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ゴロゴロゴロ、と石畳の上を滑るキャリーケースの音。
普段使うそれよりかは大分小さいとはいえ、パンパンに詰まったそれを重たく引きずりながら、雪菜は溜息を零した。

「マグルって……不便!」

そう不満を漏らし終えるのとどちらが早かっただろう――不意に飛び込んできた音に、雪菜は目を大きく見開いた。





for good?





目の前にあるのは、大きな木造の扉。
普段苦もなく引き開けていたそこに写るのは、ドアノブを握ろうとしている自分の手と……ソレを引き止める様に置かれている見知らぬ誰かの手。
次いで、背後から聞こえる息を切らしたその音に、雪菜は恐る恐る振り返った。

「っ、おま……っ、」
「シリウ、ス?え?」
「、んでっ……っ、はぁ」

振り返ってすぐ目に入ったのは、肩で息をするシリウスの姿。
こんなに余裕なく息を切らしているシリウスなんて見るのは、どれくらい振りだろうか。
けれども、そんな質問すら雪菜の口から出てこなかったのは、それ程までにシリウスの真剣な瞳と目が合ってしまったから。

「え、えっと……シリウス?ど、どうかした?」
「どうかしたって、お前なぁっ……!」

何とか喉から振り絞った声ですら、シリウスの強い口調にかき消されてしまう。
一体全体何があったのか、と雪菜は開きかけた口をおずおずと閉じてから、シリウスをそっと見上げた。

「、っか?」
「え?」
「おま、日本に帰るってのは本当なのかっ?!」

がっしりと今度は肩をつかまれて、怖い顔で問いただし始めたシリウスに、雪菜は不思議に眉を潜めた。
確かに、今まさに背後にある木造の扉を開いて、馬車と電車と飛行機を乗り継いで日本に帰るところだった。
とはいえ、学校にはきちんとした手続きも取ったし、監督生にもその事は告げてあるし……ルールといったものは一切破っていない筈だ。
なので、ここまでシリウスが真剣に自分を問い正してくる意味がやはり分からずに――雪菜は目をぱちりと瞬かせた。

「そう、だけど?」
「んで、俺に言わねぇんだよ!」
「え?で、でも……リリーには言った、よ?」

別に今更告げる事でもないだろう、そう勝手に思っていたのがそもそも間違いだったのだろうか。
目の前にある、あまりに真剣に怒るシリウスの表情をじっと見返しながら、雪菜は何とか口の端に笑みを浮かべてみせながら軽く小首を傾げた。

「だからっ、……そういう問題じゃ、……っくそ、」

精一杯に作った笑みでシリウスの瞳を真っすぐに見上げれば、次に瞳に飛び込んだのはシリウスの苦しそうな表情。
いつもの余裕のある笑みも、ジェームズ達と悪戯を思いついた時の子供のような笑みも、今は一切感じられない。
ぐ、と奥歯を噛み締めたようなシリウスの表情に、ついに雪菜が萎縮したように視線を落とすと、背後に感じていた木造の扉をシリウスが強く拳を叩き付けた。

「っひ、」
「っ、……な」
「……?」

耳にすぐに響いてきたその音に、雪菜は目をぎゅっと閉じるしか他にない。
一体何がどうして、シリウスがこんなに怒っているのか。
むしろこれ程までに取り乱したシリウスを目にする事自体が初めてで、どうしたらいいのか分からない。

「行く、なって……」
「……え?」

ぼそり、と本当に小さく吐き出されたシリウスの言葉に、雪菜は瞼の力をやわりと抜いてみる。
こちらを見下ろしているのだろうか、右頬の上に感じるサラサラとした感触は、シリウスの毛に違いない。
そして耳に届いた、何かを押し殺しているかのようなシリウスの声に、雪菜はゆっくりと瞼を再度持ち上げてみせた。

