リィン・シュバルツァーは帰れない
※昨年度発行のまじアリアンソロ寄稿分です。主催様に許可はいただいています。



(TVアニメ・魔法少女★まじかるアリサ第三十五話)

【前回までのあらすじ:モナ君と契約を交わし、光の世界の為に魔界の手先と戦い続ける魔法少女・まじかるアリサ。普段はごく普通の高校生、アリサ・ラインフォルトである彼女は、思い悩んでいた。大規模な魔界側の侵攻の際、ついに明らかとなった魔界皇子の素顔――それは、なんと一年生の頃からアリサのクラスメイトである、リィン・シュバルツァーその人だった。何故、どうして――。疑問が渦巻く中、再びの魔界軍の奇襲によって出撃せざるを得なくなったアリサ。襲撃された先は彼女が通うトールズ高校だった。そして、魔界皇子・蒼の騎士と対峙したその時、突如崩落に巻き込まれて……?】


 頬に水が落ちる感覚がして、アリサは目を覚ます。
「う……ん、私は……どうなって……?」
 辺りは暗く、目を凝らさないと何も見えない状況だった。凝らしてもぼんやりとした輪郭しか見えず、どこに何があるのかを把握しきるのは難しそうだ。
 体勢はそのままに、アリサは上を見上げる。遥か彼方にぽっかりと空いた穴。あんな高さから落ちたというのに、不思議と体はどこも痛まない。
「私、あんなところから……って」
 ふと。アリサは自分の体の下に、生暖かいものがある事に気付く。ちょうど人肌くらいだった。そしてよく見ると、丁度胸の真下辺りには、見慣れた黒髪が――
「な、な、な……っ」
 次第に暗闇に慣れてきたアリサの瞳に映ったのは、どこからどう見ても魔界皇子である彼だった。ぴょんぴょんと跳ねた黒髪を見間違えるはずがないのだ。たとえ暗闇の中であろうとも。

「何やってるのよ、貴方ッ――――!!」

 ぱしーん、というわりと容赦のない音が、暗い洞穴内に鳴り響く。反射的とはいえあまりにも理不尽な気がしなくもないが、少し離れていたところでそれを見ていた蒼の騎士――クロウは、苦笑いを浮かべるしかなかった。





 渋々火を起こしてくれたリィンのおかげで、三人の真ん中には小さな即席の焚き火が出来ている。ぱちぱちと燃えるそれが闇を纏った焔である事には、もう誰もツッコミを入れようとはしない。
「どうやら俺たちは、あの穴から真っ逆さまに落っこちて来ちまったみたいだな」
 上を指してそう言うクロウ。
「…………」
 頬を片手で押さえながら、少しだけむすっとした様子で話を聞いているリィン。
「……信じがたいけど、そのようね」
 仕方がなかったとはいえ、顔面に胸を押し付けてしまった羞恥でまともにリィンの顔を見られないアリサ。謝りたくても謝れない。何度も言葉を浮上させては、押し戻している。
 どうしたもんかね、と、クロウは内心で盛大に困惑していた。自分が果たしてこの空間に居る事は正しいのか否か、それさえも分からなくなってくるほどだ。居なかったら居なかったで、きっと、二人は気まずいままなのかもしれないが。
 腕組みプラス思考時間、おおよそ十秒。ぴこんと頭上に電球を浮かべたように、何かを閃いた彼が口を開く。
「俺から一つ、提案なんだが」
「提案?」
「いくら魔界皇子と魔法少女が宿敵同士とはいえ、こんな地下深くで戦ったってこう……なんかパッとしねーだろ? だったら、地上に出るまで一旦休戦ってのはどうだ?」
 我ながら名案だ、と言わんばかりに一人頷きながらそう言うクロウ。それにこんな真っ暗なところで戦ったって見栄えが悪い、などという本音が聞こえた気もしなくもないが、それには触れないほうが良いのだろう。きっと。
「……休戦……」
「突然言われても……」
 クロウの言葉を受け、リィンとアリサは互いに見つめ合う。ただひたすらに、沈黙。素直にお喋りも出来なさそうだ。
 時間だけが過ぎてゆく。とても焦れったい、焦ったすぎる。クロウは足をわざととんとんとしたり、咳払いや欠伸をしてみたりと、いかにも「お前らとっとと休戦しちまえよ」というオーラを出した。そうするしかなかったのだ。
 そうし始めてから、かれこれ何分が経過しただろう。魔界の厨房で寝かしてあるフィッシュバーガー用のパン生地が気掛かりだから早くしてくれ、というクロウの呟きは数秒後、内心で融解した。雪の如く。

