零アージュの透間

「いつもの日常≠ェ、壊れたんだ。――それだけ、なんだけど」

 問いかけに対して返ってきたのは、クロウがそう遠くないうちに銃声と共に齎すであろう光景≠セった。
「壊れた?」
「壊れたんだ。硝子みたいに、少しずつヒビが入っていた事に気付けなくて……それを見つけた瞬間、一気に崩れた」
「……」
「お前が、みんなが、遠ざかっていって……いや、近くにいるのに、隔てるものが厚くなって…………眠れなくなったんだ」
「それで、ここに来たってワケか」
「そんなところかな。けど……その事を、忘れようとは思ってないんだ。ずっと、いつもの日常の中に居られる保証なんてない――有り得る未来、かもしれないからさ」
 脆い感情は一つの楔となり、儚い言葉もまた、クロウに微かな痛みを伴いながら届けられる。
 彼方から差し込む光を見つめて、背を向けたままのリィンは、どんな表情でそう言っているのか。想像は幾つか出来るものの、答えは今のままでは得られない。
「有り得る未来、か」
 脳裏で砕けたモノクロの光景。それを留めたまま、クロウは行き場のない手を、生温い自身の懐へと突っ込んだ。

 太陽が昇る少し前、寮を一人で出て行ったリィン。鍛錬だろうか――そう思いつつ、なんとなく気になって後を追ったクロウは、街の近くの森の前でリィンに追い付いた。
 リィン、とクロウが数アージュ離れたところから一言声を掛けると、彼はゆっくりと振り向いて、目を合わせた直後――
『少し付き合ってくれ、クロウ』
『? そいつはどういう……』
『そのままの意味だよ』
 とっくに気付いていたようで、特に驚く様子もなかった彼は、シンプルな言葉を返して、森の中へと駆け出した。
『……は?』
 間の抜けたクロウのそれに、反応する者は当然いない。
『…………付き合う、ねぇ。追いかけっこするような年じゃねーが……たまにゃあ悪くねえか』
 薄暗さに覆われた森の中へ消えて行った背を追って、クロウも走り出す。一分も経たないうちに、立ち止まったリィンの背中が見えた。木の一つに手を当てて、ぼんやりと遠くを見ている。
 横顔からは想いも、感情も、読み取れない。得意分野には入っていたはずだし、推測する事は一応出来るものの、それが正解に近い自信が何故かない。
『どうしたよ?』
 気さくな兄貴分を背負って、クロウが投げ掛けた問いかけに返答が来るまで、おおよそ十秒だった。

 森の木々は、二人の会話を見守るように静寂を広げている。風と戯れて騒つく事もなく、ただただ静かな空間を作っている。
「……クロウ」
 そう呟いて、振り返ったリィンは笑う。どこか寂しげで、言いたい事を無理矢理押し込んだような、そんな表情だった。揺らがまいと、強く在ろうとする黎明が、逆転した時の中で夜の帳に沈んでいくかのように。
 何だよ? ――と、いつものように投げかける言葉が出ない。隙間なく蓋をされてしまったようで、呼吸さえ忘れそうになる。喉元で詰まったそれらを引っ張り出そうとするが、どうにも上手く行かない。そうさせる原因の感情を探そうとするが、クロウが手を伸ばした先には、白と黒の境界線が続く空間しかなかった。
 彼がそうしている間に、リィンは緩く頭を振って、昇る朝日に背を向ける。光が透けた黒髪が、ほんの一瞬だけ、銀を帯びて見えた。
「……、付き合わせてごめん。帰ろう」
 伸ばされた手は、縋るようにも思えた。掴めないものを、掴もうとしているようにも見えた。
 その手を見て、クロウの中に逡巡によく似たものが沸く。似ているだけで本質は異なるであろう小さい塊の名は、自分の持つ辞書には載っていなかった。
 短い追いかけっこと、少しだけ弱さを含んだ音の根底にある感情に、彼は辿り着く事が出来ない。

 ――クク、最初から付き合わせるつもりだったんだろ?
 ――あのなあ、こういうのは女の子にしてやれっての。
 ――珍しいじゃねーか。エスコートしてくれんのかよ?

