普段は、喧しい目覚ましの音で目が覚める。
寝起きの頭は怒りを含んでおらずとも力加減を忘れて、今までに何度となく時計や携帯を粉砕してきた。

しかし、今日の朝は少し違った。

窓の外で鳴く雀の囀りで覚醒すると、時間はちょうど目覚ましの鳴る一分前で。何だか今日は良い一日になりそうだと、起き上がってカーテンを開けた。

ハッピー!


「っス。」
「おお、早いな。」
事務所に向かうと、先に到着していたトムさんがストーブの前で暖を取りながら新聞を読んでいた。
「今日から暫く晴れるみたいだぞ。」
「マジすか、良かったー。」
雨の中、外をうろうろと動き回るのはあまり好きではない。それはトムさんも同じだったようで、嬉しそうに笑みを見せるとくしゃりと俺の頭を撫でた。

仕事も到って順調で、珍しく妙な客とも出会うことが無く、鼻歌混じりに歩みを進める。すると、とある交差点の隅で、ご婦人と言った方がしっくり来るような、品の良い老婆が胸を押さえて蹲っているのが見えた。
「大丈夫か?」
「あ、ああ、ごめんなさいねお兄さん。ちょっと、手を、貸して頂ける?」
明らかに顔色が悪い。救急車を呼ぼうかと申し出たが、それには及ばないから何処か座れる所に連れて行って欲しいと頼まれた。
確か、近くに公園があったと思い出し、震える身体を抱えると成るべく揺らさないようにと気を付けながら運んだ。

木陰のベンチに下ろすと、震える手で鞄を開き、そこから出した薬の封を開けようとする。しかし、上手く指が動かないらしく何度もその小さなパッケージを摘み直していたので、貸してみろと奪うとパッケージを開けて皺だらけの手に白い錠剤を落とした。
「水を買って来ようか?」
「いえ、いえ。大丈夫よ、これは、お水が無くても大丈夫なの。」
しかし、水は不要だとの返事を聞く前に俺の言葉を聞いたヴァローナが自販機でスポーツドリンクを購入していた。
「ああ、ごめんなさいねお嬢さん。本当に、有難う。」


暫くして薬が利いてきたのか、呼吸の落ち着いた婦人に俺達も安心して腰を上げる。
「もう大丈夫そうだな。気を付けて帰れよ。」
「ああ、ちょっとお待ちになって。宜しければ、お礼に。」

そう言って婦人が差し出したのは、この近くにある高級ホテルのランチ無料招待券。そんなつもりでは無いと、慌てて首を振った。
「こんな高そうなもの、貰う訳には…。」
「いいえ、本当に、気持ち程度のものです。お兄さん達は恩人ですから。それに、私はもう年だからあまり油っこいものは食べられないのよ。貰って下さらない?」


押し切られるようにそのチケットを受け取ると、何度も繰り返し礼を言う婦人を見送り立ち尽くす。

「飯、行くか?」
「肯定します。」
即答するヴァローナの目はキラキラとしていて、子供のように輝いている。


結局、トムさんも呼んで三人で中華を食った。滅多に食えない高級ホテルの食事は中でもエビチリが絶品で、全員でひたすらにその赤い魔術師を誉めそやした。


仕事を終えて事務所に戻ると、幽からメールが来ていたので慌てて本文を開く。内容は、俺の好きな大物演歌歌手と仕事で会う機会があったからサインを貰っておいたと言うもの。本当に、今日は怖いほど良い事が続く。


足取り軽く帰路についていると、途中の公園で見慣れた猫耳が目につき思わず声を掛けた。

「ん、セルティ?」
彼女の前には鍋の時に見た少年少女が一人ずつ。仕事か、と思わないでは無かったが、そんな雰囲気は微塵も感じられない。
俺が声を出すと、気付いたようで三人は一斉にこちらを見た。セルティと少女は、ビニール袋を下げている。
少年がぺこりと頭を下げた後、唐突に言う。
「あ、お久しぶりです平和島さん。あの、突然なんですけどミカン要りません?」
「ミカン?」
「はい、田舎の両親が箱で送ってきたんですけど、僕1人じゃ食べきれなくて…。もし良かったら、貰ってくれませんか?」

断る理由は無い。そして今、俺の腕にもミカンが一袋。
貰ったのはこちらの方なのに、有難う御座居ますと恐縮されてしまった。いい子だ。
一人で食べれない量では無いが、明日トムさんやヴァローナにも持って行こうと思った。喜んでくれるかな。

今日は本当に平和だった。一回も怒る事が無いなんて。俺の愛する平穏が、これからも続けば良いのに。
夕焼け空は雲が少なく澄み切っており、朝トムさんに言われた通り明日も良い天気になりそうだと笑みを浮かべた。





そしてその日、臨也は食中毒に苦しみ一歩も動けないどころか携帯すら触れずに居た。

END