「…………いいわ。一時休戦しましょう」
「!」

 先に頷いたのはアリサだった。けれどまだ先程の羞恥心が残っているのか、目だけは逸らしてしまう。
「……だとよ。ほら皇子、休戦するしかないだろ」
「…………」
「ったく、そこは素直に折れてくれよ〜……」
 相変わらずむすっとしたままのリィンは、クロウからもぷいと顔を背けてしまう。わざとらしくがっくりと項垂れたクロウは、どうやら普段からこの魔界皇子に手を焼いているようだった。アリサは内心で同情を覚える。
 そこで、彼は本当に私の知る『リィン・シュバルツァー』なのか――と、アリサの中で再び疑問が渦巻いた。あまりにも、似ていなさすぎるのだ。クラスの重心で、真面目で、お人好しな部分もあったリィンとはあまりにも、だ。
「魔界皇子……いいえ、リィン」
 静かなアリサの声に反応して、リィンは再び彼女の顔を見た。
「…………」
「貴方が本当に、私の知る『リィン』なのかは分からないけど……もしそうだとしたら、私は理由が知りたい。だって、あの『リィン』が魔界皇子だなんてとても……」
 僅かに口籠ったアリサ。リィンは答えない。ミッドナイトヘブンを着け直して、緋色の瞳を彼女から見えないようにしてしまう。それは拒絶の意なのか、否か――アリサは少しだけ俯いて、胸元で行き場をなくした手を握った。
 頭を軽く掻いて、そんな状況を見守るクロウ。割り込めるほど空気が読めないわけでもないが、このままこうしていても仕方がない事も分かっている。最善の切り出し方を、脳内で組み上げている最中だった。
 故に、彼は気付かなかった。頭上から小さな何かが降ってきていた事に。

「そうなの! それに、アリサちゃんはリィン君の事が――」

 べちん、という音と共にクロウの顔面に落っこちてきたのは。
「うおっ、なんだこの黄色いの」
 それを引っぺがして、クロウはまじまじとそれを見る。ぷにぷにしている小さなウサギのようなその生き物は、なんとも言えないつぶらな瞳で彼を見つめた。早い話、感情がまったく読み取れない目なのである。
「ボクはモナ君なの! アリサちゃんと合流出来て一安心なの」
「って事は、魔法少女の仲間なのか」
「仲間というかパートナー、なの、ひ、引っ張らないでほしいモナ〜!」
「クク、悪りぃ。つい、な」
 クロウの手のひらから解放されたモナ君は、素早くアリサのところへと飛んで行く。腕にしがみついてじとりと見つめられ、クロウは苦笑を浮かべるしかなかった。
「まあとにかく、だ。ここに居たってどうしようもねえ。さっさと探索を始めるとしようぜ」
 リィンの手を引いて歩き出すクロウ。まだ休戦する、と彼は言っていないはずだが、有無を言わさないその様子にリィンは何も言えず、そのままずるずると引きずられていく。地面に残った綺麗すぎる直線の跡が、妙に虚しい。
 駄々を捏ねる子供を連れて行く親のようだと、その様子にアリサは少しだけ笑ってしまった。同時に込み上げた感情には、気付かないフリをして。
「アリサちゃん、この先から邪悪で強力な気配を感じるから注意してほしいの。あの二人からあんまり離れないほうがいいかもしれないモナ」
 そんな彼女の服の袖を、モナ君の小さな小さな手がくいと引っ張る。
「え、ええ。確かにそう、よね」
「完全に信じるのは危ないかもしれないけど、蒼の騎士はウソは言ってないの」
「そんな事が分かるの?」
「顔面にへばりついた時に確認してみたモナ」
「……なんだかんだ言って、貴方も結構謎よね?」
 リィンもクロウも、魔界ではかなりの実力者だという。敵として対峙した時は脅威でしかないが、今は頼れる存在になってくれるかもしれない。一応敵である彼らに、頼りっきりになるつもりは彼女にはなかったが。
 複雑な想いを抱えたまま、アリサは二人の後を追いかける。


