星々は大団円の夢を見るか?
 命の終わりは、永い、長い旅の始まりだった。

 終着点などない、いつまでも続く旅路。朝が来ない事と、生者が居ない事以外は今まで居たゼムリア大陸と何も変わらない世界を歩いてはいるが、これといった目的はない。同じ場所で目覚めた三人で、なんとなく始めた事だった。
 ――ここに居てもやる事もねーし、気ままに行こうぜ。
 そう言って、笑ってみせたクロウ。
 ――ニシシ、ボクたちの旅にしゅっぱーつ!
 あの頃のように、元気よく駆け出したミリアム。
 身を蝕む呪いも枷も存在せず、共に旅をする二人にも、以前と違って制限時間はないようだった。
 何年も旅をしたようにも思えるし、まだ、数ヶ月しか経っていないようにも思える。夜空を見続けたのもあり、時間の感覚というものはとっくに失っていた。列車の時刻確認の為に、街で手に入れた懐中時計を見る事はあったが、それ以外は時間を気にする事はない、どこまでも自由な旅だ。
「……」
 目が覚めてから、ぼんやりと天井を見つめ続けて数分。時計が指す時刻は早朝。もう少しだけ眠ろうか――そう思い、リィンが目を瞑った直後。
「朝だよ、アサーっ! ほらほら二人とも、早くしないと列車が行っちゃうよ!」
 ずしり、と容赦のない重みを感じて、息を詰まらせる。少し前から居るのは気付いていたが、彼は敢えて、重みの主に声を掛けていなかった。
 ゆさゆさと揺さぶられて、特別実習の朝を思い出す。こういうところは変わらないのだと安堵してから、リィンはやや重い瞼を押し上げた。
「み、ミリアム……おはよう。早起きだな」
「おっはよー、リィン。だって、早い列車に乗るって話してたでしょ? クロウも起きてってば!」
「……俺は起きてるぜー……」
 隣のベッドの上、丸まった布団の塊がもぞもぞと動く。少し間を空けて、布団の中から出てきたクロウは一度、欠伸をした。
 目元を擦って、はよーさん、と零した彼は、珍しくうとうとしている。
「……随分と眠そうだな?」
「クロウ、どーしたの?」
「や、貰った酒が強かったかねぇ……飲み過ぎちまったか。にしてもミリアム、朝っぱらから元気なのは良い事だが、今日は列車に八時間くらい乗る事になるんだろ? 体力は残しとけよ」
 そのわりには、まったく酒の臭いがしなかったが――その答えが本当かどうかは、聞いても教えてはくれないのだろう。
 クロウははぐらかすように腰掛けていたベッドから立ち上がり、そのまま洗面台の方へと向かっていった。
「むー、その心配はいらないから元気なのに」
「そこはミリアムの良い所でもあるからな」
 こんな場所へ来てしまっても、二人とも、ちっとも変わらない。それが嬉しいと感じてしまう事に対する、微かな罪悪感は消せずにいた。
 幻でも何でもない。ここに居るのはあの時、大気圏に突入して死という結末を共にした二人で間違いないのだと、時々、再認識してしまう。
 イシュメルガの悪意を受け取った時、リィンは、呪いを抱えて一人で死ぬつもりだった。その先に孤独があろうと、一人の犠牲で多くの人々が救われるならと、覚悟だって決めていた。それは天秤に乗せるまでもない、掴み取るのに一秒も要らない選択だ。
 そんな状況の中、一緒に来てくれたクロウとミリアム――黄昏の終わりと同時に消える身であったとはいえ、あんな形で、地上に残してきた面々と別れる事になってしまった。

