短編(FGO) | ナノ


▼ ハイドからチョコのお返しが欲しい

「僕に寄り添ってくれるのかい?」
 昔、ジキルのふりをしてマスターに尋ねたことがある。返答次第では殺そうと思った。使命感を持っていた。助けを呼ばれたら面倒なので先ずは喉を潰して令呪のついてる手首を切り落として、それからゆっくり遊んでやろう。理由はない。あえて動機を挙げるならば『なんとなく』。あの日はそういう気分だった。
 マスターは曖昧に笑って一言だけ返した。
「何度も同じこと聞くなよ」
 行き場を失った殺意が拡散して消えた。なんとなくの質問は、ジキルが使い古したやりとりだった。
 あれから一年。藤丸立香が何を考えているのか。ハイドは未だに分からなかった。






 生誕を祝福され、繁栄を憎悪された獣は、全てがぐちゃぐちゃに溶けて消えた。これがハイドから見た『ジキル博士とハイド氏』のすべてである。


 ジキルとハイドはひどく不安定なサーヴァントだった。特にハイドの記憶の混濁は他の狂化サーヴァントの比ではなく、ジキルと共有しているはずの情報をすっぽぬかす、さっきまでの話題を忘れる、などのトラブルは日常茶飯事だった。本当に記憶が欠落しているのか、本人に覚える気がないからなのか――本当のところはハイド自身にも分からなかった。深く考えるほどの自我は、ハイドという一面には与えられていなかった。
 カルデアの人々は、そんなジキルとハイドを排除しようとはしなかった。令呪の縛りは、ハイドという暴力機関に兵器としての価値を与えた。ジキルの誠実な性格は人間関係の円滑化を後押しし、ついぞ召喚一周年を迎えてしまった。
 むず痒かった。どうしていいのか分からなかった。多くの人々にハイドの正体がバレてるのに平和なのだ。全く未知の環境だ。それなりに楽しかったし、まあどうでもいいか。暴れられればそれでいい。この一年で思案し思い悩んだジキルと違って、ハイドという一面はただそこに在るだけの時間を甘受した。

 甘受していただけなのに。気がつけば人類史を救ってしまっていた。

「……」
 各サーヴァントに割り当てられた自室に戻れば、机にぽつんと包み紙が置かれていた。中身はチョコだろう。今日はバレンタインデーなのだから。
 いい子ちゃんのジキルはカルデアの職員にもたいそう好かれていて、たくさんのチョコを貰っていた。けれどどれも直接渡される品ばかりで。こんな面倒くさい渡し方をする人間は一人しかいない。
 藤丸立香。ジキルとハイドを、ジキルとハイドの自我を共存させた状態で召喚した男。今や世界を救った唯一無二のマスターだ。

 ある人間は語った。神と決別し、人の力だけで歩むことを浪漫と呼ぶ。オレにとっての神様はジキルだった。けれどロマンティックを肯定したカルデアの人々は、不思議なことにオレがジキルを殺して自由になることを肯定しなかった。多くはハイドを戦力として許容した。けれどそれはジキルありきの付属品としての肯定だったのだ。
 ハイドという一面は恐ろしい。けれどジキルの願いは尊いものだ。だからカルデアは彼を戦力に数えている。今はもうカルデアにはいない医者はそう評価していた。
 マスターだけは、少し違った反応をしていた気がする。

