痕跡


イーノックがメタトロンに昇天してからは、未来の叡知についての話が出来るから嬉しいとルシフェルは思った。
それは共に見た映画の話だったり二人で食べた料理の話だったり、時には寝室での戯れについてだったりと多岐に渡り、普段寡黙なメタトロンもルシフェルの前だけでは楽しそうによく喋る。
そして今日も、ルシフェルの持ち込んだ一つの叡知について彼等の戯れのような会話が始まった。

「よし説明しよう、これは『遊女』の衣装だ。遊女とはある島国における…いや長い説明はこの際置いておこう、簡単に言うと春を売る女の装束だ。この肩の所なんか、中々卑猥だろう?」
いつものシャツとジーンズを取り払い、代わりにだらしなく着崩した黒い着物の下には深紅の襦袢がちらちらと覗いている。
白く覗く肩や足首と、着物の赤と黒い。三色のコントラストは非常に扇情的だった。

イーノックはふむと頷いて剥き出しになった肩に触れると、そのままルシフェルを膝の上に抱き込んでゆるゆると背を撫でる。
嬉しそうにふへへと笑うルシフェルは、頬同士を擦り合わせると先程までの妖艶さが嘘のように無邪気に甘えて見せた。
視線を同じ高さにした所で、ルシフェルはイーノックの手を取り自分の帯へと持っていく。
「この帯は案外長さがあってな、端を掴んで引っ張ると独楽のようにくるくる回りながら服が脱げていく。それをしながら『よいではないかよいではないか』と言って襲いかかるのが伝統らしい。」
大雑把に仕入れた情報は些か偏見が混じっており正確さには欠けるが、残念ながらこの場にそれを指摘してくれる者は居ないし居たとしても二人ともあまり他人の話を聞く方ではないので黙殺されていただろう。大切なのは二人の気持ちである。

イーノックはそんなルシフェルの話を聞いているんだか聞いていないんだかよく解らない様子で、そこだけ妙にきっちりと結ばれた帯をナデナデと撫でていた。
「ここは案外しっかりしているんだな。解くのに苦労しそうだ。」
「なんだ、この衣装は気に入らなかったか?」
「いや、貴方は何を纏っても美しい、それは本当だ。ただ、こういった衣類はそれに追随する背景…今回なら春を売る女か。まぁそう言ったものを感じ取って楽しむと言うのが本来の遊び方だと思うんだ。」
「ふむ。」
全く性的な色を見せない相手に、ここは大人しく話を聞いておくべきかと膝の上で居住まいを正して顔を見つめる。
「しかし、私はその衣装について思い入れがある訳では無いし、今『遊女のものだ』と言われて初めてそうなのかと知ったところだ。正直、可愛らしい格好をしているなと言う以上の感想は抱けない。」

言いたい事はまぁ解った。まぁ要するに

「つまり私は悪代官ごっこが出来ないと言う訳か。」
「…私がその『アクダイカン』のなんたるかを理解するまでは、申し訳無いがその相手をするのは難しい。」

ふむと一つ頷いて、ではまず悪代官についてのレクチャーからだなと指を鳴らしてテレビとビデオを出現させる。
しかし残念ながら、町娘が襲われている場面に一々腹を立てるような正義漢にそんな遊びは一万年程早かったらしいと思い知るのはそれから数日後の事だった。