 ――付き合ってくれてありがとう、だなんて、思っちゃいけない事なのにな。

 本人達の気持ちだったのは分かっている。旅をする事でどうにか自分自身を誤魔化してはいたが、リィンの中で、気持ちの整理はまだついていない。小さな罪悪感が浮上する度にそれはばらばらになって、渦を巻き続けてしまう。
「……しっかし、妙な気分だな。時間は朝だっつーのに、外が夜のままってのは」
 ミリアムを肩車して、洗面台からクロウが戻ってくる。顔でも洗って目が覚めたのか、先程のぼんやりとした様子はどこにもない。
 リィンが腰掛けているベッドに、二人も座る。三人分の重さを受け止めたそれは、僅かに軋んだ。
「朝が来ない、ずっと星空が広がる世界、か。想像していた場所とは違ったところに来てしまったというか……」
「俺らはあの時に死んだ≠フは違いねえわな。ここがその後に行く場所なのかは、まだはっきりしねえが」
「うーん、一瞬すぎて、あんまり実感がないんだよね。痛くもなんともなかったし、目の前が真っ白になって、少ししたら、どこかの草原に倒れてて……もしかしてボクたち、どこか別の遠い世界に飛んだのかなーって思ったりもしたけどさ」
「酒場で猟兵王に会わなかったら、その説もアリだったよな。ま、地名も大陸もそのまんまなのはよく分からねぇけどよ」
 西風の元団長、ルトガー・クラウゼルとラクウェルの酒場で再会した事で、三人は今居る場所が死後の世界≠ナあると認識した。あくまで仮説、ではあったが。
「……」
 クロウとミリアムのやり取りを聞いて、リィンは胸中に込み上げるものを抑えようとする。こんな近くで心を動かしてしまったら、なんだかんだ聡い二人に気付かれてしまう、と言い聞かせながら。
 苦笑で誤魔化せるほど鈍くはないし、浅い付き合いではない。それは勿論知っている。
 まるで栓をされた瓶のようだと、彼は自分でも気付いてはいた。本当は、栓を一度取り払ってしまいたいのだと、心の奥底で思っている事も。
「リィン」
「……?」
 突然、頭に乗せられたクロウの手。やや雑に撫で回されて、整える前の髪が乱された。
 名前を呼ばれた事にどう返答しようか考えていると、左手をミリアムが握ってくる。そこに温度はないが、別のあたたかさは伝わってきていた。
 ――言いたい事があるなら、素直に言っちまえよ。
 ――もう隠さなくてもいいのに、相変わらずなんだからさー。
 リィンが順番に目を合わせると、二人からはそんな言葉が届く。
 ほら、誤魔化しなんて意味がなかったじゃないか――。もう一人の自分はそう言って、観念したように肩を竦めてみせた。
「…………」
 少しだけ緩めた栓。水はまだ、零れない。
「…………二人には、正直何を言えばいいのか、分からなくなるんだ。あの時はああ言ったけど、一緒に来てくれた事に対して、俺は――」
 本音という名の弱音が零れ落ちそうになった時、そこそこ勢いよく、クロウに肩を組まれる。
 思わず言葉を切ったリィン。彼が顔を上げると、クロウは笑った。
「言ったろ? 最後まで付き合う≠チてな。それに、終わっちまった追加ステージの先に、更にボーナスステージがあったんだ。何も文句ねぇよ」
「そーそー。旅は道連れってね! ボク、まだまだ二人とも話したい事があったし。……さすがに、もう誰とも会えないかな、って覚悟してたから……寂しくないなんてウソになるけど、今、ボクは嬉しいよ。リィンもクロウも、一緒に居てくれるから」
 心底そう思っている、といった様子で、二人は言った。
 言われるのは、初めてではない。再度、リィンの心に染み込んでいったその言葉は、頑なに外れようとしない彼の栓を、優しく外そうとする。
「だからね、リィン。ボクたちに謝るのはナシだよ! どうせならごめん≠謔閧熈ありがとう≠チて言って欲しいな、なんてね」
「ミリアムの言う通りだぜ。……ワケがあって潜り込んだ場所で、お前らから沢山貰っちまったモンを持って、俺もコイツもここに居るんだって事を忘れんなよ」
「二人とも……、っ」
