そんな貴方は王子様


永い夢を見ていた気がする。

ぐるりぐるりと脳味噌が掻き混ぜられるような、胸の奥に泥でも詰まったような、腸が爛れて腐り落ちてしまうような。兎に角全くもって良い気分では無かった。
何よりも自分を苦しめたのは、視界に掛かった靄のようなもの。やたらと濃くでざらついていて、目の前の風景ですら覚束ないその障壁が、じれったい程鬱陶しかった。

そんな中で、ただ一つだけ、自分の心を励まし正気を保たせてくれたもの。


「お帰り、イーノック。」


嗚呼そうだ、ずっと、この声が導いていてくれたんだ。
どれ程ぶりに見たのか解らない懐かしい薄い笑みに、思わず一瞬、我を忘れて抱きついた。
「ルシフェル…ルシフェル!」
「おいおい、嬉しいのは解ったが、今はそれどころじゃあ無いぞ?」
こんな時でも冷静さを失わない彼に、少しだけ壁を感じた事もあったけれど、それももう過去の事だ。
純白の鎧を身に纏って武器を掴むと、一つ頷いて進むべき道へと駆け出した。

嗚呼でも、これだけは言っておかなければ。

「ルシフェル!」
「ん?」
「有難う、私を救ってくれて。」
そう言うと彼は驚いたように目を開き、無言のままぱちぱちと瞬きを繰り返した。長い間一緒に過ごしてきたけれど、こんな顔、今まで一度も見たことが無かったので何だか嬉しい。

「お前…覚えてるのか?」
「いや、あの沼に飲み込まれてからの記憶は殆ど無いんだ。…ただ、ルシフェルの腕の感触と、私の名前を呼ぶ声だけ覚えている。本当に、有難う。」
何がどうなったのか、実は今でもよく解っていない。ただ、私の不注意でルシフェルに手間を掛けさせたのだなと言う事だけは解っているつもりだ。

私の為に、人類の為に、神の為に。…そして、ルシフェルの為に。

一番良い未来を今から選択しに行こう。


参ったな、なんて言いながらルシフェルが笑う声を背にして、私は再び歩みを進めた。