 『藤丸立香より親愛を込めて』。チョコレートの詰め合わせの袋の下には、短いメッセージが添えられていた。
 あの男らしいとハイドは鼻で笑った。マスターは、ジキルとハイドを対等の関係だと認識していた。『ジキル博士とハイド氏』。食い殺された主人と、主人を食い殺して破滅した獣の物語を知らないのだろうか? 力関係はともかく、ジキルとハイドには明確な上下関係が存在していた。そんな逸話を知ってか知らずか、マスターの少年はジキルの正義を肯定せず、ハイドの悪逆を否定することもなかった。逆もまた然り。間接的に渡されたチョコレートは、オレたちとマスターの徹底した無干渉の関係を象徴している。その根底にあるのは、嫌悪とか恐怖とか、マイナスの感情に基づくものではなかった。
「ひゃはは、よく分かってるじゃねえか」
 僕/オレに直接会わないのはマスターの配慮だ。あの男はジキルとハイドが同一人物であるか他人であるかを判断しかねていた。どう思われたがっているかすら隠したい。そんなジキルの思いを察したチョコの渡し方がこれだ。
 複数ひと組のチョコレート。きっと二の倍数分だけ詰められているに違いない。はい、大正解。ジキルはジキルだけにチョコレートを贈られても、ジキルとハイドの二つのチョコを手渡されても、決して消えない怒りと悲しみを胸の底に蓄えただろうから。二者択一の難問を、どちらも選ばないことで解決したのだ。我らがマスター様はジキルの扱いを分かってらっしゃる。
 袋を開封して、中身をかっさらう。甘い。ハイドの舌を満足させる質ではなかった。半分食べたところで胸焼けを起こし、残りの半分は部屋の隅に放り捨てた。ジキルへの分け前など残す筈がない。ジキルも多分同じことをしたはずだ。それらすべての行為の理由を、ハイドは自覚しなかった。
 マスターは進んでジキルに霊薬を飲ませた。ジキルも同意して、ハイドが暴れる。それだけの関係だ。暴れられればそれでいい。無知、愚行、反射行動。それらがハイドの持ち物であった。チョコレートの意味や人間関係に悩み苦しむのはジキルの担当なのだから。







「お返しちょうだい」
「ハァ?」
「だってオレのチョコ食ったのハイドだろ」
 翌朝。ジキルとハイドの自室に堂々と侵入したマスターは、白い獣を膝に乗せてベッドを占領していた。
「僕のおにぎりは、お返しとしてはダメだったろうか。もしかして形が崩れてたり」
「そうじゃないって。あれはジキルのお返しじゃん。ハイドからはなにも貰ってない」
「あ゛ん?」
 お返しプリーズ、ちょーだいちょーだい。駄々をこねる姿は年相応だ。むしろもっと幼い。怒りよりも先に、ハイドが覚えたのは困惑だった。
「キモい。そういうことするキャラじゃねえだろ」
 過干渉。それはジキルとハイドに接するマスターとしてありえない行為だった。口約束したわけでもないが、いつの間にか完成していた付かず離れずの関係性。ハイドチョコの礼ををねだる行為は、今までの全てを壊してしまうような危険行動だ。ジキルの最も繊細で触れられたくないハイドという一面を、真正面から肯定するようなものなのだから。まあジキルは面倒くさいやつだから、ハイドの存在を否定されても怒るんだけどな。おっと話がそれた。
「そりゃあ、まあ、昔のオレなら放置したかもだ。 でもオレは生きた人間だし。日々成長して変化していく生き物だし」
「いやいや、キモイわ。ないわ。僕とオレにだけ二倍のお返し求めるとか卑怯じゃね?」
「ジキルとハイドにだけじゃないんだけどなー。ダヴィンチちゃんとか男女二通りの素敵なデートをしてくれたし。それにプレゼント交換は沢山やったほうが楽しいだろ」
 ごろりと寝返りを打って、白い獣の腹に顔を埋める。近づいて顔を覗き込めば、青い瞳と目が合った。
「ハイドはさ、生きてるだろ?」
「……」
「待て待て、ノーナイフ、ノーライフ。あれっ、意味が違う? とにかくステイ、ステイ」
 よし、言い分を聞いてやろう。オレ様ちゃんは今大変機嫌がよろしい。というか今日のマスターの気持ち悪さ加減に若干興味がある。暴力対応はそのあたりをハッキリさせてからでいい。皮肉のきいた殺し方は嫌いじゃないのだ。
「だって、お前は今ここでちゃんと生きてる。ハイドはジキルの生きた結果なんだ。何も残さないまま消えてなくなるのは、ちょっと寂しい。ジキルのお返しはとても嬉しかった。でもハイドからお返しも欲しい」
「……ああ、ナルホド?」
 今まで無干渉の距離感を保ってきたマスターが何故バレンタインなどという浮かれたイベントで突然ハイドに執着したのか。ようやく合点がいった。

