Call my name

 どこまでも真っ暗な世界に、彼は独り。
 最後の記憶は、焼き付いて離れなかった。心の臓を貫いた緋の尾、止まることのない鮮血、徐々に消えてゆく視界。瞳から雫を落としながら、必死で呼びかける仲間£B。痛みを通り越したそれは、流れてゆくはずだった彼の時間を永遠に止めてしまった。
 どこまでも静かな世界に、彼は独り。
 例えるならば、そこは水中のようだった。心地良いとも思えるその音だけが、その世界で揺蕩う彼を包んでいる。閉ざした緋の瞳を開く事のないまま、彼は、底のない黒の世界でただ佇んでいた。
 進めもしない。戻れもしない。完全に立ち止まってしまった彼は、永久の静寂の中で、覚める事のない眠りについたーーはずだった。

『      』

 蒼の名を呼ぶ声がする。暗闇の彼方、世界の何処かから。届かないと分かっていても、届けと願うように、名を呼んでいる。
 ぴくり、と。その声にあり得ない反応を見せた彼は、ゆっくりと、開かれるはずのなかった瞳を開いた。二つの緋に少しづつ光が戻り、どこからか湧き上がった水泡を映し出す。
 状況を理解するよりも早く、彼の脳裏には、自分を呼んだ声が反響していた。
「ーーーー……」
 感情は言葉にならず、言葉は音にならない。
 払われるかのように、辺りの暗闇が消え去ってゆく。底の見えない闇はやがて、一面の蒼へと変わる。世界の大半を覆っているであろう、穏やかでありながらも強さを感じさせるあの色へと。
 とん、と。そこに空気があったなら、きっとそんな音がしたのだろう。己の左胸を軽く叩いた彼が、前を見据えた。

 ――届いたのは宿命の呼び声か、それとも、儚き再会の祈りか。

 呼応するかのように、明日への鼓動が響く。消え去った命が戻る――戻される。心に宿ったものは道標となり、一度は失われた閃光の残照は世界へと舞い戻る。
 彼の背後から差し込んだ光。暁の色を帯びたそれは、蒼と混じり合い路を作り出す。

 どこまでも蒼の世界に、彼は一人。


 ◆ ◆ ◆


 彼はーークロウ・アームブラストは。
 突然、目覚めた。

 小さな光は大きくなっていき、その中から一つの影が放り出される。ばしゃり、と音を立てながら、それは巨大な蒼が鎮座する祭壇の前へと降り立った。彼が見上げてみれば、蒼は沈黙を保っている。同じように胸部に空けられた大穴は、まだ癒えていないようだった。
「…………」
 地に足がつく感覚。吸い込める空気。これは夢なのかと頬を抓って、感じた痛みにクロウは最早笑いさえ出てこなかった。夢ではない、という事だ。
 水が蒼ーーオルディーネの居る祭壇を、静かに流れている。ブーツ越しにも感じるひやりとした冷たい感覚に、クロウは伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「…………おれ、は」
 随分と久々に声を発したような気がして、自分はこんな声をしていただろうかと疑問が生じる。何一つ変わっていないのだが、あまりに久しいものだから忘れかけてしまっているのだ。

 紺碧の海都・オルディスの海底遺跡。ヴィータと共に、クロウが起動者の試練で訪れた場所。最後に見た時とまったく変わっていないそこには、彼以外の気配はなかった。
「なんでだよ……」
 掠れた声で呟かれた問いに、答えをくれるものは誰もいない。
 今の状態が嫌、というわけではないのだが。死んだ。そう、死んだはずなのだ。クロウ・アームブラストという一人の男は、考えもしていなかったくらい、あたたかな最期を迎えた。何処かで野垂れ死にするのが妥当だろうと思っていたのに、仲間£Bに見送られ、悪友≠フ腕の中で、その命の灯火をそっと消したはずだった。
 両手を見て、前髪を一度掻き上げて、クロウはその場に屈む。上着の先が濡れてしまうが、そんな事は気にならなかった。
 手を当てた先の左胸を確認してみると、塞がれたような傷跡だけが残っている。鮮血が乾いた衣服は固く、いっそ着替えてしまいたいくらいだ。
 とくん、と。鼓動がある。手の平の下で、クロウの生命の証は確かに動いている。
「……俺、はーー……」
 あの時、クロウには確かに聞こえたのだ。名を呼ぶ懐かしい声が、果てのない暗闇の向こうから、紛れもなく。

