残念ながらべた惚れ


イーノックが人間の身でありながら天へと召し上げられたその当時は、その前例の無い出来事に天使達は戸惑い、怯え、ともすれば神に反感の念すら抱こうかとしていた。のだが。
今となってはほぼ全てと言って良い程の天使がイーノックを心の底より歓迎し、また一つの切実な願いでもって彼の事を見守っていた。

ただ一言「いいからそいつ捕まえとけ」と、そう願って。

「イーノック。」
一人の天使が、満面の笑みで彼の名を呼び駆け寄る。その天使はどう見ても男性型を取っているにも関わらず、イーノックに接する様子はまるで恋する乙女そのものであった。
「ああ、ルシフェル。」
イーノックの方も万更では無いらしく、自分よりも少し高い位置にある頬へと手を伸ばすと、そのまま頬を撫で、喉を撫で、気持ち良さそうに目を細めるルシフェルに向かって微笑みかける。
「ふふ、貴方はまるで猫のようだな。」

天使達は思った。


どこが猫だ何処からどう見ても野生の虎かライオンだ。

しかしそんな彼等の想いは笑顔でそのライオンのたてがみを撫でる猛獣使いには届く事が無く、当の本人はその猛獣に何を言われたのか、二言三言交わした後に笑うと素知らぬ顔でふざけた言葉を放っている。
「ルシフェルは案外天然なんだな。」


兄さんそれ天然違う養殖や。


喉の、いや、もう本当に口の中まで出てきている。出さないだけで。この天国で無事に生き抜くには、慈愛や博愛よりも忍耐とか我慢が必要であると訓練された天使達はよく知っていた。

暫くそうして話していたと思ったら、何かを思い出したのか元々言い付けられていた用事なのか、イーノックが緩く手を振り一人何処かへと向かって歩き始める。それに焦りを覚えたのは天使たちだ。
待てって行くんならそこの黒いのも連れていけって。そうしないと…。

「ちょっと、そこのモブ。」
ほら来たこの野郎!上司だと思いやがって畜生!口には出さないがイーノックが此処に来る前から此処はこんな状況であった。いやむしろ来る前の方が酷かった。
しかし我らが大天使長、暁の明星様相手にモブ達の悲しい叫びは残念ながら通用しない。
「暇だ。何か面白い事をしろ。」
先程までのふにゃふにゃした笑顔は何処へやら、一瞬でその瞳が冷たいものへと変化すると、その辺りの天使を数人取っ捕まえて無理難題をその唇から吐き散らす。
全くコキュートスの二つ名は伊達ではない。何処からどう漏れたのか、人間の世界では『大天使ルシフェルは傲慢の罪により堕天使となりコキュートスに繋がれました』なんて話が罷り通っているらしいが実際の所『大天使ルシフェルは傲慢で堕天使も真っ青で生きるコキュートス』これが事実である。その他大勢の天使にしてみれば、全く迷惑な話だ。


さて幸いにもその難から逃れる事の出来た一人の天使が、そろりそろりと近くの茂みに逃げ込むのに成功した。
捕まってしまった仲間の安否を気遣いながらも、取り敢えず一安心とばかりにほっと胸を撫で下ろす。と、すぐ近くに白い塊があるのに気が付いた。恐らく自分と同じように、あの襲撃から逃れて来た天使だろうとその影へと近付き。

危うく悲鳴を上げそうになった。

人差し指を唇に宛て、シィっと小さく息を吐いた彼の視線の先には苛められた天使と、それを庇ったミカエルを前にしてまるで昼ドラに出てくる悪役のような高笑いするルシフェルの姿がある。
そんな事をしていないで良いから今すぐ出ていってあれを止めてくれと叫びたい気持ちが半分、ああでもイーノック書記官はルシフェル様の傍若無人ぶりを見たことが無いから、この惨状を見て言葉も出ないんだろうな可哀想に。と思う気持ちが半分。

そんな何とも言えない居心地の悪さを胸に抱いてちらりと当の美丈夫の横顔に視線を送る。と、何とその相手は何を思ってなのか自信満々とも取れるような顔で笑うときらりと白い歯を見せこう言った。

「俺が気付いていないと思っているんだ。可愛いだろう?」


イーノックお前テメェこの野郎!!

哀れな名も無き天使達の心の叫びは二人の内どちらにも届く事は無く。ただただ歯軋りをしながらその二人を見つめるしか無かったのであった。