 思い出すのは終局特異点での激突。あの日、あの時、あの戦い。

 藤丸立香は人を殺した。ハイドはソレを見届けた。

 未練がましくあがく敵の首を、手っ取り早く跳ね飛ばそうとした。マスターは令呪まで使ってハイドを引き止めた。マーリンとアンデルセンに援護を命じて、マシュ・キリエライトの円卓盾を抱えて、血反吐を吐いて立ち向かって、アレの最期を自らの手で奪った。サーヴァントに命じるのではなく、人類最後のマスターとしてですらなく、ただの一人の人間として人を殺した。こいつは人殺しだ。オレ様ちゃんと同じ、けれど何処かが決定的に違う、同類。
「人を殺して一皮剥けましたってかァ?」
 きっと殺人行為がこの男を変えたのだ。ハイドは笑った。あまりにも馬鹿馬鹿しかったから。バレンタインのお返しをねだったのは、ハイドにあの男を投影したからだ。
 人王ゲーティア。人類史を焼却し、大騒ぎを起こした全ての元凶の成れの果て。ハイドには悪役の悪あがきにしか見えなかったそいつは、マスターの憎悪兼、怨敵兼、運命らしい。彼の命の重みは、人生未満の一生しか得られなかったハイドには理解できない。だからくだらない存在だと一蹴して、センチメンタルなマスター様の悲哀を笑い飛ばしてやるのだ。
「誰かに生み出され、製作者に喧嘩売って好き勝手して、その結果に残っちまった物語の集大成! 人理補正式のオマケモード、単体じゃ動けない筈の焼却式の残骸が素敵な奇跡で稼働して! 存在自体がありえない被創造物の独り歩きって点じゃ、確かにそっくりですねえ! ははははははっ! あんな雑魚とオレを混同してんじゃねえぞ、死ぬか?」
 マスターは、首を横に降った。そんなことはない。オレは生きたいよ。真面目な声だった。終局特異点で語った言葉と何一つ変わらない。
 ナイフを取り出して切っ先を向けてやれば、小さく息を呑んで体をこわばらせた。それでもマスターはオレから目をそらさない。
「オレを人王とやらと重ねているようだが、あのミソッカスの執念と同類扱いされるのは純粋に腹が立つ」
 魔術式ゲーティアがどんな存在で、どういう意図で編纂されて、どういう推移を経て、人間に至ったのかハイドは知らない。考えたくもない。けれど相対するうちに嫌でも気付かされたことが一つだけあった。
 あの生き物は、殺されたがっていた。死にゆく運命を理解し、寿命を縮めてまで足掻き、最期の責任を藤丸立香に押し付けた。放っておいても崩壊する身体を熱量に変換して攻撃を放つ。しかし自爆特攻だけはしなかった。死にたくなかったからではなく、生き延びたかったからでもない。あの人間は、最高の闘争の末に藤丸立香の手で最期を飾りたがっていた。
 死にたがりを殺すのは殺人じゃない。"殺人"に美しいドラマを加えれば"介錯"という善行になってしまう。ハイドは悪逆を愛し、善を憎む者。人類悪なんて大層なものではない、一人の男の悪性の抽出物にすぎない。それでも机上の悪逆論には誰よりも敏感だった。
「殺人に美談を付け加えるのは嫌いだ。楽しい悪逆も美談サマの手にかかればあっという間にクソつまんねェ善行に変わっちまう。美しく死のうとしたアイツと同一視されるとか死んでもお断りしまァす。何が美談だ。あんなもの、程度の低い悪逆じゃねェか」
「お前がそう言ってくれる奴だから、オレはお前にもチョコをあげたし、お前からのお返しがほしいんだよ。人王ゲーティアはオレの無二の運命だ。きっかけがあいつなのは否めないけど、投影なんてするわけ無いだろ」
 そう返すマスターの目には強い意志が浮かんでいる。怒っているのはこちらだというのに、叱られたのはハイドだった。納得がいかない。機嫌が急降下していく。ナイフを振り下ろす前に、マスターは言葉を続けた。
「改めて礼を言わせてくれ。ありがとう。お前のおかげで終局特異点の戦いを、ただの美談で終わらせずにすんだ。『どいつもこいつも皆殺しだ』って嗤ってくれたのはお前だけだった。オレがやったのはお前の言うとおり、皆殺しだったのかもしれない。魔神柱を殺し、助けに来てくれたサーヴァントたちを見殺し、魔術王を殺し、マシュに守られて、ドクターを、」
 言葉が途切れる。思い詰めたような表情を浮かべたのは一瞬だった。
「ソロモンを殺して、ゲーティアを殺した。直接手を下したのは人王だけだったけど、結局のところは皆殺しだったのかも」
「……おーおー、ざまあねえな。愛と希望の物語とやらが泣いてるぜ」
「あー、そこは否定させてくれ。ドクターにとっては愛と希望の物語だったんだ。ハイドの皆殺しって見方がドクターの浪漫を侵食する道理はないだろ」