 ◆ ◆ ◆


「……」
「…………」
「……不思議な事もあるものなの」
「…………そもそも色々おかしいだろ、この状況」
 言葉をなくす二人と、冷静に見つつもどこかぽかんとしている一人プラス一匹。
 無理もない。目前に広がっているのは、果てのなさすぎる白い砂浜と空を切り取ったような海だったのだから。
「私たち、地下を歩いていたのよね?」
「そうなの」
「だったらどうしてこんな場所に……?」
「それが分かったら苦労しねぇって」
「クロウだけに、なの」
「おっ、言ったな〜? ちっこいの」
「ま、また引っ張らないでほしいの〜!」
 誰も状況を解説しそうにないので説明しよう。
 三人と一匹は、薄暗い地下をずっと歩き続けていた。先の見えない暗さの中、半ば手探り状態で、ずっと。リィンが壁にぶつかったり、アリサが何かに足を取られて転んだり、物音に驚いたモナ君に引っ付かれて前が見えなくなったクロウが、落とし穴に落ちかけたり――エトセトラ。とにかく彼らは大変な目に遭っていたのである。

『……呼んでる』

 トラブル続きの探索行の中、リィンのその呟きに気が付く事が出来たのはクロウだけだった。それってどういう、とクロウが問いかけようとしたその時、わりとよくある眩い光に包まれた一行は、気が付けばこの砂浜に立たされていたのだった。
「そういや皇子。呼んでる、ってさっき言ってたよな。……――あれ、何の事だ?」
 モナ君を離してやったクロウがリィンへそう訊いても、彼は穏やかな海から視線を逸らそうとしない。リィンの瞳に映る海原は、どこまでも蒼かった。
「……」
「別に、無理には訊かねえけどよ……何かあったら言えよ。俺は側近なんだからな」
「……わかった」
「本当にわかってるか確かめてあげるの」
「っ!?」
 ふよふよと飛んでいったモナ君が、リィンの顔面へと貼り付く。何かをモゴモゴ言いながらもなかなかモナ君を引きはがせないリィンを見て、アリサは少しだけ緊張が解れた気がしていた。
「リィン……」
 彼を見ていると、アリサの胸中はやはり掻き乱されてしまう。時折垣間見せる『リィン・シュバルツァー』であった頃の姿が偽物だったのではないか、と、考えたくもない思考の欠片が片隅に突き刺さる。
 学生のリィンと、魔界皇子のリィン。どちらが本物なのか。それを見極める為に休戦を承諾したようなものだったが、不安定な天秤はゆらりゆらりと揺れ続けている。
「あいつ、学校生活楽しんでたみたいじゃねーか」
「……?」
「お前らの話も聞いてたぜ。リィンが正気の時にな」
 そう話しながら蒼を見つめるクロウは、水平線よりも彼方を見ているようだった。まるで手の届かない彼方に故郷があるかのような――そんな、どこか寂しげな瞳で。
 その横顔に何か引っ掛かりを感じながらも、アリサは彼の言葉の最後の辺りを拾い上げる。
「正気、ってどういう事なの?」
 ひらりひらりと掴む手から逃れるモナ君を追いかけて、リィンは先に走って行ってしまう。妙に子供っぽい一面は、学校で見ていた真面目なリィンとはちっとも等号で結べない。アリサは軽く頭を振る。
「……。まあ、魔法少女になら話してもいいか」
 クロウの緋が、アリサを真っ直ぐに捉える。漣の音がやけに遠く感じて、彼女はそこから目を逸らす事が出来なかった。

「今の皇子――リィンは、半分以上”鬼の力”に乗っ取られてる状態だ。お前の知る”リィン”は、中でそいつに抗ってはいるんだろうが……いつまで保つか分からねぇ、ってのが現状だな」
「!」

