい表情とは裏腹に酷く切実な響きをしていた。
「大丈夫だ、問題ない。大丈夫だ、問題ない!おまえはいつもそれだ!そのくせ毎回私の言う事を聞かないで無茶ばかり」
置いていかれるのはもう懲り懲りだとふて腐れたようにルシフェルは言う。
暫時沈黙と無表情を保っていたイーノックは、不意に唇に柔らかい笑みを浮かべた。そしてルシフェルの顎を掬い目線を合わせ優しく告げる。
「そうだな・・・それじゃあ、」

「今度俺が死んだら、君も一緒に死んでくれ」

甘く甘く囁かれた台詞に、今度はルシフェルが目を見開き押し黙った。
「愛する君を遺していく事は忍びないし、不安だ。俺のいない世界で他の誰かを愛でる君なんて想像もしたくない。だから、」
俺と心中してくれないか。神も世界も人間も未来も何もかも捨て去って。
毒のように垂れ流された台詞は蜜よりも甘く重い。それを聞いたルシフェルはうっとりと、さも嬉しそうにそれを飲み込み頷き、イーノックの滅びる肉体を抱きしめた。
約束だと指切り口付け額を合わせ、天から地上へ降りていく。過去と同じ死、そうして繰り返さない生。消える大天使。
楽園を失っても構わないと、君のいない世界など要らないのだと、禁じられた自決を選び取って。神の決めた大洪水を待たずに、かくして世界は終わりを告げた。



END