 俯いて、リィンは堪える。その必要がないと訴える自分が居ても、妙な意地が出て来てしまうのは、仕方がない事だった。
「……泣きたいなら泣いてもいいと思うぜ、俺は。前に話したと思うが、胸でも背中でも貸してやっからよ」
「……」
「リィンは今まで、たっくさん我慢してきたんでしょ? 全部出し切ったって、ボクはいいと思うな」
「…………」
 ああ、前にもこんな時があったなと、リィンは夕暮れの生徒会室を思い返す。
 ――こうなってしまったら、我慢なんてしなくていい。しなくていいんだ。
 敵わないなと、もう一人の自分が、掠れた声で困ったように呟いた。
「………………悪い。少しだけ、構わないか」
「遠慮すんなって。ほれ、来な」
 ぽすん、と、彼はクロウの胸に寄りかかる。そこに鼓動はない。
「もう少しだけ、本音、言ってもいいか」
「おう」
「……まだ、生きたかった」
「……だよな」
「贄の身だったし覚悟はしてた。悔いは……一応、ないようにした。でも……みんなと、もっと……もっと、笑っていたかった」
「そうだな」
「……ありがとう、楽しかったって……伝えられたけど…………っ、俺は、それで……精一杯で……」
「十分だろ。時間もなかったしな」
「大好きだったんだ……あの場所が……だからみんなを、生きていく世界を守れるならこれでいい、そう思った。……でも、悲しませたくは、なかった。……我儘、だよな……」
「アイツらを信じるしかねえよ。そいつに関してはな」
 そっと心の栓を外して、リィンはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。誰にも言えるわけがないと思っていた気持ちを、押し込めていたものを、すべて引っ張り出す。
 命の証である鼓動がなくとも、クロウの言葉にはあたたかさが宿っていた。けれど、それだけで十分だと、リィンは心臓があった辺りに手を添える。
 零れ落ちようとしているものを今度こそ押し込まずに、リィンは声だけ押し殺して泣いた。小刻みに震える体の背には、いつの間にか、クロウの手が回されていた。
「……クロウ。ボクも、いいかな?」
 横で見ていたミリアムも、苦笑いによく似た表情の中に、何かを滲ませている。 
 その声が微かに震えている事に、リィンも気が付いた。
「お前もか。クク、いいぜ。こうなりゃお兄さんが、この広ーい胸で二人纏めて受け止めてやろうじゃねーの」
「えへへ……ありがと、クロウ」
 すっぽりと腕の中に収まるミリアム。クロウは仕方ないなとでも言う代わりに、二人の頭を軽く叩く。
「……ボクだって、まだやりたいなーって思った事、たくさんあったよ。……アーちゃんと行きたい場所もあったし、クレアやレクターと遊びたかったし……ユーシスのところで食べた美味しいお菓子、売ってるお店に一緒に行く、って話もしてたんだ」
「結局、そうなんだよな」
「……ねえ、リィン。Z組が、士官学院が、ボクを変えてくれた。色んな事を教えてくれた。ボクも、大好きだった――ううん、みんなと離れ離れになっちゃった今だって、大好きだよ。それはこれからも、変わらないはずだから……クロウも、同じだよね?」
 果たせなかった約束や、叶わなかった未来は幾つもある。それでも後悔なんてないのだと、ミリアムは言う。
 問いかけられたクロウは、言葉を詰まらせたようだった。
「……。そこで俺に振るなって」
「あれ……クロウも泣きそうじゃ――」
「泣いてねえっつの。欠伸だ、欠伸」
「それじゃあ、今度はボクがクロウの事、抱き締めてあげるね」
「っ……おいコラ、首絞まるだろうが」
 そう言いながらも、満更でもないんじゃないか。リィンは内心でそう思う。本当の事は本人にしか分からないが、先程と同様、時々格好をつけたがるこの男は、聞いたところで素直に教えてはくれないのだろう。
「……ったく……なんで、こうなっちまうかね」
 消え入りそうな声。それはほんの少し震えていたような、そうでないような――リィンは、そんなクロウの表情を見ないでおく事にした。