 一瞬息を詰まらせたアリサ。それに気付きながらも、畳み掛けるようにクロウは続ける。
「完全に乗っ取られちまったら、もう『リィン』は帰って来れなくなっちまう。……それに、だ。追い込むようで悪りぃが……今、皇子はお前らとの記憶をなくしちまってる」
「記憶を、なくしてる?」
「ああ。鬼の力が強まれば強まるほど、『リィン』は消されていく。前は、たまに戻る時もあったが……ここ一ヶ月は見てないぜ、それ」
 数ヶ月。アリサの脳内で高速で捲られたカレンダーは、あの日でぴたりと止まった。市内を突如急襲した魔界軍にクラスの皆で立ち向かったものの、途中から姿を消したリィンが魔界皇子として立ちはだかったあの、忘れられもしない日を。

『……お別れだ、アリサ。みんな』

 ラブ・シューティングスターの光に包まれる寸前にそう言い残したリィンが、アリサ達の前からそのまま姿を消して三ヶ月は経過している。ぽっかりと教室の真ん中の席が空いてしまってから、そんなに経っていたのだ。彼が居なくなってから時間の流れが妙に速く感じていたアリサは、改めて、そんなに経過していたのかと胸が詰まるような感覚に陥る。もっと早く見つけ出せていれば、だなんて、今更どうしようもない後悔も奥底で込み上げてしまう。
「……もう、リィンは元には戻れないのかしら」
 押し込めていたはずの弱音は、葉を伝う露の如く零れ落ちる。
 何を言っているんだろう、と、アリサは吐いてしまった言葉を勢いよく掴んで自身の中へ戻したくなる。しかも相手は魔界皇子の側近である人物だというのに。彼らにとっては、魔界の後継者であるリィンが戻ってきてくれて嬉しいはずなのだから。それに彼が言った通り、魔界皇子としての姿が本分なのだとしたら、引き止める資格などないのではないか、と。
「…………」
 クロウは、何も言わない。イエスともノーとも言えない、そんな面持ちを浮かべてただ佇んでいる。その緋の奥で揺らめくものの正体には、アリサは辿り着く事が出来ない。
 遠くでは、リィンとモナ君が戯れていた。砂浜に残されていた足跡が、少しづつ波によって消されてゆく。
 一人分の足跡が完全に消されかけたその時、クロウは一歩踏み出して、立ち止まる。
 
「想い次第だって、俺は思うけどな」

 振り返り、ほんの少しだけ笑いながらクロウが言ったその言葉は、アリサの中ではちっとも予想出来ていなかった言葉だった。今までに抱いていたものを一気に覆されるかのような、そんな感じだ。
「想い……?」
 半分ぽかんとしてしまったアリサは、少しだけ首を傾げながら問うように零す。
 再び向けられてしまったクロウの背に、その言葉の真意を問い質す事はきっと叶わない。
「後は、お前らのそれがあいつに届くかだと思うぜ」
 深い蒼を翻し、クロウは溜め息混じりに皇子の名を呼びながらリィンの方へと向かっていった。取り残されたアリサは、ぎゅっと拳を作る。無意識に。何がそうさせたのか、彼女自身にもはっきりとはしていなかった。
 けれど、アリサは歩いていく蒼を見て、一つ思った事がある。以前から敵なのか味方なのか曖昧な部分があったクロウは、リィンが魔界から光の世界へと戻る事を望んでいるのではないか、と。
 彼女の推測でしかないし、クロウにそう訊いても答えはくれそうにないが。それになんだか、彼は魔界の住人ではないような――アリサはそんな気がしてならなかった。なんとなくでしかないから、今は奥底に推測を留めておくだけにしておいたが。
「……。あんまりぼーっとしていると置いていかれちゃうわね」
 小走りで駆け出したアリサ。抱える力を少しだけ弱めてしまっていた思い出の本を、彼女は改めて強く抱え直した。
 モナ君と契約をした時は思いもしていなかった事が、今のアリサを動かしている。世界を救うという大きな事に対してまだ実感は持てていなかった彼女に、ささやかな一つの目的が生まれた。

 日常に帰りたい。当たり前のように訪れて、当たり前のように流れていくけれど、ただ平穏だったあの日常に。

 それは世界を救う事と紐付けられてはいるものの、そう思う事で、ふわふわと漂っていたものがしっかりと手中に収まった気がしていた。そしてアリサは、それを離すまいと握り締める。壊れないように、けれど取り落とさないように。
『そうだな、俺も少しずつ前に進んで行けてるんだよな。学校に入って、クラスのみんなや同級生や先輩、後輩達と出会えて……こんな風に、みんなと同じ時間を共に過ごす事で』
 帰りたい――否、帰ってみせる。アリサは果てなく広がる蒼穹に誓う。
 笑いながらそう言ってくれた彼もいる、輝いていたあの日々へ。


