留守にする


「ルシフェル。」

その黒い姿を認めた途端、イーノックは能面のように固くしていた顔をくしゃりと歪ませて瞳に涙を浮かべた。
「おいおい、何も泣く事は無いだろう。」
「どれだけ貴方に会いたかったと思っているんだ…嗚呼ルシフェル、私の天使。」
ルシフェルはそんなイーノックの様子に相変わらず人の話を聞かないなと笑いながらも、伸びて来る腕に抵抗せず抱かれると、碧い瞳に唇を寄せてその涙を吸い取った。

「ルシフェル、ルシフェル。」
まるでそれしか言えないかのように何度もルシフェルの名前を繰り返し呼ぶと、会えなかった期間を取り戻すかのように首筋に吸い付き細い身体をまさぐる。
やがて互いに熱が上がると、どちらともなく口付け舌を絡めて縺れ合いながら地面に倒れた。
「ん…あ、ちょっと、待っ…。」
夜露を含みしっとりと濡れた草は、二人の衣服を汚してイーノックの肌に寒さを与えるだろう。
それは困るとルシフェルが白い指先を高らかに鳴らせば、次の瞬間真っ黒なテントのようなものが出現して、それまでの景色を一変させた。

イーノックは驚く素振りもみせず、むしろ手慣れた様子でテントの入り口を開けると、やや乱暴にルシフェルの腕を取りその中へと引っ張り込む。
内部には柔らかそうな布団が一組敷かれており、二人はもどかしく衣類を脱ぐと早々にその上へと倒れこんだ。


***


「ハドラニエルさん遅いですね…。」
それはイーノックの偽名であったが、青年は死ぬまでそれを本名だと信じ続ける事になる。
数ヶ月前に一団に参加した新入りの青年は、もう三日も姿を現さない聖人の行方に気を揉んでいた。
まさか領主に捕まってしまったのではないか、熊や狼に襲われてしまったのではないか、不安な考えは日に日に彼の心を蝕んで行き、遂に耐えきれなくなった青年は苦しい心情を吐露する。

しかし、仲間の一人はそれを聞いた途端ああと上げて手を振った。
「大丈夫だよ。いつもこうなんだ。」
「え?」
「大体…年に一度くらいかな、鋭気を養う為とかで暫く居なくなるんだ。」
その話を隣で聞いていた別の男が続けるように唇を開く。
「そうそう、一月くらい平気で居なくなるんだ。良くも悪くも、人間とは時間の感覚が違うんだろう。」
二人がかりの説得にそんなものなのかと頷いた青年は、一週間寝ずに動いた後、丸二日死んだように眠っていた聖人の姿を思い出して納得するとそれ以上の不幸な空想を断ち切った。


心ゆくまでルシフェルを補給したイーノックが彼等の元へと戻ったのは、それから三十日後の事だった。