 ◆


 結局三人で(内一人は否定しているが)泣き腫らしてしまい、落ち着くまで出発を見送ったところ、次の目的地にしていたリーヴスには、夕方の少し前に到着する事となった。
 時計が指す時刻は午後の四時。行き交う人々の中には見覚えがある姿が混じっていたが、そんなはずは――と、首を傾げる。
「おかしいなぁ。リーヴス、なのには間違いないんだけど……」
「なんだか、違和感があるな」
「お前らも気付いたか。駅に入る時、空間の歪みみてーなものを感じたが――」
「あ、あれってアーちゃん!?」

 ぐい、と強く腕を引かれて、クロウは駅に向けていた視線を街の方へと動かす。
 ミリアムが指す先には、アルティナだけではなく、他の新Zの面々が揃っていた。時間からして、おそらく下校している最中なのだろう。
「ユウナ、クルト……!」
「アッシュ後輩、ミュゼも居るな」
「どういうこと……? ボクたちが居た世界って、死んじゃった人たちしか居ない世界だったよね?」
「あいつらがそれに当てはまるとはまず思えねえな」

 そこでようやく、リィンは違和感≠フ正体に気付く。あまりにも自然に入り込んでしまっていたせいで、少しだけ気付くのに遅れてしまったが、そもそもおかしな点が一つあった。
「となると……俺たちが迷い込んだ、という方が正しそうだな。空も明るいし」
「太陽が眩しく感じるぜ。何ヶ月ぶりだよ」

 ――そうか。一応、帰ってきた事になるんだな。
 久々に見るリーヴスの街は、何も変わっていなかった。居なくなってしまった存在が居た場所はぽっかりと空いたままだが、世界は止まらない。進み続けているのだと実感する。
 寂しさに近い感情を握って、リィンは周囲を見回した。
「……とりあえず、俺たちの姿は誰にも見えないみたいだ」
「うーん、しょうがないけど、気付いてもらえないのはちょっと寂しいなぁ」
「それはそれで大変な事になりそうだけどな。そんじゃ、一先ず行くとしようぜ」

 リィンの肩を叩いて、歩き出すクロウ。行き先が決まっているかのように、ミリアムもそれについていく。
「? 行く、ってどこに……?」
「決まってんだろ、分校だよ」
「リィン、さっきからずっと分校の方見てるしさー。みんながどうしてるのか見て行こうよ」
「…………」

 頷くだけにして、リィンも二人を追うように、見慣れた分校への道を歩き始めた。




 外されているかもしれない、と思っていたZ≠フプレート。教室内に置かれた椅子の数は変わっておらず、クラスの再編成もなかったらしい。
 クラブハウスも、ヴァリマールが世話になった格納庫も、野菜や果物が沢山育っている畑も、小要塞も――記憶の中にある景色とずれて重なる事はなかった。
「懐かしいか?」
「懐かしいよ。……みんなの声が、聞こえてくるくらいには」
「そっか」

 一番気掛かりだった事――教官が居なくなったZ組≠ヘ今、誰が受け持っているのか。それを確かめようと、リィン達は教官室へ向かった。
 施錠されていても、扉を通り抜ける事は出来た。何か知る方法はないだろうか、と三人で教官室の中を見て回っていると、ミリアムがある物を見付ける。
「リィン、これ名簿だよね?」
「この席は……俺が使っていた場所だな」
「……」
「クロウ?」
「……や、さっきまで誰かが居たんじゃねえかと思ってな。偶然*シ簿を見てたんだろうが、運が良かったぜ」
「俺も誰か居るのは分かってたけど……確かにそうだな」