 ◆ ◆ ◆


 妙な気を、遣われているらしい。少し後ろを歩くクロウにがっちりと掴まれているモナ君の心配そうな視線を、先程からアリサは背中にびしびしと感じていた。
 アリサはちらりと隣を歩くリィンを見るが、彼は見向きもせずにすたすたと歩みを進めている。ゴーグルに覆われて彼女からはよく見えない緋色の瞳には、一体何が映っているのだろう。
「リィン」
 向けられる視線。言葉はなくとも、一応反応はくれるようだ。
「……その、貴方は……」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
 黎明のような優しい薄紫を湛えていたリィンの瞳は、今は魔界の空の、終末を象徴するかのような緋色に染まっている。それに射抜かれるように見つめられ、アリサは喉元まで来ていた言葉が押し戻されてしまった。
 立ち止まる二人。続けて距離を置いたまま、クロウも立ち止まった。なんとも絶妙な空気が漂って、場を沈黙が支配する。

 もどかしい。やっぱり見つめ合うと素直に話せなくなるのかお前ら。

 手から解放してやったモナ君を肩に乗せ(いつの間にかそこまで打ち解けていたらしい)、クロウは腕を組んだ。そのまま周囲を見渡して、ある一点で動かしていた視線を止める。
「…………?」
 目を細めて何かを見つめるクロウ。リィンとアリサも、そんな彼に気付いてそちらを見る。
 白浜の、その向こう。蒼の水平線を背にして、大きな遺跡のようなものが聳え立っていた。先程まではあんなものは見えなかったというのに、なんと不思議な事か。見たこともない紋様が施された大きな扉は、封印しているものがあるかのように固く閉ざされている。
 妙な力を感じる?
 変わった空気。警戒して僅かに身を引いたアリサとは反対に、リィンは遺跡の方へと一歩踏み出した。
「っ、あそこは……」
 リィンがその瞬間誰かに呼ばれた事には、誰も気付いていない。
「皇子?」
「何かあったの?」
 訝しげに問うクロウの声も、目を凝らして遺跡を見つめるアリサの声も、彼には届いていないらしい。口を動かしてはいるものの、音として言葉が発されていない。
 嫌な予感が過ぎったクロウは、彼の腕を引いて視線を逸らそうとしたが――掴む寸前、するりと抜けるようにリィンは駆け出してしまう。
「っ、待てリィン!」
 まるで見えない糸か何かに勢いよく引かれるようにして、リィンはそのまま白浜を一直線に駆けていく。どこまでも白の砂浜を動く黒は、徐々に離れてゆく。
 行き場をなくした手をそっと握って、追いかける為に走り出そうとしたクロウは、アリサを振り返った。
「なあ、魔法少女。はっきりとは言えねえが、嫌な予感がするんだ」
「それって……」
「同感なの。あの魔界皇子を放っておくと、大変な事になると思うモナ」
「……どうする、追いかけるか? 来るってんなら、俺は止めないぜ」
 彼女の返答を待たずに、クロウもリィンの後を追って駆け出す。先行してしまったリィンは、あと少しで謎の遺跡に着いてしまいそうだった。
 嫌な、予感。胸中に込み上げるものは、彼も彼女もどうやら同じだったらしい。
 アリサは数秒も置かずに、クロウの後を追いかける。こういう時に空が飛べたらもっと速いのに、等とどうしようもない事をつい考えてしまうが、それほどに、速くリィンを追いかけたい気持ちが溢れてきていた。今手を伸ばさないと、彼がもっと先へと行ってしまうような――そんな気がして、ならなかったのだ。


