彼女の決意 ホカホカと湯気をたてるマグカップを片手に、雪菜は大きな欠伸を漏らした。 背後からカシャカシャという機械音がこちらに近づく音に気がついて振り返るとそこには"師"と仰ぐ黄緑色のボディーを光らせたラチェットの姿。 ハイ、と片手で軽く挨拶をしてみると、目の前の軍医は溜め息に似た排気をパスンと一つ背後から吐き出した。 『またこんな遅くまで……まだ終わりそうにないのかい』 「あら先生、こんばんは。……後少しで終わりそうなんですよ」 『昨日もそういってここに泊まっただろう?……それとも手渡したデータに何か不足はあったかい?』 「いーえ、ただ、完璧すぎて私の頭がついてけないだけです」 まるで親のように腕を組んで自分を見下ろす過保護な師に、雪菜は苦笑を浮かべてマグカップに口を付けた。 同じ基地内に女子寮があるとはいえ、それでも雪菜がこうしてリペアルームに泊まり込むのは珍しい事ではない。 日頃業務をこなしながらもラチェットに教えを受ける事もあるが、それでもやらなければ行けない事を優先しているとどうにも満足の行く情報まで辿り着く事は出来ない。 その結果、仕事が終わってからリペアルームに籠る事が増えてきたのだが、雪菜にしてみればそれは学生時代の延長線上であり今更苦に思う事でもないのだけれど、ラチェットにしてみればこの小さな炭素生命体のいったいどこにそんなバイタリティがあるのか不思議に思ってしまうところだ。 『そんなに急を要する研究じゃないだろう、それは。そろそろ休まないと効率が悪くなってしまうよ』 「んー、まぁそうですけど。キリの良い所まで進めておきたくて」 首を傾げて顔のパーツを顰めてみせたラチェットに、雪菜は口の中に広がる温かいコーヒーを喉に流し込んで納得した様子のラチェットにふ、と笑みを返した。 「私にはまだまだ、学ぶ事が山のようにありますから」 『君の努力を惜しまない姿勢には敬意を示すが、もう十分オートボットの事はここの誰よりも分かっているんじゃないか?』 「……と、思います?」 "そりゃお世話係ですから"なんて普段の彼女なら言葉を返したであろうが、代わりにラチェットの集音センサーに届いたのはいつもよりトーンが少しだけ低い雪菜の声。 どうした、とカシャリと今まで目の前の彼女の実験や解析データの成果を収集していたカメラアイを彼女に向けると、机に背を預けながらマグカップに口を付けたままの雪菜はどこか遠くを見るようにラチェットの足下に視線を落としている。 その様子にラチェットが数回カシャカシャとカメラアイを鳴らした事に、はっと気付いたように雪菜は顔を上げた。 「なんでもないです。ごめんなさい、ちょっとぼーっとしてました」 『雪菜君?』 「これ飲んで頭スッキリさせないといけませんね」 はは、と軽く頭をふるって笑みを浮かべてみせた雪菜のその表情は、ラチェットが普段見るものと何一つ変わりない。 けれども、解析して数値化された声のトーンから読み取れる感情はそれを物語っておらず、キィと静かな音がラチェットから聞こえた事に、雪菜は浮かべていた笑みをくしゃりと歪めた。 例えばこれがレノックス相手だとしたら、眠いのか?ぐらいで話は済むかもしれないが、隣で不思議そうな音を立てたラチェットは欺く事が出来ない。 今雪菜が口に出さなかったとしても、きっと彼は心配をして周りに話を聞いて回るのだろうと思うと――隠すに隠しきれないのが機械生命体を相手にする唯一の辛い所だ、と雪菜は視線を落とした。 「ねえ、先生」 『どうした?』 「あの、」 だがいざ言葉を紡ごうとしても、上手い言葉が浮かんでこない。 脳裏に浮かぶのは言葉一つ交わした覚えはないが、事あるごとに基地内ですれ違う度に自分を射るように見つめるとある隊員達からの視線。 その視線の意味に気付いたのはそれから少ししてからの事で、それ以来ずっと胸の内に燻り続けていたその気持ちは全て研究に費やし、あえて口にする事は無かったのだけれど。 それでも目の前で雪菜の言葉の続きをを待っている師であるラチェットに、雪菜は観念したようにゆっくりと口を開いた。 「私は、……本当に先生の力になれていますか?」 『何を今更。君が居ないとリペアが一向に進まないのは知ってるだろう?』 