 かつてリィンが使っていた席は片付いており、何もない。そこに唯一置かれているもの――何故か開きっぱなしにされていた名簿を、三人で覗き込んだ。
 Z組の担当教官はリィンのままになっているが、その横には、分校長であるオーレリアの名が赤い字で書かれている。
 それが何を意味しているのか、推測するのは容易い。名簿に残された自分の名前を指でなぞって、リィンは目を閉じる。
「……本当にそのまま、残ってるんだな。Z組も、分校も。本校に吸収されるかと思ってたが……」
「設備も充実してるみてえだし、そう簡単にはなくならないんじゃねーか? 羅刹サンが分校長として戻ってるとは思わなかったが」
「んー、そのへんはオリヴァルト皇子たちがなんとかしてくれたのかもね。アーちゃんたちがお願いしたのかなー、とも思うけどさ」

 一年は経っていないはずだったが、この場所に教官として立っていた事が、随分と遠く感じられる。
 懐かしさと切なさが入り混じる中から、リィンは安堵という想いを掴んで引き出した。
「……何はともあれ、みんな、ある程度元の生活に戻れているみたいで良かったよ」
「気になるヤツは多いが……とりあえず、次は旧Zの連中か。どうにか様子を見に行けりゃいいんだがな」
「明日、列車でバリアハートやヘイムダルに行ってみよっか。いつ向こう≠ノ戻っちゃうか分かんないけど、その時はその時ってことで」
「それでいくとすっか。リィンも構わねえな?」
「俺は問題ないが……明日? 今日じゃないのか?」

 列車は夜まで出ている。明日まで出発を引き延ばす理由が、何かあっただろうか。
 リィンがそう言うと、クロウとミリアムは顔を見合わせて、同時に苦笑する。
「あのなあ……そんなツラしてるお前連れて、列車に乗れるかっつーの」
「え」
「今日はリーヴスで過ごそうよ。ボクももう一度見て回りたかったし」

 近くに鏡はない。今の自分がどういう表情を浮かべてしまっているのか想像が出来ず、リィンは困惑する。
 ただ、それの原因に該当する感情はすぐに把握した。だからこそ、申し訳なくなって、彼は僅かに目を逸らす。
「……。二人とも、気を遣わせて――」
「だから謝るなって、これからそれやったらペナルティな。そん時はどうするよ、ミリアム?」
「そーだね……ぺっきーオゴリで!」
「おし、俺は缶コーヒーな」
「……はは……了解だ。ありがとう、クロウ、ミリアム」



 ◆


 夜になり、寮へ分校生達も戻って来る時間になった。
 一階に居る生徒は疎らだったが、特にする事がない三人は、空いている場所に腰掛けてその様子を観察していた。
 タチアナとミュゼによる乙女の嗜み談義が始まりそうになり、場所を変えるべきか、リィンが検討しようとした時、寮の扉が開かれる音がする。
「……?」
 彼がそちらを見ると、丁度、オーレリアが出て行くところだった。
 ミュゼは一瞬気にするような素振りを見せたが、扉が閉まると、タチアナに向き直って話を再開する。
「分校長……こんな時間に寮を出て行くなんて、何かあったのか?」
「夜は出かけない事が多いんだったか。確かにちょいと気になるな」
「これは尾行開始、だね!」

 あまり、プライベートに踏み込むような事はしたくないんだが――。リィンは一応そう言ったものの、それは半分ほど建前だ。気にならないと言えば嘘になる。
 三人も外へ出て、五アージュほど距離を置きながらオーレリアを追いかけた。時々立ち止まりながら一人で歩いていく彼女は、どうやら分校へと向かっているらしい。
「……分校に用事があんのか?」
「忘れ物、とかかな?」
「あの人に限って、そんな事はないと思うが……」
「それじゃあ、こっそり鍛錬してるとか?」
「朝に練武場を使っている、とは言ってたけどな。あり得なくはないか……?」
「まあ、追いかけりゃ分かるだろ」