 眩しい白浜。星の砂で埋められたそこを駆け抜ける影が二つと、小さな影が一つ。じりじりと照りつける日差し。吹いている潮風が微かに冷たさを含んでいるのが、唯一の救いだろうか。
 辿り着いた遺跡は、アリサが思っていた以上に大きなものだった。ひやりとしたその扉を押し、謎の装飾が施されたそこを通り抜け、駆け下りる勢いでアリサがクロウ、モナ君と共に地下へと向かうと、そこには。
「……な、なんだありゃ……?」
「巨大な、人形?」
 それは言い表すならば、灰色の騎士だろうか。
 どこからか差し込む光の中、巨大な人形のようなそれが鎮座している祭壇。静寂が満たすその場に二つの足音が響くと、その前に屈んでいたリィンがゆっくりと二人プラス一匹を振り返る。
「…………」
「こ、こんなものが存在するなんて……」
「大きいモナ〜」
「おい皇子、こいつは一体」
 隣に並んでそれを見上げるアリサとクロウ。沈黙したままの人形は、ただ静かに光の中で眠り続けているようだった。
 胸元を押さえて、リィンが一歩人形に近寄る。どこか苦しげな様子だったが、その表情は背を向けられた事によってアリサには見えなかった。
「……《灰の騎神・ヴァリマール》――魔界皇帝がずっと、探していたものだ。光の世を手中にする為に」
「!」
「学校の地下から行ける場所で眠っていたとは。完全に見落としていたよ」
 そっと人形に触れるリィン。すると、呼応するかのように一瞬だけその瞳に該当しそうな部分がちかりと光る。
「ずっと起動者の訪れ、そして目覚めの刻を待っていたんだ。これで今度こそ、世界を宵闇へと誘える」
「そ、それじゃあこれを手に入れたら、貴方は……!」
 さらりと厨二じみた台詞を吐かれても、アリサは今更動じないし何とも思わなくなっていた。瞬いた小さな光はすぐに消えてしまったが、リィンが触れて反応したという事は、彼がこの人形を駆って光の世界を侵略する可能性が高いと判断したからだ。
 こんなに巨大なものが襲ってきたら、応戦する事が出来るのか。そもそも、そんな事になってしまってからでは全てが遅いのではないか。
「……そんな事、」
 自然と踏み出していた一歩。リィンのその腕を掴む事が出来ても、それだけでは何の意味もない事をアリサは分かっている。それでも、体が勝手に動いていた。
「今更どうしようもない事くらい、分かっているだろう。魔法少女」
 リィンはアリサを見る。二人の視線が交じり合うのは何度目か分からないが、緋色の瞳のその奥に、初めて微かに黎明の色が見えてアリサは息をのむ。それは一秒にも満たない時間だったが、彼女は決して、見逃しはしなかった。
 故に、彼女は気が付く事が出来なかった。開いた天井部分から突然降りてきた何か≠ェ、真っ直ぐに巨大な幅広の剣を振りかぶってきていた事に。

「っ、二人とも伏せろ!」
「きゃっ!?」

 強い力で押さえつけられるようにして、地に伏せるアリサ。視界の片隅では、クロウがモナ君を掴んで距離を取っていた。
 叩きつけられる幅広の剣。鳴り響く轟音。抉り取られるようにして割れた床には、ぽっかりと大きな穴が開けられる。その底はここからでは見えそうにないくらい、深い。
 顔を上げるアリサ。三人と一匹の前に立ち塞がったのは、首のない巨大な甲冑騎士だった。歩くたびに床が揺れる。そして、あんな剣に当たろうものならおそらくひとたまりもないだろう。
 右腕から魔剣を召喚して、リィンは甲冑騎士と対峙する。かつて振るっていた真っ直ぐな太刀は、面影すらない。
「灰の騎神の……番人といったところか。クロウ!」
「わーったよ。こいつを倒せばいいんだな、皇子」
 アリサの背に添えられていた手はすぐに離されてしまったが、それは紛れもなくリィンのものだった。伏せる時に彼が彼女を庇うようにして動いていた事に、ちゃんとアリサは気付いていた。
 時々助けてくれる事があった魔界皇子。今もそうだった。やっぱり彼は”リィン”で、学生の彼だって――。
 思考の時間を与えまいと、動き出す甲冑騎士。アリサがそれを巡らせている事に気が付いたモナ君は、頬に小さな手を押し付けて声をかける。
「アリサちゃん、ぼーっとしてたら危ないモナ!」
「! そ、そうね」
「どちらにせよ逃げられないから、この首なしを倒すしかないの。騎神の事は後で――」
 モナ君の言葉は中断される。再び甲冑騎士の剣が振るわれたからだ。
 飛び退くようにして避けたアリサは、リィンとクロウの丁度真ん中に降り立つ。武器を構えた三人は、言葉は交わさずに、アイコンタクトだけ交わして甲冑騎士へと向かって行った。