「だけど、前にここに居た人達も……リペアを手伝っていたんですよね?」 ぽつり、とマグカップを見下ろしたままその水面に言葉を落とすと、暫くの沈黙の後に雪菜の耳にカシャリとラチェットが手を動かす音が聞こえてきた。 反応が怖い、なんて思うのは自分が研究の成果にも知識にも何一つ自信が持てていないせい。 NESTに入隊して1年にも満たない自分がそもそも、それまでラチェットと共に働いていた彼等前任者に敵う訳などないのだから。 『確かに、以前の面子に比べると作業効率においてはまだ劣る部分はある』 パシュとラチェットがよく漏らす排気音が聞こえてきたかと思うと、雪菜の頭にコツンと冷たい金属が触れる。 頭を上げなくてもそれがラチェットの指だという事はすぐに分かったが、雪菜は手元のマグカップを両手で握りしめたままそれをただ受け入れるだけ。 そんな雪菜を見下ろしながら、ラチェットはこの小さな新しい弟子の持つ些細な悩みにブレインサーキットを緩く回転させて古いメモリを開いた。 ――いつだっただろうか、新しく助手として傍に勤め始めた青いロボットが不安な心中を泣きそうな声でラチェットに打ち明けたのは。 「……ごめんなさい」 『何を謝る必要があるんだい。いいかい、以前のチームは3人で編成されていた事を覚えているかね。3人分の仕事を君1人でやっているのだから、すぐに追いつかないのは当たり前だろう?そうだな、今は2.7人といった所かな』 「……そんな力になんて、」 『なっているよ、私の言う事が信じられないのかい?』 するり、と優しく髪を撫でるその手つきはいつも頭を撫でてくれる彼のものとはまた違う。 まるで本当に親が子にするようなその手付きが無性に喉が熱くなる、ごくりと唾を飲み込んでみても引かないそれに雪菜はついに目頭にも熱が籠ったのを感じて瞳をぎゅっときつく閉じる。 真っ暗な視界を前に深呼吸をしたつもりが口から出るのは酷く震えた吐息で、いつの間にか震えていた唇をぎゅっと一度だけ噛み締めてから、雪菜は口を開いた。 「私、ここに居たいんです」 『あぁ、居てもらわないと私が困る』 「私ももっと先生から学びた――、」 『はいはいそこまで、お二人さん』 不意に割って入る声と共に、ガシャン、とこの静かなリペアルームには似合わない大きな音が突然響き、思わず持っていたマグカップを慌てて持ち直して雪菜は背後を振り返った。 今の今まで人気も無く誰もいなかったそこに陣取っているのはもちろん、声からも分かっていたけれども彼氏であるジャズの姿。 大股でこちらにズカズカと向かってくるその姿をぽかんと見上げていると、目の前までやってきた彼はニッと金属の口元を持ち上げて雪菜に恭しく"ごきげんよう"とお辞儀を一つしてみせた。 「ジャ、ズ?え、どうして?」 『そりゃ研究詰めの彼女を迎えにきたにきまってんだろう?』 「え、で、でも私……、先生?」 もしかして、と頭上にかかるラチェットの指先からカメラアイを見上げてみると、それを肯定するようにカシャリと一度瞬く。 そんな、と雪菜が声を上げようとした矢先、頭にあったラチェットの指が器用に雪菜のマグカップをつまみ上げてしまった。 『連日籠りっきりで脳内効率が悪くなってきているからね、今日はもう帰りなさい』 「だ、だけど……って、う、わっ!」 『はい、つぅわけで捕獲完了』 ラチェットからの軍医らしい言葉を聞くや否や、ひょいと浮いてしまった身体はもちろんジャズに文字通り"掴まれて"しまったから。 絶妙な力加減で手のひらにすっぽりと包まれてしまっては抵抗も何も出来たものではない。 それでも今目の前においてある解析データや、実験機材をそのままにしておく事も出来ないし、と彼の人差し指辺りをコツコツと強めに叩いてみるが――自分の手が痛くなるだけだ。 「ジャズ、駄目よ、私まだ、」 『今日ばっかりはお前の言葉は受け付けねーぞ』 『ああ、この辺りは私が片付けておくから気にしなくていい』 「え、そんな……!」 慌てて頭を振ってみるが、くつくつと笑った目の前の師は"医者命令だ"なんて笑って雪菜の頭をもう一度ぽん、と撫で付ける。 