 感謝されている、のか。よく分からない。ハイドの言葉も今は無き――本当にどこにもいない――医者の言葉も否定せず、けれど全肯定もしない。これじゃあまるで今までの無干渉主義の。
「ドクターは愛と希望の物語を信じた。けれど、ハイドは皆殺しだと嗤った。ジキルは善と誠実を信じ続けたからたどり着けた結末だと喜んだし、アンデルセンは表裏一体の愛憎物語だって皮肉った。マーリンは完全無欠のハッピーエンドだと祝福した。
 オレは、ロマンティックな結末であって欲しいと思う。でも妄信しちゃいけないんだ。生き残ってしまったオレは、あの結末について一生考えていかなければならない。そのための新しい視点をくれたハイドの言葉がオレは純粋に嬉しかった」
 この男は全く変わってない。人を殺して変質したのは確かだろうが、無干渉主義の根っこはちっとも変わっちゃいやしない。ジキルがハイドという側面を持っていたことを、そして悪逆の側面であるハイドが全てをあざ笑ったことを、全く否定していない。むしろ喜んでいる。
「世界を救ったあの日、あの場所に。ハイドがいてくれて本当によかった」
 言葉を聞き終わる前に、ハイドはブーツの底をマスターの顔面に突き出していた。柔い鼻っ面をへし折る前に、全身を締め付けられるような痛みが走り、硬直する。令呪の拘束だった。
「フジャッケンナッ! 死ね!」
「嫌だよ」
 ひとしきり暴れて、諦めた。対魔力スキルの無いハイドが令呪に逆らうことはおそらく不可能だ。
「オレは、日頃の感謝をハイドにも伝えたかった。あの結末にオレの知らない視点を与えてくれた、ジキルの一面である君に。だからこそ、他でもないハイドのお返しが欲しい。オレのチョコ、食べたんでしょ」
「お返しなら僕がもうしただろう」
「いーじゃん、ケチ。クー・フーリンやスカサハだって霊器の数だけいっぱいくれたのに」
「馬鹿だろ、マスター」
 ああ、腹が立つ。せめてオレに良心を求めてるならナイフの一つや二つ御見舞してやるのに。こいつが求めているのは純粋な対価だ。動機が動機なので頭を抱える。藤丸立香の殺人は悪逆だったと侮辱したハイドの存在に、どうして感謝してやがる。
 断ったり逃げたりするほうが面倒くさそうな気がしてきた。普段使わない頭を必死に回して、答えを出せないまま疲労に負けた。やっぱり難しいこと考えるのはジキルの担当だわ、と再認識する。
「あー……うー……」
 特別。トクベツ。お手頃なお返し。相応しいものなんて持っていたか?
 自室の机の引き出しを手当たり次第開けて中身をひっくり返した。菓子の食べかす、ペン先の潰れた万年筆、よく分からない塩類、動かない時計、誤字して廃棄し忘れてた書類、留め具の壊れたループタイ、欠けた指輪、血の付いたコイン。後ろから覗き込んできたマスターは、悪臭に顔を歪めて一歩引いた。生ゴミが腐っていたからだ。
「お前、収集癖とかあったのか。整理しようよ」
「オレ様ちゃんは審美眼には自信があるぜ。ほら見ろ、アメジスト、シルバー、ダイアモンド。本物は輝きが違う」
「頼むから生前の所有物だと言ってくれ。召喚後のコレクションだったら、ショックだ。全部どこか壊れたり血がついたりしてる理由は聞かないほうがいい感じか。ついでにその生ゴミの正体とかも」
「残念でしたぁ、聞かれたところで忘れてる」
 次からは全力で止めよう、というマスターの小声の決心を聞き流す。一番下の引き出しを探る。鍵はなくしたので力ずくでこじ開けた。クソマスターが満足しそうな品は、はてさて見つかるだろうか。
 奥から顔を覗かせたのは、懐かしい物品だった。これだけは、手に入れた瞬間のことをしっかりと覚えていた。ひっつかんで生のまま手渡す。ラッピングなど無い。
「やる」
「…メガネ? フレームが歪んでるっぽいけど」
「俺様ちゃんが初めてぶっ壊した記念品でございます。喜べ」
「あー、なるほど、そういう感じ」
 ジキルが初めて霊薬を飲んだ日。オレに自我が芽生えた日。最初の悪逆は、本当にちっぽけなものだったけど。それでも記念品には違いない。
 マスターは興味深くレンズの割れた眼鏡の遺体を眺めた後、大切そうにハンカチで包んだ。カルデア中のサーヴァントからチョコとお返しを集めているらしい。収集癖はどっちの悪癖やら。
「ハッピーバレンタイン。いつもありがとう。今年もよろしく頼むな、うちの火力担当様。今日の話はジキルには内緒なー!」
 そう言い残して、マスターは去っていった。ジキルとハイドが記憶を共有する基準はハイドも自覚していない。筒抜けの可能性もある。面白そうなので黙っていよう。