 浮かび上がった、茶化すような台詞はすべて霧散する。透明な壁に弾き返されたような、名前を知らない妙な現象によって。
「おう。帰ろうぜ=v
 こんな早朝なら人に会う事はないだろう、というものを理由にして、彼はリィンの手を取った。それは太刀を握る頼もしい手のはずなのに、今だけは迷子の子どものもののように感じられる。

 ――帰ろうぜ。

 次の季節が訪れる頃には、確実に言えなくなるであろう言葉。
 それはトリスタの街に入るまで、クロウの中でただ反響していた。


 ◇


 静寂が、夜明けの光と共に優しく降り注ぐ。彼方まで広がる星々は滲んで溶けていき、黒と青で塗られていた空はゆっくりと夜から移り変わる。
「……リィン、いつまでそうしてるつもりだ?」
「…………俺の気が済むまで」
 幻想的な風景を焼き付けてから、クロウは視線を下げた。雪と曇り空を足して割ったような色の髪が、先程から微動だにせずに胸元に押し付けられている現状に、思わず彼は苦笑する。掻き抱くように回された腕には、強く力が籠められたままなのだから尚更だ。
「ったく……甘ったれ、なんてもう言えねえけどよ」
 今いるこの場所は、一体どこなのか。見当はつかなかったものの、間違いなく現実ではない。陽霊窟に居たのは覚えている。が、相克を行った後、受け渡すはずだった力を逆流させられ、命を繋ぎ止められ――その後は空白だ。
 戦いの反動か、意識を保っているのがやっとだった。二人揃って仲良くぶっ倒れたんだろうな――と、クロウは自分の中で結論を出しておく。要するに夢だとか、そういった曖昧な場所なのだろう、と。
「リィン」
 名前は、なんとなく呼びたくなっただけだった。
 しがみ付いて離れないリィンの背に片腕を回して、抱えるようにしてから、そのまま一緒に草の上へと倒れ込む。
 他には誰も居ない、二人だけの空間。同時に見た黎明の空の反対側には、黄昏の色彩が混じり合っている。澄んだ蒼を挟んで、互いを繋ぐように。

「ま、せっかくの機会だ……お前には先に言っとくぜ。――――ただいま、ってな」

 ずっとそばには居られない。一時的な帰還だという事も分かっていた。それでも、奥底にあった想いは、唯一の音となって届く為に言の葉となる。
 それを受け取り、クロウの腕の中の温もりは少しだけ震えて――対になる言葉を紡ぐ代わりに、リィンはこくりと小さく頷いた。
 僅かな沈黙の後、リィンが手を握ってくる。一つ一つの指を絡めるように、在る温もりを伝えるように。
「……クロウ」
 鼓動のない心臓。温度を持たない仮初めの灯火が揺らめく場所へ、リィンはそっと額を当てた。
 前にも、聞いた事のあるような声色だった。黎明の空が想起されて、彼方で散らばっていた欠片が一度だけ光る。一度は滲んだ記憶の中から、はっきりとその刻を見付け出す前に、クロウは腕の力を少し緩めた。
「何だよ?」
「俺も、帰れなくなる日が来るかもしれない」
「……」
「大切で、愛おしくて、どんなに想っていても……運命が、許してくれないかもしれない」
「…………」
「それでも、帰ろう。今は……あの場所に」
 ぽつりぽつりと紡がれるそれらに対して、返す言葉がなかったわけではない。黙って耳を傾けてやるべきだと思ったからだ。
 言い切った事に満足したのか、深く息を吐いて、リィンは眠るように瞳を閉じた。穏やかな風が銀色を撫でていく。
 黄昏と黎明が半分ずつになった空を、クロウは一人で見上げる。流れ星が二つ、交じり合いそうになっている二つの色の中を駆け抜けて行った。
 その軌跡を目で追った先から、世界が消えていく。目覚めが近付いていた。延長された、いつか終わる追加ステージが幕を開けようとしている。
「――――……」
 肯定する言葉を発する代わりに、彼は腕の中の大きくも小さな存在を、再び抱き寄せた。
 二人を繋ぐ、零アージュの透間に漂う一つの想いを拾い上げながら。




きりたに様との合作です。素敵なイラストはこちらからご覧いただけます。(サイトへアップする際に加筆致しました)
ありがとうございました!


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