『ーーーークロウ』

 誰のものだったかは、覚えていない。一人だけだったようにも思えるし、複数だったようにも思える。
 蒼の名を呼んだのは、誰なのか。誰が、死に囚われていた彼を引き戻したのか。絡み付く永久の眠りという名の鎖から解き放ったのは、一体。
「……」
 数秒の追憶と、数秒の思考。
 彼は立ち上がる。得物を手にする。水に浸っていた双刃剣は、持ち主を待っていたかのように、どこからか差し込んだ光に反射して一度煌めいた。水を振り払うように一度振ると、舞った雫が彼の周囲でぱっと弾ける。

「……あいつらのところに行かねぇと」

 ごく自然と零れ落ちていた言葉。クロウは、上着を放って駆け出す。考える前に、行くべき場所を心が告げていた。自分が今、やるべき事も。

 そして、知らなければいけない。命の理由を。


 ◆ ◆ ◆


 クロウが海底遺跡の外へ出た時にはもう、陽は地平の彼方へと沈もうとしているようだった。久々に太陽を見た気がして、その眩しさに彼は手で少しだけ橙を遮る。
 さて、どうするべきかーー。街へ出る前に、クロウは立ち止まって考える。あいつらのところへ、と直感が告げて駆け出したのはいいものの、クロウは”今”の事を何も知らなかった。自分が死んでからどれだけの時が経過しているのか、そもそもリィン達はどこにいるのか。どちらにせよ、情報収集は必要だろう。
「……。ちょっと待てよ」
 一歩踏み出しかけて、クロウは止まる。
 そして自身を見下ろす。
「……ホラー小説から出てきた生ける屍状態じゃねえか」
 乾いてはいるものの、生々しい鮮血はそのまま衣服に付着して残っている。穴が空いた場所もご丁寧にそのまんまだし、素肌はインナーをずらして隠せるからまだ良いが、それを除いても、とても人前を歩けるような姿ではない。
 きょろきょろと周囲を見回しても、代わりになりそうなものは見つかるはずもなく。さすがにこのまま街へ出て行くわけにもいかず、クロウは壁に寄りかかって盛大な溜め息を吐いた。
「初っ端から試練与えてくるとか容赦ねーな……」
 ざざ、という波の音が妙に虚しく響く。
 と、その時だった。巻けそうなものでも探してみようと立ち上がろうとしたクロウの懐から、かしゃんと音を立てて何かが転がり落ちた。
「ん、ARCUS? こんなとこに入れてたか、俺」
 トールズ士官学院のカバーが付けっぱなしのARCUSは、どうやら壊れてはいないようだった。開いてみると、かつて登録していた番号は消されずに残っている。思い浮かんだ一つの打開策は、ちゃんと使えそうだ。
「……」
 だが、指を動かそうとして、止める。躊躇した理由はクロウ自身にも分からなかった。  
 第一声で、何を言えばいいのか。なんか戻ってきたけどよろしくな、とか、実は生きてたんだぜ俺、とか、そんな事で果たしていいのだろうか。実習の列車の中では延々と喋っていられるほどなのに、こういう時は、上手い言葉が見付からない。
 びゅう、と。やけに冷たい潮風が吹き付け、思わず身震いする。このままこうしていても仕方がないだろう。そもそも繋がるかも分からねえし、と自身に言い聞かせて、クロウは目を瞑って呼び出す番号を押した。近くに居る奴に繋がるか賭けてやろうじゃねぇか、そんな思考は、正常に鳴り出した呼び出し音によって遮断される。
 二十秒ほど続いた呼び出し音。留守か、と判断してクロウが切ろうとした――その時だった。

