コープス・リバイバーは叶わない
「お前は、誰だ?」
 感情を読み取らせない仮面。問いかける声からは、僅かな焦燥と苛立ちが滲み出た。
 眉間に突き付けられた銃口をぼんやりと見たまま彼≠ヘ一つ、息を吐く。まったく動揺を見せないその様子が、ジークフリードの内側に沸き上がったそれらを、ほんの少しだけ煽った。
「ここでどう答えりゃ、お前は納得してくれるんだよ?」
「……」
 肩を竦めた彼≠ゥら零れるのは、呆れたような、困惑したような――掴み切る事の叶わない、幾つかの感情だった。
 ジークフリードが、引き金に指を掛ける。それでも彼≠ヘ動じない。
「……俺に過去はない。あるのは使命と虚ろな達成感だけだ」
 否定し、拒絶する空白。そこを埋めるのは《アルベリヒ》に与えられた使命と、達成した際の空虚な、名前の分からない感覚だけ。
「俺は知らない。《Z組》とやらも、士官学院の事も、お前という存在も」
 リィン・シュバルツァーや《Z組》は、自分を通して違う誰かを見ている。それが目の前にいる男なのだろうと、ジークフリードは理解していた。故に、いないと拒む彼≠重ねる彼らから、背を向けたくなる。伸ばされそうな手を撥ね退けて、抱いた感情を消し去りたくなる。
 緋色と緋色が重なって、金のトリガーが微かに動いた。

「お前は――――誰だ」

 ◆

 一発の銃声が、幻影を消し去った。
 はっとして顔を上げたジークフリードは、思わず周囲を見回して、自分が居る場所を確認する。
「ジークフリード。ここに居たんだね」
 穏やかな中に、僅かな硬さを含んだ声が掛けられる。
 ジークフリードは振り返らず、メンテナンスを終えたばかりの己の二丁拳銃をそっと置いた。
「ゲオルグか。アルベリヒと共に外出していたようだが、目的は果たせたようだな?」
 アルベリヒとゲオルグがヒンメル霊園へ行っていた事を、ジークフリードは知っている。当然、そこに何があるのかも、彼は分かっている。
「……ああ。危険な芽は摘んでおかないと」
 最初はお前も来るか、とアルベリヒに冗談混じりで言われていたが、二丁拳銃の手入れを理由に断っていた。
 そうした理由は、彼自身、はっきりとは分かっていない。
「……。得物の調子はどうだい?」
 隣に来たゲオルグが、二丁拳銃を覗き込む。一瞬、彼がどこか懐かしむような目をしていたのを、ジークフリードは見逃さなかった。
 微かに揺らいだものを払拭する為に、一度だけ、ジークフリードが頭を振る。
「悪くない。尤も、戦う機会が少なくて身体が鈍りそうだが」
「細かい調整ならいつでも引き受けるよ。だけど……君は自分でメンテナンス出来るから、必要なさそうかな?」
「……」
 何気ない会話のはずなのに引っ掛かるものがあり、振るい落とす事の出来ないものが増えていく。空虚に無理矢理入り込むような、或いは塞いだ場所から何かが出て来そうな、気分の悪さが消えてなくならない。
 ゲオルグの方を見て、ジークフリードは口を開く。
「一つ問おう」
「ん?」
「今、お前の前に居るのは誰だ? ……ジョルジュ・ノーム=v
「……っ!」
 滅多に表情を変えないゲオルグが、ジークフリードの問いに珍しく動揺を見せた。
 見開いた目をゆっくりと閉じて、彼はほんの少しだけ笑う。それがどういった意味を持つのかは、ゲオルグにしか分からない。
「…………変な事を聞くね。君にしては珍しい問いだ」
 抑揚のない、淡々とした声でジークフリードと話す事が多かったゲオルグは、苦笑混じりで返答する。
「《蒼》のジークフリード――それが君の名。他には何もない。過去も記憶も持たない空の身体に、与えられた使命を刻んで動く……それが、君の存在理由。価値そのものだ」
 そう告げるゲオルグは、普段とは少し違った。目の前にいる人物を蒼のジークフリード≠セと認めつつも、別の誰かを見ているような、そんな様子だ。
 それに気が付けないほど、ジークフリードは鈍くはない。
「絞り出すように言う事に、何か理由はあるのか? ゲオルグ」
「君は相変わらず……いや、鋭いな。そういう部分に関しては、僕はまだまだ、だね」
 ジークフリードの指摘を受けて、ゲオルグは自嘲気味に笑う。
「その質問に、今は答えられない。……ごめん。君は察しがいいから、薄々感付いているかもしれないけど…………一つだけ、言える事はある」
 おそらく拳銃が入っているであろうケースを提げて、ゲオルグはジークフリードに背を向ける。
「――アンは。……アンゼリカ・ログナーは……死んだよ」
 ジークフリードから、表情は見えない。心も読めない。
 今それを言う事に、一体何の意味があるのか。
「そうか」
 懐かしさを感じるその名を持つ者が死んだと聞かされても、ジークフリードは、悲しくも何ともなかった。心の中で揺らめいた焔が、空白の中に埋もれる一枚の写真らしきものを焼いていった以外には――何も。
「……?」
 遠くにあった写真がどういうものだったのかは、分からなかった。確認する前に焔に飲み込まれ、灰と化してなくなってしまったからだ。
 そうだ、それでいい。
 何故か感じた名残惜しさを無視して、ジークフリードは空っぽの手の平を握り締めた。


