釈迦


ルシフェルはとても美しかった。

初めて彼を見た時、少し古ぼけた服を着た彼は丘の上で一人淋しげに座っていた。
私はその場所の静けさと、彼のあまりの無防備さに思わず乱暴なことをしてしまいそうになったのをよく覚えている。

私はしがない旅人で、その土地土地の名物や土産物をいく先々で売り歩いて生計を立てていた。
手持ちの金は残り少なく、もし此処であの青年を襲ってしまえば彼の住んでいるであろう目的の町で商売が出来なくなるだろうと言い聞かせてようよう雑念を振り払ったが、本当に、あと一歩のところまで心は動いていたのだ。
…いや、金の事など言い訳である。実際に底を付いたこともあるが、それでも長い旅の経験を生かし、野草を食い朝露で喉を潤し凌いできた。
彼の、あの美しく余裕に満ちた表情を悲しみで汚したくない。それだけが私の理性を繋ぎ止め、獣へと変貌しそうになっていた私の心を人間に戻してくれた。

彼―ルシフェルは街一番の金持ちの息子で、遥か遠くから訪れた私にとても興味を示し、何かと世話を焼いてくれた。
また、彼はとてもよく喋る。彼に頼まれた仕事をこなしていると、彼はそんな私の姿をずっと隣で見ながら無口な私の代わりにひたすら話し掛けてくれた。話していて解ったのは、ルシフェルが非常に聡明で人の心を掴むのが上手いということだった。
こんなに美しく利発な彼の事だから、さぞかし町人にも人望があるのだろうと思っていたのだが、それについては意外なことに、家族とごく数人の友を除いては、自主的にルシフェルに話し掛けようとする者は殆ど居なかったのだ。
暫くは不思議に思っていたが、理由は程無く判明した。彼には、過去と未来が見えるのだ。

「お前あの日、私を襲おうとしただろ。」
そう言われた時は、此方の欲に塗れた表情を見られていたのかとも思ったが、どうやら違うらしい。旅の途中で起こった出来事を次々と言い当てられてはルシフェルの能力を信じざるを得なかったし、同時に町の人間が彼に近付かない理由も解った。
誰だって、他人に知られたくない秘密の一つや二つはあって当然だ。それを町の偉い人間に見透かされているとなれば…やはり気持ちの良いものでは無いだろう。その上未来も見れるとなれば、暴力に訴えて口封じをする事だって出来なくなる。それならば、一番良いのは関わらないようにすることだ。

彼は淋しいのかもしれない。

そうでなければ、仮にも自分を強姦しようとした男を、こんなに近くに置かないだろう。
その時、初めて出会った時のルシフェルを悲しませたくないと言う想いが再び私の中で芽吹きはじめ、その気持ちはやがて、彼を護るためこの街に住みたいという所まで変化していた。
もちろん、何もかもが身勝手で独り善がりな考えだというのは解っている。それでも、私はどうしてもルシフェルの為に何か行動がしたかった。

「貴方の先見は全てを見通す事が出来るのか?」
「いや、未来は常に変化するからな。私の起こした行動で変わるものも多い。…それに、これはトップシークレットだがつい先日派手に一つ外したばかりなんだ。」
その日は二人、彼の家の屋根の上で月見をしており、私は月よりもその光を浴びてきらきらと輝く彼の肌にほぅっと見惚れていた。
外れたと言う割にはその口ぶりはいかにも楽しそうで、まるで外れた事が嬉しいかのように聞こえる。

「へぇ、何を外したんだ?」
「ふへへ、…私は本当は、あの場所でお前に犯される筈だったんだ。」

「…え?」
今、何と。
「お前がいい奴だとは解っていたけど、本当にいい奴だな。」
ドロロと溶けたノウズイで、何度も何度もその言葉を反芻する。

ルシフェル、…ルシフェル。可愛くてお喋りな私の天使。もしも私が堕ちたら、受け止めてくれる?

「好きになってあげても良いよ、イーノック。」
高慢にすら聞こえる告白は、けれども私の背中を押すには充分過ぎた。
「大丈夫だ、問題ない!(That's all right!)」