薄桜鬼-江戸- | ナノ
 




触れて求めて、そこに在る





悪い時に悪い事が重なるというのはまさにこの状況だ、と雪菜は唇を噛み締めた。
目の前で鈍く光る刃に逃げ出したいが案の定背後は壁、重ねて目の前の男はしっかりとこちらを見据えているその頬が赤いのは酒のせいに違いない。
家路へと続くわき道に見つけた喚き騒いでいる男を見てみぬフリをしようと下を向いた矢先に切れた草履の紐、そしてばら撒いてしまったお使いの品々は男の気を引くのには十分すぎた。
慌てて荷物をかき集めて”すいません”と何一つ悪いことをしていないながら謝罪を口にして逃げようとした時には既に遅し。
チャキ、と背筋が凍るような音と同時に男が手にしていた刃の切っ先が自分の首元へとかけられた。

「俺が何をしたってんだ、あぁ?」
「べ、別に何も言ってないじゃないですか……!」
「何だ、お前まで俺を馬鹿にするのか、いいご身分だよなぁお前ら女は!」

ひっく、等と典型的な酔っ払いなのだろう、足元が覚束ない様子が膝をついたままの雪菜の視線に飛び込んできたものの、首元の刃は引かれる気配はない。
普段こういう出来事に遭遇しても見てみぬ振りをして通り過ぎていたのは自分なのに、いざ自分がその状況に直面してみて始めてその残酷さに背筋に冷たいものが流れた。
陽も沈み薄暗くなった周囲にはただでさえ人気が少ない、そんな中で藁にもすがる想いで首を動かさないように視線で回りを確認してみても行き交う人はほんの二名、その二名もそそくさと視線を下げて足早にその場を後にした後姿に雪菜はぎゅっと瞳を閉じた。

「ご、ごめんなさい、許してくださ、い……、」
「へぇ、俺を捨てた女が俺に命乞いか、なかなかいい気分にもなるってもんだぁ?!」
「な、なんでもしますから、命だけは……!」
「ナンでもするのか、女に捨てられたこの俺にか?」

不意に、男の声色に差し掛かったひどく不愉快な笑いを含んだ声に、雪菜は震えて動きの鈍い首を何とか縦に揺らした。
男が手をほんの一突きすればすぐに首元には生暖かい血飛沫が飛び出すだろう今のこの状態においては――男の言うがままに従う他選択肢はない。
既に死後硬直といっていいほどに固まった体、そして感覚のなくなってしまったつめたい足と指先に雪菜は男を刺激しないようにゆっくりと息を吐いた。

「なぁ、本当に俺のためにナンでもするのかって聞いてんだよっ!!」
「はい、はい、します、なんでも……言うとおりにします、か、ら……!」
「まったく、お前ら女ってのはつくづく得な生き物だよなぁ、おい?」

つ、と刃の先で顎を持ち上げられて目にした男はにたりと口元を歪め、やがて砂利を踏みながら手元は動かさずに一歩雪菜へと歩み寄った。
いつの間にか溢れていた涙が持ち上げられる顎と同時に頬を伝うのすら、男にとっては正気を取り戻す要因にはならない。
くつり、と舌舐めずりをしながら見定めるように雪菜を見つめる男に乞いながら雪菜は喉を鳴らして唾を飲み込んだ――もう逃げ道は無い。

「だがまぁ、お前はなかなかの女だし、考えてやらん事もねぇ」
「あ、あ、あのっ……!」
「誰にも他言しねぇって約束しろ、今ここで、さもなきゃぁどうなるか、分かるよな?」
「へぇ、どうなるってんだ?」

トン、と不意に二人だけしか居ない筈の会話に聞きなれない声色と何かが地を突く音が割って入ってきた。
びくりと大きく揺れた男の刃の切っ先が不首元に一瞬だけ深く刺さるが、酔いのせいで手元が緩い男の力では大事には至らない。
既に抜けてしまっている腰に、全身の力も最早入らない、ただ背後を振り返った男に雪菜は着物が汚れる事も気にせずに慌てて腰を滑らした。