 閉まっている校門を通り抜けて、正面玄関を通り、階段を上がる。
 練武場に行くのではないか、という三人の予想に反して、オーレリアが鍵を開けたのはZ組≠フ教室だった。
「……世界はどうにか前進している。大きな歯車も小さな歯車も失った中で、遺されたものを守る為に」
 窓際に立ち、彼女は外を眺める。独り言、にしては誰かに語りかけるようなそれに、リィンは教室へ踏み出しかけた足を止めてしまった。
 オーレリアが振り返る。合わないはずの視線が絡んだ、ような気がした。

「だが、星空は変わらぬままだぞ。せめて今宵は、久々であろうリーヴスからのそれを眺めていくがよい――シュバルツァー。アームブラストに《白兎》もな」

 ――この人は、今、何と言った?
 時間が止まったかのような感覚。向けられた言葉の意味を理解するのに、いつもの倍以上の時間を要してしまった。
「……ッ!」
「へ……ボクたちのこと、見えてるの!?」

「ああ、因みに私からはそなたらの姿は見えていない。声も聞こえないが、気配でそこに居るのだと判断している。よって、会話は成立せぬだろう。これから私が言う事は、独り言だとでも思ってくれればそれでいい」
「メチャクチャすぎねえか、いくらなんでも」
「さすがに見えてはいないのか……けど、こういう人だから、としか最早言いようがないな……」
「それでも嬉しいな。気付いてくれる人もちゃんと居るんだ、って分かったから!」

 成り立つはずのない会話が一応繋がった事が嬉しかったのか、ミリアムは彼女の前に立って手を振る。
 貴族連合軍として――そして、ヴァイスラント決起軍として、ギリアス・オズボーン宰相に二度剣を向けた人ではあったが、今は気にする事ではないのだろう。
「名簿を見ただろうが、今のZ組≠ヘ一応、私が分校長と兼任で受け持っている。当初は分校を続けるにあたり、[組と\組に彼らを分散させる案もあった。だが、クロフォードを筆頭に猛反対……否、懇願されてしまってな。――繋いだZ≠失いたくない。Z組の面々はそう言っていた。それを受けて、検討し直した結果というわけだ」
「……そう、なんですね。やはり貴女でしたか、あの名簿は」
「ひょっとして……ボクたちが来たのに気付いて、開いて置いといたってこと?」
「ハハ……俺もアンタだろうなとは思っちゃいたが、親切すぎんだろ」

 分校を散策していた時に、校内に彼女の気配がある事にはリィンも気が付いていた。
 霊体のような身とはいえ、あちらも気付いているのではないか――微かな希望のようなものだったが、間違ってはいなかったようだ。
「それにしても……そなたらよりも先に、私がそちらに居た可能性もあるのだな。どこかで運命がずれていたのなら、そういった未来もあったのだろう。……その場合、久々に父の顔を見る事は出来たかもしれんが」
「……パンタグリュエルの事か」
「プランDが決行されていたら……分校長だけじゃない。搭乗していた決起軍の兵士達も、ウォレス准将も……ミュゼも、居なくなってしまっていたかもしれないんだな」

 危機的状況からリィン達を救い、敵艦であるグロリアスを撃破する為に、捨て身の作戦を決行しようとした決起軍。オリヴァルト皇子率いるカレイジャスUが駆け付けていなければ、今頃、オーレリアもここには居なかった。特攻し、爆発四散していたであろうパンタグリュエルと、最期を共にしていたかもしれない。
「何にせよ、生き残った身だ。逝ってしまった者達を――想いを、忘れはしない。それが、我らがすべき事の一つであろう」
 再び背を向けた彼女の表情は、リィン達から見る事は出来ない。星空を見ながら何を思っているのかも、推測する事は難しかった。
 独り言≠ェ途切れ、静寂が教室内を満たす。星が降る音すら聞こえるのではないか、と思えるほどに静かだった。
 数十秒にも、数分にも感じられる沈黙。ミリアムが彼女の横に立って夜空を見上げた直後、そういえば、とオーレリアは口を開く。
「剣聖≠フ域に到達してからのそなたと剣を交えられなかった事は惜しく思うが、機会が失われた訳ではあるまい。何十年か後まで待たせてもらうとしよう」
「え」
「クク、大胆な事を言うねぇ。この姐さんの事だ、有言実行なんじゃねえか?」
「それならリィンも負けないようにしなきゃね!」
「はは……幸い、太刀は手元にあるしな。鍛錬を怠らないようにしないと」