トスンと落ちた頭に、すぐに頭上でそれを振り払う金属音が響いてきたかと思うとすぐにジャズからフン、と鼻を鳴らす音が聞こえてきた。 『それに、どっかの医者に手出されるのも勘弁だしな?』 『それはそれは、今後は見つからないようにするよ』 『言ってろ、今の今まで回線切りやがって』 そう、つい先ほどまでラボの光がついている事に気がついたジャズが何度もラチェットに"雪菜はそこか?"と連絡を取っていたのに一向に回線は通じない。 加えて、実験中に携帯等触る余裕もない彼女には電話をかけても勿論繋がる訳もない。 “研究に熱中するといつもこうだ"と不満ながらも自分が何か手伝える事も無いし、とひたすらラボに注意を送りながらも待つ事数時間。 いい加減に部屋に戻さないと、それともまたラボで寝るのか、なんて事がジャズのブレインサーキットを過った矢先に入ったラチェットからの回線は"迎えにきてやってくれないか"、だ。 「本当、強引なんだから」 『……で?』 「え?」 そうラチェットから言われるや否やラボに一目散にかけつけると、聴覚センサーに届いたのは雪菜とラチェットのやりとり。 趣味の悪い軍医のせいで何故か防音になっているリペアルームから拾えるのは本当に僅かな音声ばかりではあったが、それでも彼女の声色がいつもとは違うという事だけはかろうじて聞き取ることが出来た。 もちろんこれが、回線をわざわざ切っていたラチェットがあえて自分を呼び出した理由なのだろうが、未だにその理由はジャズには見当がつかないまま。 腕の中を見下ろしてみると抵抗の色は示しているものの、いつもより疲れが伺える彼女の様子にジャズはグレーの排気を背後から漏らした。 『何で泣いてたんだ?』 「泣いてなんて、」 『俺に隠し事、通用すると思ってるのか?』 早々にラチェットに別れを告げてからギィ、と格納庫から外に連れられると昼間より少しだけ冷たい外気が雪菜の肌に触れる。 ぶるり、とその温度差に雪菜が身体を震わせるとすぐに、自分を抱えたままジャズがソルスティスへと変形してしまいストンと身体が助手席へと落とされた。 その変化にいつもなら“もう一回"と目をキラキラさせながらねだって見せるのだが、かけられたジャズの言葉に雪菜は口を閉ざしながらやがて動き出した車の助手席から窓の外を眺めて――ぽつりと口を開いた。 「……私、ジャズとも、皆とも離れたくない」 『……それは俺もだし、俺らも思ってる事だろう?』 「だけど、他の人がそう思ってるとは限らないじゃない?例えば、……前にラチェット先生の助手だった人達、とかは。だから……頑張らないと」 まるで独り言のように語気弱く呟く彼女を車内のセンサ―で見つめ、その横顔にジャズは車のスピードを落とした。 頑張らないと、そう紡がれた彼女の言葉の裏に隠された思いにジャズはようやくああ、とスパークを一度だけ光らせてシートベルトで押さえていた彼女の身体を強く締め直す。 それに抵抗も見せずに、シートベルトを握り返した彼女の握力を感知して、ジャズはカーステレオから溜め息を漏らした。 『、あいつらなぁ』 「……ジャズも面識あるでしょ?」 『あるっちゃ、あるが……、』 なぁ、と言葉を濁したジャズに雪菜は窓の外に向けていた視線をステレオへと向けた。 もちろんジャズ達のリペアの手伝いをしていたのだ、知っていて当然だろうと思ったが同時に車内に居心地の悪そうな音が低く響いてくる。 『あんまり俺は好きじゃなかったけどな、昇進昇進って』 「昇進?」 『NESTは俺らが中心だろう?だから俺らに取り入れば昇格も昇進も簡単にできるって訳だ』 「そういうもの、なの?」 正直言って人生において軍なんてものに興味の一つも沸かなかった雪菜にしてみれば、軍のシステムも、昇格さえも良く分からない。 今の立場からするとそれなりの給与が貰えて好きな仕事ができる、それで十分なのだが、そんな雪菜に"お前らしいよ"とカーステレオから響いたジャズの声に雪菜は首を軽く傾げてみせた。 『別に俺はそれを否定はしない。軍というのはそういうものだからな』 「……、」 『だけど、俺らだってお前等からしたらただのロボットかもしれねーが、"オイル"の通ったロボットなんだ』 「う、ん?」 『事あるごとに実験材料に使われて、昇格への踏み台にされて……いい気はしねぇよな?』 