「行くな、……頼む、から」
「え、っと……え?あ、あれ、ごめん……何か、約束してた、っけ?」

悲痛にも聞こえるシリウスの言葉に、雪菜はごくりと唾を飲み込んだ。
確かに傍にシリウスの頭が落ちていたのは感じていた、だけど、こんなに近くでシリウスの言葉を耳にする事なんて。
今の今まですっかりと忘れていたシリウスへの恋心が不意に雪菜の胸を打ち付け始め、雪菜は感じ始めた緊張に一歩、足を後ろへと引いた。

「結局は俺だけ、かよ」
「へ、へ?」

けれどもすぐにコツン、と響いたのは引いた踵が木の扉にぶつかってしまった音。
端から見れば、シリウスによって壁に押さえつけられている今の状態では――雪菜に逃げ道なんて一つもない。
そう気付けばさらに熱くなってしまった頬に、雪菜が咄嗟に手を翳そうとすれば――パシリ、とその手を今度はシリウスに掴まれてしまった。

「ちょ、えっ、え?」
「んで、何も言わねぇで帰っちまうんだよ、俺らに……俺に黙って」
「……ごめん、あの、その……シリウス達……最近忙がしそうだったか、ら……」

悲痛に歪んだシリウスの灰色の瞳にすら、高鳴ってしまった鼓動を叱咤しながら、雪菜は視線を落とした。
何度か告げようとはしたし、告げる機会も確かにあった。
けれど、話の腰を折るのも気が引けたし、何よりも―――

「忙しいって!お前のそっちの方が何倍も重要だろ!?」
「ご、ごめ、」
「さっきリリーから聞いて、俺がどれだけっ」

ぎゅ、と掴まれた腕に込められた力に、雪菜が反射的に顔を歪めれば、すぐにその力が抜かれる。
そして解かれたシリウスの手が今度は雪菜の髪に絡まり、しゅるり髪に手を通したシリウスの指先が雪菜の視界に入ってきた。

「ごめん……そんなに怒られるなんて思ってなくて……その、」
「そりゃ怒るだろ、だって俺は――俺は、お前の事が好きだから」
「え?」
「好きだから、お前が……黙って居なくなっちまうなんて、つか、こうなる前にもっと早く言ってれば良かったんだけどな」

ぐいと痛くない程度に引っ張る様に顔ごと、視線を合わせる様にシリウスの手が雪菜の頭を持ち上げる。
勿論、否応なくバチリと重なる視線を逸らそうとしても、しっかりとシリウスの大きな手に掴まれた後頭部のおかげで身動きがとれない。
そもそも、それ以上にシリウスに告げられたその言葉に、まるで全身の時間が止まってしまったかのような感覚に、雪菜は息を止めた。

「、」
「好きだ、雪菜の事が」
「っ、」
「もうずっと、お前だけ見てきた。いつか……言わねぇとって思ってたけど、さ。いつでもお前がソコに居るって勝手に思ってたから、」

"甘えてた"と苦しそうに笑みを浮かべたシリウスの言葉と表情に、雪菜は少しずつ震え出した唇をぎゅっと噛み締めた。
一体全体何が起こっているのか、雪菜の止まりかけている頭では上手く消化しきれない。
日本に帰ろうとして、シリウスが追いかけてきて、告げなかった事を怒られたかと思えば……告白、されたなんて。

「、っと……」
「分かってる、今更ってのは……分かってるけど、もう会えねぇって思うと、」
「、あ、の……?」
「どうしても、言っておきたくて」

さっきまでの苦しそうな表情はどこへやら、一転して優しい笑顔を浮かべてこちらを見つめる温かい灰色の瞳。
どきん、どきんと耳に聞こえる鼓動を感じながら、雪菜が"私も"と頭を頷かせようとして――ふと、聞こえてきた言葉にぴたりと動きを止めた。