 ――過去がないなんて、本当なのか?


 あの時、ジークフリードの心の片隅に浮かんだものが、目の前の相手から発された。
 甲高い音に掻き消される事もなく、その問いかけは、ジークフリードに真っ直ぐに届けられる。
「何度問おうと、俺が返す言葉は同じだが?」
 ジークフリードの狙撃を寸前で回避して、リィンが強く地を蹴る。次の瞬間には目前に迫っていた刃を、彼は身を引いて避けた。
 刹那の一閃。螺旋の炎が虚空へと舞う。間髪入れずに振るわれた太刀を、ジークフリードが交差させた二丁拳銃で受け止める。
 あまり聞いていて気分は良くない、嫌な音がした。
「……ッ、お前は……!」
 閃火を宿した一撃が、二丁拳銃を押し返す。その勢いに任せて、リィンはジークフリードを遺跡の地面へと引き倒した。鈍い衝撃に襲われるが、痛くはなかった。
 リィンがジークフリードの横に太刀を突き立てる。太刀が、彼の銀を縫い止めた。
「クク……思っていたよりもやるな」
「今日こそ、その仮面を取ってもらうぞ……! 何がジークフリードだ……格好付けすぎだろう……!」
 彼はそのまま、ジークフリードのコートの端を掴んで叫ぶ。
 届くはずのない声。そこに滲むのは哀しみか、怒りか、それとも。
「そうじゃないのか――――クロウ!?」
 ああ、またこの感覚だ、と。
 ジークフリードの脳裏を掠めた、焦がすような熱さが、普段は押し込んでいる感情を引っ張り出してくる。

 お前は俺の何を知っている?
 俺を通して、一体誰を見ている?
 否、それは分かっているはずだ。
 何よりも、自分自身が一番――。

 手を掴んで振り払い、リィンから距離を取って、ジークフリードは二丁拳銃を収める。
 何が嘘で、何が真実で、何が空白で、何が本当の記憶なのか。ジークフリードの中で再び沸き上がる焦燥と苛立ちが、抑えている蓋の隙間から零れ出る。
「だから無駄だと言っている!」
 掴めそうで掴めない。――掴めなくていい。
 分かりそうで分からない。――分からなくていい。
「来い、《オルディーネ》!!」
 見慣れた蒼の機体に乗り込んで、眼下の《Z組》の面々を、ジークフリードは黙って見遣る。こうするのは初めてではないような妙な既視感があったが、すぐに必要のないものと見なした。
「一つ忠告しておこう。今回の顛末はイレギュラーにすぎん。いや――それすらヤツ≠フ計算かもしれんが」
「どういうこと……!?」
「何が起ころうとしている!?」
「俺は代理人。是非を述べる立場にはない。勝負の対価として情報を支払うだけのこと」
 ジークフリードは退屈していた。思い切り戦えると思っていた海上要塞では出番を奪われ、なかなか手強い相手と交戦する事が出来ずにいたからだ。