「誰だぁ、お前。何か文句でもあんのかぁ?!」
「文句なら大有りだ、こんなところみすみす見逃してやれるほど俺は薄情じゃねーんでな」
「お前には関係ない、こいつは俺の女だッ、俺の女に何をしようが俺の勝手だろぉ、なぁ?!」

がたがたと震えた全身を両手で押さえてはみるが震えは止まらない、それでも男の背後に見える第三者の声の主の姿を確認して雪菜は僅かながらに安堵の息を漏らすことが出来た。
――まだ男の刃がこちらを向いているが命だけはもう大丈夫だ、と少なからず思えたのはその男に酷く見覚えがあったから。
やがて雲が流れて差し込んできた月光に照らされた紅い髪に雪菜は唇を噛み締めながら息を殺した。

「手を出す相手が悪かったな、そいつぁ俺の女なんだよっ、!」

目に見えぬ速さとは正にこの事。
男に一瞬の隙も与えず、そして一言も声を漏らすことも許さず。
強い衝撃が体を走る鈍い音に雪菜は咄嗟に瞳を閉じたその瞬間に、足元の悪い砂利の上に金属が落ちる音がした――男の刃だ。
次いで雪菜のすぐ隣の民家の壁に勢い良くぶつかった音に慌てて隣を振り向けばそこには完全に焦点のあっていない男の姿。
それが視界に飛び込むや否や強張った体に、今度は自分の手がぐいと引き上げられた。

「さ、」
「ちょっと待ってろ」

自分の背後に確実に隠しこんだ雪菜を確認してから、男は――原田は、男の胸倉を掴み挙げ怒りのままに拳を突きつけ始めた原田に、雪菜が止める隙すら見出せないまま震える唇を何度も噛み締めて瞳をぎゅっと閉じた。
男が今の今まで突きつけていた刃への、死への恐怖、そして……目の前の原田が男を殴りつける音。
普段自分の前では見せることの無いその姿に雪菜が言葉をなくして立ち尽くしていると、そんな緊迫した空気に不意にこちらに掻けて来る砂利を蹴る音と同時に長髪を一括りにした男、藤堂の姿が飛び込んできた。

「大丈夫か、雪菜?!」
「へ、へいすけく、」
「よかった、お前が無事で。怪我はないか?」
「う、うん……」

だけど、と相変わらず耳を塞ぎたくなるような人を殴る音に雪菜が怯えたように原田の背後をちらりと見たの視線に気付いたのか、藤堂がゆっくりと雪菜の顔を自分へと向けて耳に手を翳す。
じんわりと温かい彼の手に、とめどなく流れていた涙が頬を更に伝い始める、まるで見るなと言うような藤堂の行動に雪菜が震える唇を開こうとしたその時、一際大きな舌打ちと息の上がった原田のそれに雪菜はびくりと体を竦ませた。

「平助、こいつ頼む」
「まかせとけ、雪菜に手を出したことをみっちり後悔させやっからな。左之さん、後は俺がやっとくから今は雪菜の傍に居てやってくれよな」
「言われなくても、だ」

こいつ、と言って原田が半ば投げ捨てるように地面へと投げ出した男の反応は未だに無い。
酒のせいもあり完全に伸びているのだろう、腫れあがった顔面、そして四肢を投げ出した藤堂より少し大柄な男を易々と掲げ挙げると、藤堂は少しだけ安心した笑みを一度だけ雪菜に向けてから来た道に踵を返し始めた。
時間にして四半刻にも満たない間に全て片付けてしまった二人に未だ実感も湧かずにその後姿をぼんやりと見送っているとすぐに、雪菜の体全体にふわりと何かが降ってきた――原田の温もりだ。

「左之さ、ん……、」
「何やってんだよ、あれだけ夜道は危ねぇから一人で出歩くなって言ってただろう!?」
「ごめ、なさ……急ぎで、要るものが……、」
「お前に何かあってからじゃ遅いんだよっ……!」