 クロウの言う事が間違っていない気がして、リィンは苦笑する。この人なら本当に挑んで来かねない――何十年か後だろうと、衰える事のなさそうな剣術を携えて。
 何なら、良さそうな温泉を探しておくのもいいかもな、と彼が考えた――その時だった。

「分校長……?」

 教室の外で止まっていた幾つかの気配が、ゆっくりと動く。
 リィンが振り返ると、そこにはクルトが立っていた。彼の後ろにはユウナ、アルティナ、アッシュ、ミュゼも居る。五人とも何かを察しているのか、ぐっと堪えたような面持ちで、教室の中へと入って来た。
「……誰かと話していたようですが。その……会話の内容からして、まるで……」
 クルトは教卓を見て俯く。
「リィン教官と話してたみたいじゃないですか! そこにっ……そこに、教官が居るんですか!?」
 ユウナが、見えないものを探すように室内を見回す。
「……おい、シュバルツァー……てめえっ、ふざけんじゃねえよ……帰って来るなら堂々と姿を見せやがれ!!」
 アッシュとは一瞬目が合ったが、おそらく偶然なのだろう。
「……気のせい、ではないようですね? おそらく、他のお二人もご一緒なのでは?」
「い、や……そんなの……リィン教官、クロウさん……っ……おねえちゃん……! 嘘だって……言ってください……」
 その場に崩れ落ちたアルティナをミュゼが支えるが、彼女もまた、我慢しているように見えた。
 今この状況で、弾き出される事実は一つだけしかない。自分が言い残した言葉を信じて待っていたのであろう教え子達の事を思い、リィンは唇を噛む。
「……ごめんな。って言っても、聞こえないけど……」
「アーちゃん、泣かないで。ボクはここだよ――って、触れられないのはやっぱもどかしいなぁ。前みたいに声が届くワケでもないし、ハグしてあげても分かんないよね……」
「…………」

 アルティナの前に屈んで、頭を撫でるミリアム。クロウは教卓に寄りかかって、複雑な表情で生徒達を見つめていた。
「……分かってたのに……」
「ユウナ?」
 声を震わせて、ユウナが目元を擦る。心配したのか、クルトが彼女に声を掛けると、ユウナの翠の瞳から雫が落ちた。
「……あたし、信じてたんだ。きっと……ううん、いつか必ず、リィン教官達は帰ってくるって……また、あたし達に色々な事を、教えてくれるって……。――心のどこかでは、分かってたのに……っ、もう……二度と、会えないんだって……!」
 そんな彼女に、クルトは黙って胸を貸す。宥めるように軽くユウナの背を叩いてやりながら、沸き上がった感情を払拭するように、緩く頭を振った。
「……僕だって同じだ。あれからずっと、信じていたよ。教官達の帰りを」
「そうですね。……だって、約束しましたから。守っていただけるって、思ってましたよ?」
 目元に涙を浮かべつつも、ミュゼが笑う。
 二人の言葉を聞いて、ユウナは再度目元を擦った。顔を上げて、真っ直ぐに前を――リィン達が居る方を向く。
 彼女は一筋、頬を伝っていった雫を拭う。
「………………そっか。教官達は、約束……守ってくれたんですよね。姿が見えなくたって、声が聞こえなくたって……帰ってきてくれた……」
 あの言葉は、嘘なんかじゃなかったんだ――。
 ユウナがそう言った数秒後、五人の懐から、あたたかな青の光が零れる。
「……なんだ……?」
「ARCUSが光って……」
 何度も見た光が、Z組の教室の中へと少しずつ広がっていく。