『はい、トワ・ハーシェルです』
「!」

 向こうから聞こえてきた声は、聞き間違えるはずもなく。
 トワ、そう名を呼ぼうとしても、いっそ面白くなってくるくらいに息が詰まって言葉が出なかった。あれだけ呼んでいた名だというのに、一体何故なのか。クロウは何度も口を開きかけて、閉じる。
『……あれっ? もしもし、聞こえてますか?』
 このままでは、悪戯電話だと思われてしまう。一度息を深く吸い、吐いて、クロウは言葉を絞り出した。
「……トワ、」
『…………――えっ?』
「トワ。聞こえてるぜ」
 ごとん、と向こうから落ちるような音がする。おそらくARCUSを取り落とした音なのだろう。微かに聞こえてきた声からしてすぐに慌てて拾い上げたようだが、あまり変わっていなさそうで、彼は思わず安心してしまっていた。
『クロウ君…………なの?』
「おう」
『わたし……夢の中にいる? また机で寝ちゃってる? でもお昼に食べたパンの味を覚えて……』
「あー、落ち着けトワ。急で悪りぃが、今どこに居る?」
『え、わ、わたし? いま、オルディスの――』
 聞こえてきた地名に、クロウは内心でガッツポーズをしたような気分になる。よし、運はこちらに向いているようだ。
「ハハ、それならちょうど良かったぜ。俺も今、オルディスに居るんだ――――……が」
 究極なまでに格好悪い頼みをしてしまう事に申し訳なさを覚えつつも、打開策はこれしかなさそうなので諦める事にした。誰に頼んでもきっと、感じるものは同じなのだ。多分。

「何でもいい。後で支払うから、俺が着れそうな服を適当に見繕って持ってきてくれねーか……?」


 ◆ ◆ ◆


 紙袋を抱えたトワがクロウの前へ現れたのは、通話を切ってから三十分後だった。
 物陰からひょっこりと顔を出してクロウを見付けた彼女は、初めは抱えていた紙袋を落としかけるほどに驚いていた――否、驚き、とまた別の感情が入り混じった面持ちで、トワはゆっくりとクロウの方へと歩み寄ってくる。
「クロウ、君」
 呼ばれて、座った姿勢のまま顔を上げるクロウ。緋と翠が交わる事数秒。翠が石を投げ入れた水面のように揺らめいて、紙袋を取り落としたトワはクロウを正面から強く抱き締めた。小刻みな震えは、表情が見えなくともクロウにトワのそれを確実に伝えてくる。
「クロウくん、っ……! ほんとに、心配してたんだよっ!?」
「……」
「わたし、絶対に取り戻してみせるからって、決めてて……っ、だけど、クロウくん、わたしたちが着いたときには……もう……っ」
「……トワ」
「ほんもの、だよね? クロウくんは、ここにいるんだよね……?」
 涙が混じったその声につられたのか、クロウの視界も僅かに揺らめく。
 軽く頭を振ってそれを払拭したクロウは、しがみ付いてくるトワを抱き締め返そうとして――その手を止める。
「…………」
 過ぎったのは、列車砲。崩壊しているかもしれなかった、オルキスタワーのビジョン。
 ぴとり、とかつて穴を空けられた胸元にトワの小さな手の平が当てられて、クロウは一旦宙を彷徨わせた手を地につける。未だ生々しさが残るそこから確かな鼓動を感じ取って、トワはまた、翠から一粒の雫を零した。
「クロウくん、ちゃんと生きてるんだ。……わたし……また、会えたんだ」
 目の端に雫をくっ付けながらも、トワは太陽のように笑ってみせる。本当に嬉しい、そんな言葉が音として聞こえずとも伝わったような、そんな感覚だった。
 気にしては、いないのだろうか。ゼロ、というわけでは勿論ないのだろう。だがそれでも、トワは分かっていたはずだというのに、内戦の最中も追いかけて来ていたではないか。取り戻してみせると、公開告白に近い言葉さえぶつけられた記憶だってはっきりと残っている。
 僅かな逡巡と、湧き上がった想い。少しだけ手を持ち上げて、トワに触れる。
「……ごめんな」
 それは何に関しての謝罪か。彼自身の中では思い当たるものが幾つかあったが、それぞれ重みは異なっていた。どれを拾い上げるべきか、または全部か――今はあれこれ考えるよりも、目の前のトワの涙を止めてやる方が優先だろうか。
 そっと抱き締め返したクロウ。直接伝わる鼓動。
「俺はここにいる」
 零れ落ちた言葉は、鼓動と共にあたたかな光となってトワへと流れてゆく。それは彼自身にも言い聞かせるかのように、やがて地へと吸い込まれ消えていった。


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キツラさんのイラストに触発されたSSでした。こちらのイラストになります。水泡が似合う男よ……。


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