全身を包み込まれて抱きしめられた事に、ようやく雪菜は自分の体が未だにがたがたと震えている事に気がついた。
それに気付いたのかぎゅっと震える隙も与えられないほどに強く抱きしめられた腕の中、頭上から降ってくるのは紛れも無い自分の恋人、原田の声。
切羽詰った彼の声色に返事を紡ごうとした言葉の端から涙と嗚咽、そして安心からの恐怖に言葉がかきけされてしまった雪菜に、原田は顔を歪めた。
思わず怒鳴り責立てたくもなる程に怒りが体を支配したが――違う、これは彼女に向くべきものではない。

「ん、とに……」
「さ、」
「、間に合って良かった、んとに……、」
「左之さ、ん、」
「何も、されてねぇな?」

先ほどとは幾分か、無理矢理落ち着かせるような声色の中確認するように問いかけてくる原田に、雪菜は嗚咽が漏れ始めた声の代わりにひたすら頭を縦に揺らし、そして原田の腕の中で体を捩って正面からその大きな胸の中に飛び込んだ。
よかった、本当によかった、という安堵の思いが込み上げ、そしてようやく沸々と湧き出てくるのは罪悪感。
夜は物騒だから決して一人で外には出るな、とあれほど普段原田が口にしていたにも関わらず、自分が彼の言葉を軽んじてしまっていた事に雪菜は嗚咽が漏れ出始めた中で必死に口を開いた。

「ご、めなさっ……っ、……ごめ、」
「分かったら次からは二度と一人で出歩くなよ、お前に何かあったら俺は――、」

涙でぼろぼろ滲む視界の先ではいつものように原田の琥珀の瞳をはっきりと覗き込む事はできない、それでも目に飛び込んでくる彼の苦しそうな、悲しそうな表情に雪菜もまた零れ落ちる涙を止めることなくしっかりと彼の首へと手を回した。
ほんの少しでも多くの隙間を彼の体温で埋め尽くすように、背の高い原田に力なく抱きつけば彼もまた力強く抱きしめ返してくる。
腕の中で涙を零す雪菜の頭をしっかりと抱きしめると伝わってくる震えが止まらない彼女の体には、どれほどの恐怖が彼女を襲っていたかなど原田には想像するに容易い。
もしも偶然に自分が通りかかっていなかったら、と考えると情けなくも泣きそうになってしまう顔を見られまいと、原田は冷たく震える雪菜の髪に顔を埋めた。

「……心臓、止まるかと思った」
「ご、めっ、なさ、」
「もう二度とこんな事はしてくれるな、約束してくれ」
「しな、い、絶対しない……!」

震えているのか、首を振っているのか分からない程の振動が原田に伝わる中、雪菜が縋るように原田へとしっかりと手を伸ばすその姿に、原田もまた自らの震えを打ち消すように壊れんばかりに彼女を腕の中にしっかりと抱え込む。
どれ程路地裏で抱き合っていただろうか、暫くして落ち着いてきた彼女はゆっくりと涙で濡らした頬を原田へと持ち上げた。
未だ小さく漏れ出る嗚咽、そして薄く零れる涙は止まることは無いがそれでも原田の瞳をしっかりと見据えて――雪菜は震える唇を開いた。

「ごめ、なさい、……もう、一人で外でな、い……、助けてくれて、ありが、とう、」

ぐしゃ、と言葉の最後に再び顔を歪めた雪菜に、原田は堪えきれずにその唇に噛り付くように自分の唇を重ねた。
そこに居る、確かに無傷でこの腕の中にいる彼女を確かめるように、何度も何度も冷たい唇を貪り、まるで自分の熱を分け与えるように深い口付けを交わしていく。
その合間に雪菜が苦しそうに空気を求めて頭を引こうと力を込めたのにも気付いたが、それすら今の原田には与える余裕がない。
ただただ、彼女へと漏れてしまいそうな叱責の代わりに唇を貪り続けてようやく――二人を繋ぐ銀糸が名残惜しくぷつりと途切れた。

「お前に何かあったら、俺は俺じゃいられなくなっちまう、からよ……、」
「さ、のさ……、」
「それぐらいお前のことが大事だから、だから、頼むからもうちょっと自覚してくれ。」