 ◆ ◆ ◆


 やたらと頑丈な甲冑騎士との戦いは、長引いた。攻撃をしても弾かれ、それなのに向こうの攻撃は床を叩き割るほどの威力がある。回避を続ける集中力にも限度があった。
 途中から物理で殴るのではなく、魔法中心で攻めようとクロウが提案してきた事で、ようやく勝機が見え始めていた。黒い焔が、氷点下の冷風が、愛の詰まった眩い光が、甲冑騎士の体力を少しずつ、確実に削り取っていた。
「崩れたな、一気に終わらせろ!」
 クロウが放った光の刃が、甲冑騎士の隙を作る。大きくよろめいたそれを見逃さなかったアリサは、ちらりとリィンを見遣る。どうやら彼も同じ事を考えていたようで、軽く頷いたリィンは魔剣を携えたまま姿勢を低くする。
「無明を切り裂く閃火の一刀――滅びろ!」
 リィンが作り出した無数の軌跡は、甲冑騎士へと容赦なく襲いかかる。やっと作る事が出来た甲冑の亀裂へ、アリサはしっかりと狙いを定めた。

「あなたにお届け! 愛と希望の流れ星! まじかる★アリサ――ラブ・シューティングスター!!」

 ザ・魔法少女なこの技。何回やっても恥ずかしい。恥ずかしいのだ。今は恥じらっている場合ではないとアリサは腹を括ってはいるが、思い返して頭を抱える事になるのはきっと数年後の話である。
 アリサから放たれた虹色の光が甲冑騎士へと注がれ、やがてそれは地響きと共に崩れ落ちる。無力化には成功したようだ。
「や、やったの……?」
「もう動きそうにない。終わったか」
 モナ君がふよふよと飛んで行って、つんつんと甲冑騎士をつつく。びくともしない甲冑騎士。安堵したアリサだが、同時に、この人形――ヴァリマールをどうするべきかを考え始める。
 やむを得なかったとはいえ、番人を共に倒したのだから魔界側に力を貸してしまったようなものだ。リィンが再び近寄ってもヴァリマールは反応をしなかったが、いつ目覚めるかなど、誰にも分からない。ここで破壊出来ればそれが一番最善なのだろうが、アリサにそれを実行するほどの力はなかった。
「……本当に起動するつもりなのね」
「…………」
「ダメなの、それを起動したら……もごっ」
「ほれ、俺達は向こう行くぞ。何か役立つモンがあるかもしれねえからな」
 リィンの後ろに立って、アリサは静かに問う。彼は、振り返らない。モナ君が近寄ろうとするが、クロウがむんずと彼(?)を掴んで離れて行ってしまう。
「教えて、リィン。さっきもそうだけど、どうして私を助けてくれるの?」
「……答える必要は、」
「あるわ」
 距離を詰めて、彼女はリィンの手を背後から握る。
「分からなくなるじゃない、貴方が『どっち』なのか……! 確かに今の貴方は魔界皇子だけど、まだ、貴方の中に『学生のリィン』が残っているから、宿敵のはずの私の事を助けてくれるんじゃないかって……」
「……」
「リィン、聞こえているなら返事をして……貴方が苦しんでいるなら、私は……いいえ、私達はリィンの事を助け――……」
 ゴーグル越しの瞳を覗き込むも、そこには緋色しかない。けれど直後、アリサの瞳に映ったリィンは、僅かにその色を変えた。
 届かない声。
 届く声。
 支配の合間に差し込んだ光を手繰り寄せ、緋を押し退けて、黎明が帰還する。
「!」
 目前に迫った危機を察知した彼は、彼女の腕を掴んで抱き寄せた。