 ――こんな話は聞いた事がない。けれど、五人との繋がりを確かに感じている。もし、もしも、言葉が伝わるのなら。短い時間でも、奇跡というものが与えられるのならば。

 生徒達を前に、伝えられるはずもない言葉を探して立ち尽くしていたリィンの背を、クロウが叩く。ミリアムも彼を見上げて、こくりと頷いた。
 リィンは一歩踏み出して、長く、深く息を吸う。

「……。――アルティナ、ユウナ、クルト……アッシュ、ミュゼ。こんな形で帰って来ちゃって、ごめんな」

 優しい青の光が穏やかに揺らぐ。リィンの想いを受け止めたかのように。
「!」
「え――」
「今、教官の声が……」
 声が届いたのを確認して、クロウとミリアムが笑い合った。
 リィンの両隣に立ち、二人もまた、聞こえると信じて言葉を発する。

「俺らも居るぜ」
「ひっさしぶりだね、みんな!」

 何が起こっているのか理解が追い付いていないらしい五人は、目を丸くしてARCUSを握り締めている。
「こいつは……パイセンの声、か……?」
「っ、おねえちゃん……!」
「……どうなってるんだ? 教官達の姿は見えないのに……」
「かつてのミリアムさんとは違う……という事でしょうか。ふふ、やっぱりずるいです。こんな流れは、私にも読めませんよ……」
 先程とは違った意味で泣きそうな生徒達。
 窓から吹き込んでいた風が、夜を吸い込んで深みを増した青を揺らす。五人を暫く黙って見守っていたオーレリアは、教室の扉へと手を掛けた。
「暫く施錠はしないでおく。束の間であろうが、語らうがよい。――三人共、達者でな」
「アンタの方こそな。何も心配しちゃいねえが」
「みんなの事、よろしくね! ……って、あれ? 聞こえてるのかな?」
「分校長、ありがとうございます。高みに居る貴女にどこまで追い付けるか、今の時点では分かりませんが……目指せる場所がある以上、成長してみせますので」
 どこかへ向かおうとしたオーレリアが、立ち止まる。
「その時を楽しみにしているぞ、シュバルツァー」
 彼女は振り返らず、静かに教室を出て行った。


 ◆


 Z組の教室を後にしたオーレリアが学院の屋上へ出ると、澄んだ空気の中で、星空がどこまでも広がっていた。
 幾多の命を吸い込み、それらが輝くかのように、星は今日も変わらない光を放っている。
「……星空、か」
「貴女にしては意外な事をするのね」
「魔女殿か。居るのは分かっていたが」
 オーレリアは背後に現れたヴィータを見遣るが、すぐに星空へと視線を戻す。
 彼女の隣に立ち、夜を透かした蒼の扇子を取り出して、ヴィータも同じように空を見上げた。
「彼らが大気圏外に消えてから、それなりに時間は経った――エマも前を向けるようにはなったけど、まだぼうっとしている事も多くてね。他の面々含めて、婆様も心配しているわ」
「無理もあるまい。望む者が居る結末ではなかろう」
「ええ……そうね」
 書き換える事の叶わなかった、掴み取る事が出来なかった、御伽噺の終わり。光に溢れた未来。空に金の光と羽根が散った時の事を思い出したのか、ヴィータは目を伏せる。
「オライオンが、夢を見る、と言っていた」
「夢?」
「彼らが――Z組が誰一人欠ける事なく、黄昏を越え……皆で笑い合う、そんな光景を見た、と」
「……随分と残酷な事をするものね。夢を見せる存在が居るのなら、だけど」
 近いようで、遠い星空。教室で話をしているであろうリィン達の事を考えかけて、オーレリアは思考を一瞬遮断する。

「……大団円は、何処にあるのだろうな。星々が夢見た、その結末≠ヘ――」




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