”頼む”と息絶え絶えに原田の胸元に顔を埋めた雪菜の耳元で囁きを零すと、こくりと力なく腕の中で頭が一度落とされる。
きゅ、と弱々しく抱きつく彼女を腕に収め、そして原田もまた何度も何度も彼女を腕の中に抱き返して髪の一本一本に指を通し、頬に額に唇を何度も押し付けるそれはまるで何かを確認するかのよう。
やがてゆっくりと恐怖で完全に冷え切った雪菜の体の隅々にまで温もりを落としてから、原田は腕の力を緩めたて見上げる雪菜の顔へと腰を折って視線を合わせた。
口付けとはまた違うその角度で雪菜を見つめ、そしてその脈打つ首筋を指で一撫でしてからそこへ唇を寄せ――確かに脈打つそれを唇ごしに感じて、ようやく、本当にようやく、原田は安堵の吐息を一つ漏らした。

「……無事でよかった」
「ごめん、なさい。……本当に、……ごめんなさい」
「あぁ、」
「……ごめんなさい、……痛、かった……?」

唇を離して覗き込んだ彼女からは、いまだ怯えた色は消え失せる事は無い。
ごめんなさい、と何度も小さくと呟き続ける雪菜はそれでも原田の片手を手に取りその手に小さな自分の手を重ね合わせる。
今しがた男を殴りつけた原田のその拳からは、僅かに血が滲んでいるそれに雪菜が悲しそうに顔を歪めながらその手を大事に大事に両手で包み込んだ。

「これぐらい何ともない、大丈夫だ」
「で、も……たくさん、」

殴ってた、と告げようとして雪菜は口を閉じた。
この場で彼の取った行動を非難するのはお門違いなのは分かってはいる、とはいえ。
あの時一瞬見えた鋭い眼光と原田の横顔を思い出して、雪菜は瞳を閉じて何かを掻き消すようにその拳へと唇を一つ落とした。

「怖がらせて悪かった、けど、謝らないから」
「……う、ん」

例え外傷はなくとも、彼女についた傷は相当深いものだろう、下手をしたら二度と夜道を歩けない程の心的外傷になりかねない。
ましてや自分の愛しい人に起こったソレに、彼女の無事を自分の腕で確認ができた今、原田の心に襲ってくるのは――怒りしかない。
不安そうにこちらを見上げる彼女の揺れた瞳に湧き上がる男への怒りに、原田が拳に一度力を入れると、雪菜もまたおずおずと拳を包む両手の力を込めた。

「あの人……どうなる、の?」
「あんなヤツの心配なんてする必要ねぇだろ」
「……、」
「――殺しはしないから安心しろ」

撫であげた雪菜の髪の毛に唇を一つおくり、未だ不安そうに――恐らく男の行く末を案じているのだろうか、自分が今された事など当に忘れたような表情すら宿している彼女の言う事には、残念ながら今は聞く耳は持てない。
屯所に帰ってからの男への仕打ちにチリと胸中で黒く燻らせながら、原田は雪菜の眼差しに安心させるように笑みを浮かべてながら腕に雪菜を収めなおした。





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まりりん様より100000hit企画リクエストに頂きました。
左之さんに助けてもらって、更に慰めてもうお話という事でしたが……いかがだったでしょうか、左之さんがめちゃくちゃ心配してしまいました。
しかもどさくさにまぎれてキスの嵐とか…!おいこら左之さん、と何度も呼びかけたのですが彼はやめてくれませんでした(チーン)
個人的に、左之さんは言葉よりもスキンシップで安心する人だと思うんです、なんとなく。
もし運が悪ければ命を落としていたかもしれない愛しい彼女の無事を抱きしめて、手に実際に触れて、腕の中に収めて。
そうやって確かに抱きしめて”無事”という事を感じ取るというか、もにょ。そんな感じがします。
特にこんな状況だったらもう、ね。抱きしめてキスをして、何度も何度も髪を撫でて体をしっかり腕に刻んで。
勿論それ以上は路上なんでさすがにしませんが(大事なところです/笑)
そんな左之さんをイメージして書かせて頂きました。
しかし結末が何とも中途半端、は、いつもの、デフォ、で、ごめんな、さ……!
男の人はそれはそれは大変な末路になりそうです、ああ、ごめんなさいどこぞの酔っ払い…!

まりりん様、リクエストありがとうございました!

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