手の上


イーノックの必死の働きにより、見事洪水計画は食い止められた。

「やあイーノック…いや、今はメタトロンと呼ぶべきか。本当におめでとう、これで君も晴れて天使の仲間入りだ。」
ルシフェルはいつも通りの薄い笑みを浮かべると、いかにも天使らしくそう祝福の言葉を述べてメタトロンへと手を伸ばした。
メタトロンはその手を取ると固く握手を交わし、戦友とも呼ぶべきその相手に力強い微笑みを返す。

自分がこの使命を無事に終えられたのも、彼のサポートがあってこそだ。ルシフェルにはどれだけ感謝しても足りない。ただ、一つ言わせて貰うとするのなら。

「有難う、ルシフェル。けれど私は、自分の昇天よりも、洪水計画が中止になった事の方がずっと喜ばしいよ。」
「ああ、そう言えば事の始まりはそれだったな。ふふ、お前の昇天にばかり気を取られて、すっかり忘れていたよ。」
そう、これが一つ、ずっと気掛かりだった。

彼は最初から、いや、今この時でさえ、洪水計画についてはひたすらどうでも良さそうだった。
終わった事についてぐちぐちと言うのは趣味ではないが、むしろ終わった今だからこそ言えるのでは無いかと、少しの気の緩みと彼に対する親しみを持って、ぽつりと漏らす。するとルシフェルはあっけらかんと笑って言ってのけた。

「私は未来を知っているからね。」
「洪水計画が実行されないのを知っていた、と言う事か?」
そう言えば彼の身につけているものはどれもこれも未来のものばかりだ。そう考えれば成る程辻褄は合うなと納得しかけたが、彼は緩く首を振って否定すると、少し考えるような素振りを見せてから白い歯を見せ一人ごちる。

「そうだな、お前も昇天した事だし、教えても大丈夫だろう。」

ついておいでと前を歩く長身を追い掛けて行くと、辿り着いたのは大きな水鏡。そこに映っているのは、どうやら人間界のようだ。衣服や使っている道具を見る限り、今より少し未来のものらしい。

「見ていてごらん。」

促されるままに覗き込むと、白い指先が水面に触れ、映し出されている映像が早回しで流れて行く。それを見て私は我が目を疑った。


「あ……あ……。」



人が、人を殺している。



惨たらしく、拷問をして、笑いながら、身勝手な理由で。男も女も大人も子供も老人も殺し殺され憎み騙し怨み。見知らぬ相手に愛していた筈の人間に実の親に実の子供に血を分けた兄弟に師と仰いだ相手に信頼していた弟子に。
目の前で恋人を犯された男は恋人を助けられないまま刺されて死んだ犯された女は恋人を殺された挙げ句に慰みものにされ遂に頭を殴られて死んだ殺した連中は始終楽しそうに笑っていた子供は親が温かい食事を取っているのをもう何日も何も口にしていない状態でじっと見つめていた呪う言葉すら知らない幼い子供は涙を流す体力すら残されていなかった親は死んだ子供をまるでゴミのように破棄した少年達は一列に並ばされて頭を砕かれるのを待っている拷問しか貰った事の無い彼等は皆一同にその最後の瞬間をいっそ期待を持って待っている少年達を見せ物のように殺している男は家に帰れば同じ年頃の息子が居る筈なのに何も感じていない生きたまま埋められたその老人は自分が死ねば家族が救われると信じているのにだがもう既にその家族は全て虐殺されていた老人とその家族の手足の爪を剥いだ人間は友人と笑っている

どこを見ても死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死

「だから言っただろう?私は、どうでも良いんだ。人間のことなんかね。」

死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死 死死死死死死死死死 死死 死死死死死死死死死死死死死死死死 死死死死死死死死死 死死 死死死死死死 死死死死死死死死死死死 死死死死死死 死死死 死死 死死死死 死死死死死死死死死 死死死 死死死死死 死死死死死死 死死死 死死死死死 死死死死死死死 死死死 死死死死死死死死死 死死 死死死死 死 死死死死死 死死死死死死 死死死死死 死 死死死死死 死死死死死 死死 死死死死  死死死死死 死死死 死死死死 死死死死死死 死 死死 死 死死死 死死 死死死 死 死 死 死死  死死 死死死 死死死 死 死 死死死  死 死  死死  死死 死 死死  死   死……


そうして遂に人間は死に絶えた。

これ程までに滑稽な話があるだろうか。死は全てに等しく訪れるなどと戯れ言を言ったのは果たして誰だったのか。平等なんか一つも無い、何が平等だ、何が公平だ。これが等しく降り注ぐものである筈が無い。人としての尊厳を奪われるような事を彼等がしたとでも言うのか。
全てを救うなどと言うのは傲慢でしかなく、私は結局の所何も救ってなどいなかった。洪水が全てを押し流していれば、少なくともあの映像の彼等はああまで苦しまずに済んだのだ。あんな、残酷な死に方をせずに。

「メタトロン?…ああやはりお前は優しいね。人の為に涙を流すと言うのか。」
すぐ傍で聞こえている筈のルシフェルの声はどこか遠い。決して壊す事の出来ない絶対的な隔たりが彼との間にはある。どうしても彼は天使で私は人間だ。

私は初めて神を怨んだが、全ては後の祭だった。

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