 なんだかどっと疲れた気がして、ハイドはベッドに倒れ込んだ。
「フォーウ?」
 枕元では白い獣が毛づくろいをしていた。その脳天気な姿にあまりにもむしゃくしゃしたものだから、握り潰そうとして、やっぱりやめた。
 この獣は今までハイドに近寄ることはなかった。ジキルの悪逆であるハイドは、普遍的な視点から見ても善いものとは判断されない。悪性を察して避けていたはずの獣は、人理修復が終わったあの日から知恵の無い正真正銘の小動物に変質してしまった。目と鼻の先でくつろぐ獣は、もはや別の生き物だ。きっとハイドの知らないところで、ハイドの知らないドラマが有ったのだ。マスターは詳細を知っているのだろうか。
 考えるのが面倒になって目を伏せた。事物の結果だけを見て詳細に想いを馳せるなどハイドには向いていない。やはりこういうのはジキルの担当だ。
 つーか、そもそも、ジキルとハイドがこんなギリギリのバランスで一年以上保ってるのがおかしい。自我が生まれた日をハイドの誕生日とするなら、カルデアでの生活はすでにハイドの享年を超えている。普通なら破綻しているはずなのだ。あのマスターは、ジキルの方がいいとかハイドの方がいいとか、悪性を内包するジキルだとか善性を内包するハイドだとか、そういう偏った見方はできなかったんだろうか。どっちつかずでかれこれ一年。ジキルは何かを見出したようだが、ハイドにはさっぱり分からない。無干渉こそ人間関係の美徳だとか、青臭い思想を持っている訳じゃなさそうなのに。どこまでも普通なのに、見覚えがない。ジキルとハイドが会ったことのない人種だ。なんだあいつ。
「フォウ!」
「んー」
 肉球の感触が首筋を圧迫する。鬱陶しいが、放置した。この獣はすでに、急所を晒したところでどうにかなるほどの脅威ではない。何も考えてないのだ。
 何も考えていない。
「あっ、もしかして」
 ハイドの脳裏に浮かんだ新案は、異様にしっくりくる結論で。おいおい笑えねえぞ。
 実はあのマスターこそ何も考えてないんじゃないか、とか。無干渉主義に意図はなく、そもそもそんなものが最初から存在していない?
 考えすぎは、ハイドの方だった?
「くっだらねェのォ……」
 ベッドと壁の隙間に、チョコの袋が挟まっているのを見つけた。マスターのチョコの余りだった。なんとなく口に入れれば安っぽい甘さが広がった。
「ハッピー、ブラッディー、バレンタイーン」
「フォーウ!?」
 振り下ろしたナイフは白い獣を捉えることなくベッドに小さな穴を開けた。慌てて逃げ去っていく小さな白い後ろ姿を眺める。特に理由などない。ハイドはそういう生き物だった。
 ただ在ることにだって意味はあるのだと。笑って話す着物の女性の存在を、ハイドは知らない。





【最初の悪逆】
 ハイドからのバレンタインのお返し。壊れた眼鏡。

 いつの時代も悪党は戦利品を収集したがる。ハイドもその例にもれない。
 愛用品にアクセサリー、無機物から生ものまで、コレクションは幅広く。唯一ハイドが入手経緯覚えていた壊れた眼鏡は、誕生直後に反抗期を迎えた悪逆の申し子の記念すべき初めの一歩だ。

 なお人格交代時に毎回メガネを投げ捨てているせいで、未だに破壊記録更新中である。ジキルにとっては胃が痛い話。


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