「ッ……――――アリサっ!!」
「――え」

 焦げるような臭いと、後ろから迸った閃光。間を置かずに襲い来る衝撃と爆音。
 何が起きたのかを理解する前に、アリサはリィンに抱えられていた。正確には、最後の悪あがきのごとく爆発をした甲冑騎士のそれから、彼が彼女を庇ったのだ。
 一緒に吹き飛ばされるも、リィンは空中で体勢を変えてアリサが壁にぶつからないようにする。
「ぐっ……!」
「リィン!」
 レリーフが彫られた遺跡の壁に勢いよく叩きつけられるも、リィンが庇ってくれたおかげでアリサは無傷だった。
 離れたところに居たクロウが、肩にモナ君を乗せて駆け戻った。爆発して跡形もなく消え去った甲冑騎士が居た場所を見て、軽く舌打ちをする。
「チッ、まだあんな力を残してやがったのか……!」
「しっかりするモナ〜!」
「リィン、大丈夫!?」
「………………アリ、サ」
 どうにか瞼を押し上げたリィンの瞳は、虚ろでありながらも黎明の色を取り戻していた。見慣れた優しいその色は、アリサをちゃんと映してくれている。
「声、聞こえていたよ。…………俺は、抗うので、精一杯だったんだ…………」
「……リィン……」
「ありがとう、アリサ…………だけど、俺はもう……きっと……帰れない」
「っ……!」
 アリサの瞳の中で笑ったリィンは、どこか諦めたような面持ちだった。どうしてそんな顔をするの、と彼女は言いたくなったが、頭を振って戸惑いを振り払う。
 リィンの本心。それが少しでも見えた気がして、アリサは膝の上で強く手を握った。
「……それでも。私は、諦めないから」
 届かせたいと強く願いながら発した彼女の言葉は、リィンに届いたのだろうか。ほっとしたような、安堵したような様子を一瞬見せた後、彼は瞳を閉じてしまう。気を失ってしまったらしい。
「……」
 そんな二人をクロウはただ、黙って見守っていた。


「こりゃ退くしかねーな、今回は」
 リィンのそばに屈んで、クロウが苦笑する。
「やっぱり……リィンは連れて行くのね?」
「んー……まあな。ここに置いてってもいいが……目が覚めたら、また魔界皇子モードに戻ってるかもしれねぇんだぞ? なんとか出来んのかよ?」
「……それは……」
「それに、そうしたら翡翠の騎士と皇帝サマにこってり絞られるのは俺だしよ。それだけはご勘弁願いたい、ってモンだぜ」
 どんな罰を受けるか分かったもんじゃない。そう言うクロウは、魔界に残っているであろう皇帝の姿を思い浮かべていた。――クロウの内心で沸き上がりそうになった薄暗い感情と、奥底で燻る暗い焔には蓋をする。
 飄々とした態度を取り繕ったクロウのそんな部分にはまったく気付かずに、アリサは立ち上がる。飛んできたモナ君が彼女の頭に乗っかって、一度ころんと転がった。

「リィンが目覚めたら、伝えて欲しいの。……貴方が帰って来たいって思っているなら、私達が必ず連れ戻してあげるって」

 どこまでも真っ直ぐな言葉。一度目を閉じて、クロウはそれを記憶する。
「……クク、魔界の皇子に言うような言葉じゃねーだろ、それ。だがまあ……伝えといてやるよ」
 クロウは眉を下げて笑った。そう言いながらも嘘を吐いてはいないのだろうと、アリサは胸を撫で下ろす。後は、妙な改変をせずに伝えてくれる事を祈るばかりだった。
 指をぱちんと鳴らしたクロウ。直後、彼らの周囲を蒼の光が囲い始める。アリサを見てから、彼はひらりと手を振った。

「やれるモンなら、やってやれ。俺が言えるのは、そんだけだ」

 気を失ったままのリィンと、クロウを囲うそれは転移の魔法陣だった。
 それが強く瞬いた次の瞬間には、もうそこには二人の姿はない。代わりに残っていたのは、向こう側に学校が見えるゲートのようなものだった。
「アリサちゃん……」
 心配そうに見つめてくるモナ君。けれどアリサの表情には、一点の曇りもない。腕にぴとりとくっ付いたモナ君を優しく撫でて、彼女は真っ直ぐに前を見据える。
「みんなのところへ戻りましょう。……魔界軍が撤退したかどうかも確認しないといけないし、この人形の事も、これからの事も色々と話さないと」
 この戦いが、どのような結末を迎えるか。それはこれからの行動次第だった。
 だから、アリサは誓ったのだ。諦めはしないと。

「待ってて、リィン」

 決意の呟きは、空へと溶けるようにして消えてゆく。



三十五話・終

←Back