浮空


内臓がひっくり返りそうな、何とも言い難い気持ち悪さに、思わずその場に跪いて大きく息を吸い込んだ。

「ふっへへ、情けないなイーノック。まるで生まれたての仔鹿だぞ。」
愉快で堪らないという様子を隠す気配も見せずに、目の前の美丈夫は口先だけの心配を投げ掛けてくれる。
馬でも鹿でも何でも構わない。嗚呼良かった生きていた助かった。

人の足では遅いからと、ルシフェルが移動のサポートを買って出てくれ、その美しい翼をはためかせて俺を誘ったのはほんの一刻ほど前の事。
空を飛ばせてくれるのかと期待をしたのは浮き上がる直前までの話で、普通に生きていればまず感じる必要性の無いであろう浮遊感に、真っ青になりながら息を呑み手に汗を握った。
漸く安定して景色を見る余裕が出たかと思ったら、直後に「降りるぞ。」だなんてそんな馬鹿な。二度目の恐怖にただただ怯えて固まるしか、俺に道は残されていなかった。

確かに早い。俺の足なら1日かかっただろう距離をあんな短時間で移動出来るのは画期的だ。でももう無理だ大丈夫じゃない。
未だに止まぬ身体の震えはきっと魂の叫びだろう。


まぁ割と普段から、この見た目は天使としてどうなんだろうとかは薄々思っていたが。さっさと行くぞと笑うルシフェルの姿が、この時ばかりは本当に悪魔にしか見えなかった。