そういえば、彼らがサイバトロンに居た時の話しを雪菜も何度か聞いた事がある。 イメージは上手くはつかないが、軍という部隊に属し、現に今も副官としての仕事を日々こなしている彼のいうことだ、きっと本当に"軍"とはそういうものなのだろう。 その上告げられたジャズの言葉に、雪菜は車内で眉間に皺を寄せた。 前にラチェットの元で働いていた3人がどういう人物かは一切聞かされていない、そもそも前任者が居た事を知ったのも彼等の元で働き始めてから随分とたった後だったのだから。 それに対して雪菜がラチェットやレノックスに詰め寄る事もあえてしなかったのは――一度たりとも話題に上がらなかったから。 つまりそれは、雪菜にとっては知るべき情報ではないという事であり、てっきり雪菜は理不尽な自分の採用のせいだと思っていたのだが。 告げられたジャズはまるで前任者と居る事に辟易した様子の声色、人間の事を滅多に悪く言わないジャズがこうなのだから――余程なのだろう、と雪菜は口を閉ざした。 『ま、分かってたのはレノックスぐらいだったけどよ。だからお前に声をかけたんだろう。ブち切れそうなアイアンハイドを押さえるのもそろそろ限界だったし、リスクはあったがそういう輩を一掃する良いチャンスでもあったからな』 「そうなんだ……」 だからあの時の半ば強制的な勧誘があったのか、と雪菜は少し前のレノックスの事を思いだした。 あの時はただ、本当に人手不足でかつ偶然にも機械がわかる自分が関わったからだと適当な理由をつけていたのだが、まさかそういう事情があったなんて。 ゴン、と窓に頭を当てながら雪菜は深い域を漏らした――今まで、彼等機械生命体が人間に対して下手な先入観を持たないようにとばかり考えて"お世話係"として働いてきたが、考えてみれば人間が彼等に持つ先入観の方が遥かに多いに決まっているではないか。 普段レノックスやエップス等、オートボットに協力的な人物との接触が多いが故に完全に失念していた、と雪菜はシートに身体を深く埋め込んだ。 『だから、ちゃんと"ロボット間扱い"してくれるお前の方が俺らにとっては有り難いんだよ』 「確かにそういう人も居るかもしれないけど、理解があるのは……私だけに始まった話じゃないわ」 『あぁ、そうだ。それだけだとここで生きていくのは確かに難しい。だけどお前は既に持ち前の機械の知識でここに貢献してるだろう?』 「……全然」 溜め息まじりに、と口を尖らせて首を横に振ってみると、どこで感知しているのかすぐにジャズがらくつくつと低く笑う声がカーステレオがら響いてくる。 力になれてるかなれていないか、問われてしまうとやはり後者だと言ってしまうのは自分の中で納得する何かが見つけられていないから。 一応院にまで行く程に研究に明け暮れた分野だとはいえ、未知なる彼等から教えてもらう技術は目を見張るものばかりで勉強になる反面、自分の未熟さを思い知らされるばかりでもある。 『謙遜は日本人の美徳ってな』 「べ、べつに私は……、』 『んなら、辞めて逃げたいか?』 なぁ、と軽くボディーをまるで揺かごのように揺らした彼に、雪菜は思わずくすりと笑みを零した。 あえてこんな言い方をしたのだろうジャズの言葉に首を軽く振って目の前に見えた女子寮の入り口にシートベルトへと手をかける。 カチンと音を立てて外れたそれは本物のようにシュルルと音を立てて元の位置へと納まり、雪菜は自動で開いた扉から身体を出し――笑みを浮かべて振り返った。 「……まさか。日本人の勤勉さは世界のお墨付きよ」 『それでこそ俺の女だ』 そう、だからこそ連日連夜の泊まり込んでまでの研究を続けているのだ。 今はまだ敵わないがいつか胸をはれる日が来るように、と。 少し弱気になってしまったのはラチェットのいう通り連日籠りきってしまったせいだろう。 ふふ、と笑ってソルスティスのフロントウィンドウに軽く唇を寄せて"ありがとう"と囁けばジャズからはピュウ、と口笛の様な音と嬉しそうな笑い声があがる。 "お休みなさいプリンセス"なんてどこかの黄色い斥候のように繋いだカーラジオに、雪菜も笑みを浮かべておやすみを返した。 **** >>back |