「あの、えっと……シリウス?」
「うん?」
「私……帰ってくる、よ?」
「は?」

そしてようやく、本当にようやく今更になって全ての疑問の答えに雪菜の頭が辿り着いた。
日本への帰省は別にこれが初めてじゃないし、今までに年に数回行ってきた事。
それに対してシリウス達が何か慌てふためく事もなかったし、むしろお土産の注文すらあったのが通例となっていた程だったのだけれども。

「日本に帰るっていっても……1週間だけだし……来週また戻ってくるけど……あれ、えっと、リリーにもそう言ってる筈なんだけ、ど……?」

なるほど、目の前で驚いた様に目を見開いてぽかんとした表情を宿したシリウスに、雪菜は肩の力が抜ける思いと一緒に、背後の壁に全身を預けた。
結局はリリーがシリウスへ伝え間違えたか、シリウスが聞き間違えたかなのだろう。
日本へと本帰国だなんて……考えれば冗談にしか聞こえないけれど、どうやら目の前の彼には通じなかったようだ。

「しりう、す?」
「あの……女狐め……!」
「え、えっと、あの、それで……」
「人の気持ち知ってながらあいつは、」

そしてシリウスにも、雪菜の行動、言葉の意味に合点がいったのだろう、途端にシリウスの肩が大きく目の前で落ちる。
同時に漏れた大きな溜息と、そしてぶつぶつと何やら苦虫を噛み潰したようなシリウスの言葉が聞こえてくるが……それよりも、と雪菜は壁に腕をついて頭を抑えるシリウスをチラと見上げた。

「あの、シリウス…………ほん、と?」
「……何がだ?」
「その、さっきの……言葉、」

自分でそう聞いておきながらも、口に出して問いかけてみればすぐに雪菜の鼓動が再び音を大きな音を立てて胸に響き始める。
本当ならば、シリウスも……自分も、もう一度落ち着きを取り戻す時間がたっぷりと必要なのだが……生憎、時間厳守の汽車に乗るためにはこれ以上長居はできそうにない。
自分でも事を急いでいるのは分かってはいるが、と雪菜は急にシンとした頭上をそっと見上げようとして――ぐ、と頭を途中で押さえつけられた。

「いっ、痛っ、」
「くそっ、……今はこっち見んな、情けねぇ顔してっから」
「ちょ、」
「けど、さっきの言葉は嘘なんかじゃねーよ」

照れ隠しなのだろうか、ワシャワシャと無理矢理に撫で付けるシリウスの手。
逃れようと身体を捩らせようとして……耳に届いた言葉に、カッと全身に熱が込み上げる。
どう頑張ってもシリウスの腕の中……正確には下からは、抜け出せそうにない、が、自分の進行方向は背後にある扉の後ろ。
言い逃げなんて良くはないのは、重々承知なのだが……それ意外に馬車に間に合う、否、自分の体が"もつ"やり方が考えられない、と雪菜は背中のドアノブに手をかけなが震える唇を開いた。

「え、えと、あの、シリウス?」
「あ、あぁ、何だ?」
「私も、……その、シリウスが好きだ、よ?」
「へ、」

告げてから、勢い良く振り返ってキャリーケースごと外にでて――すぐに扉を閉める。
想いを告げるのに要した時間は2秒にも満たないだろうが、静かな廊下、こちらを見下ろしていたシリウスの反応からすると間違いなく届いている筈だ。
今すぐ崩れてしまいたくなる膝を必死で奮い立たせてから、慌てて重く響いた扉を背後に押さえつける様に立ってみたが、背後でシリウスが何かをする気配は一切感じられない。
ほう、と息を吐く暇も与えられずに、代わりに、雪菜を急かすように馬車が音をたてて揺れた。

「やばい、これじゃあ本当に帰れない……!」

扉の反対側で、情けなくもずる、とその場に屈み込んでいるシリウスに気付く訳もなく、雪菜はふらつく足取りのまま、キャリーケースを引いて何とか馬車に乗り込んだ。




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中途半端な終わり方は通常運転の証です\(^o^)/



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