 ――空虚さの中に少しでも高揚感を与えてくれた礼は、これで十分だろう。

 言い切ったジークフリードの心に、一枚の硬貨が落とされる。
「……くれぐれも利子は求めるなよ?」
 それはごく自然に、流れるように出てきた言葉だった。
 直後、からん、と音がする。リィンが持っていた太刀を手から滑らせたからだ。
「待ってくれ……! 本当に覚えていないのか!?」
 虚空に伸ばされた手。リィンが切なげな表情で見上げてくる理由は、ジークフリードには分からない。
「少しは俺たちのことを――――」
 上昇を始めたオルディーネ。何かに気付いた様子のリィンが、彼を呼び止める。
 聞くな、聞いてはいけないと己に言い聞かせて、ジークフリードは返答をする事なく、オルディーネごと転移した。

 己の奥底に潜む誰か≠ゥら、目を逸らしながら。

 ◆

 黄昏が滲んだ空を、蒼が満たしていく。それは、とある計画が始まった事を意味していた。
 同時に己の存在が消えていく事を感じ取って、ジークフリードは乾いた笑いを零す。
「……俺は、ここで消えるのか」
 ジークフリードが振り返ると、以前と同じように、彼は――クロウ・アームブラスト≠ヘ、肩を竦めた。
「俺は俺≠セ。否定なんざしねえよ、お前の事も」
「何を言っている?」
「受け止めるって事だ。アイツらの代理人として動いていた蒼のジークフリード≠ニして在った俺≠烽ネ」
 言葉の意味を掴みかねて、困惑するジークフリード。そっと自分の胸へと手を当てて、クロウは告げる。
「礼だけ言わせてくれ。それ以上、何も言わねえよ」
 言う必要もないのだ、と。続く言葉は音にはならなかった。
 届くはずのない鏡の向こうへと手を伸ばすように、クロウがジークフリードの肩に手を置く。
 束の間の、無音の世界。ジークフリードの口だけが動いて、発されるはずだった言葉は空へと溶ける。
「――――」
 仮面が地面へと落ちる。音もなく。
 二つの緋が正面から合わさって、一つの緋色となる。小さな幾つもの光を残して、ジークフリードは揺らぎの中へと消えていった。
「……」
 残された蒼の小さな光を握り締めて、クロウは目を閉じた。蘇る数々の記憶の奔流に飲み込まれないように、心を落ち着ける。
 彼の足元に咲くのは、緋の草花。覆う空に広がっていくのは、呪い。

 昏き焔によって齎された終末の世界の中、どう動くべきか。
 命を《アルベリヒ》によって繋がれた身ではあるが、どうするべきなのか。

 理性と理屈が絡み合う。糸のように、複雑に。
 風に吹かれたそれの花弁が、空高く舞い上がった――その時。
「…………?」
 静寂の中、誰かの気配を感じて、クロウが顔を上げる。がさりと音がした方を見れば、延々と続く終末の色の合間から、水色がひょっこりと姿を見せた。
 手を振って、一人の少女がクロウへ駆け寄ってくる。
「お前は……」
「やっほー、クロウ。……って、そんなのん気なことも言ってられないかな」
 こんな場所に居るはずのない少女――ミリアムは、頭の後ろで腕を組んで笑った。
「ミリアムか。……なんでここに居るんだよ?」
「うん、ちょっとワケありでさー。でも、最期にクロウに会えて良かったかも」
 ミリアムが現れた時点で、既にクロウの中に仮説が浮かんでいた。常識では考えられない場所での邂逅の理由など、そう多くは考えられないのだから。
 それが確信に近付いて、一体何があったのかと、クロウはジークフリードとして見ていた記憶を辿る。

 黒を纏った聖獣に喰らい付かれたヴァリマール。
 リィン達を守る為に、体を張ろうとしたアルティナ。
 そんな彼女を姉≠ニして庇い、聖獣に切り裂かれたミリアム。
 そして――。

「さいご…………最期、って事かよ」
 過ぎった光景を拾い上げて、拳を作ったクロウ。そうせずにはいられなかった。
 ただ、何に対して怒ればいいのか、悲しめばいいのか――行き場のない感情が記憶と共に入り乱れて、浮かびかけたものを彼は上手く形に出来ない。
 俯いた彼の両手を掴んで、ミリアムは言う。過ごした時間が生み出した、ささやかで、大切な願いを。
「アーちゃんにはもうお願いしてあるんだけど、クロウにも言っとかないとね。――リィンのことヨロシク、って。ボクはもう行かなきゃだから……リィンやみんなのそばには居られない。だから、お願い」
「……ミリアム」
「……ボク、あの時のクロウの気持ちが、ちょっと分かった気がするんだ。すっごく痛くて、破っちゃった約束もあって、みんなが悲しそうで……でも、守れたかな、道を拓けたかなっていうのが、このへんにいっぱいあって……それの名前までは、分かんないままだったけど」
 あの日、エンド・オブ・ヴァーミリオンに貫かれ、クロウが致命傷を負った箇所にミリアムの小さい手の平が当てられた。
 寂しさを含みながらも、満足気な笑顔で、彼女は言う。
「もしかしてクロウも、ボクとおんなじ気持ちだったのかな――そう思ったら、消える前に笑うことが出来たんだ。……あのさ、クロウ。これって、《Z組》に……士官学院に入らなかったら、感じることはなかったのかな?」
 あまりにも真っ直ぐな問いに、クロウは空いた手で頭を掻く。
「……そうだな。否定はしねぇよ」
「むー、曖昧だなー。クロウも≠ネんだかんだ言って、素直じゃないよね?」
「や、あの坊ちゃんには敵わねえと思うけどな」
「あははっ、確かにそーだね」
 同じ人物を思い浮かべて、顔を見合わせて笑う二人。穏やかな時間が流れる。鉄血宰相の事を踏まえると、端から見れば、そうしていられるような関係ではないというのに。
 その後、クロウはミリアムと《Z組》の話を幾つかした。放課後のひと騒動、ユミル旅行中のハプニング、特別実習の時の思い出――どれも、振り返ると眩しいくらいに煌めいていたと、彼は素直に思った。
「楽しかったよね。ボク、みんなと過ごした時間も大好きだって言えるよ。あの戦いの後に泣いちゃったのが証拠かな」
 クロウは相槌を打ちながら、ミリアムの追憶の旅に付き合う。
 時間が経過するにつれて、彼女の体が透けていき消滅へと向かっている事には、気付いていないふりをして。

 他愛もない話を、どれほどした事だろう。
 長くもあり短くもある時間は、ミリアムの体から淡い光が漂い始めた事によって、終わりを告げようとしていた。

「あ……そろそろ時間だ」
 光の粒子を纏いながら、立ち上がるミリアム。まったく色が変わらない空を見て、先程と同じように元気よく手を振った後、ミリアムが境界線の方へと走って行く。
「それじゃーね、クロウ!」
 また明日も会えるのではないか――そう思ってしまうほどだった。
 学院に居た頃を思い出して、クロウも小さく手を振る。
「おう。……機会があったら、ユーシスのとこにも顔出しとけよ?」
 クロウが出した名を聞いて、彼女は振っていた手を下ろした。
 少し間を空けた後、うん、と言い残して、ミリアムの姿は消える。
「ったく。……お前さんが話すべき相手は、俺なんかじゃねえだろ」
 女神の悪戯なのか、巡り合わせなのか。どちらにせよ、ある意味残酷な事をしてくれるものだと、溜め息に似たものを止められなかった。
 宙を舞う光が、どこかへと飛んで行く。それを見届けて、クロウは立ち上がった。
「……。さて、と。行くしかねーな」
 肚は括った。あとは、行動するしかない。
 行き着く先に何があっても、今は真っ直ぐに進むしかないのだ。築いてしまったもの、抱いてしまったものを、無駄にしない為にも。

 ――かつて怒りの焔を抱いた胸に、かつて下した鉄槌を持つ手に、かつて偽りの時間を映し出していた眼に、光を。

 遠ざかる夜明けを追いかけて、終わらない黄昏の中、クロウは駆け出した。



←Back