アラウンド・ザ・ワールド

 それを見たのは、彼にとって随分と昔のようで、そうでもない。暦の上ではかなりの月日が流れていても、その三分の二以上は眠っていたのだから、当然だったが。
 ふわふわと浮き上がるそれを見て、スレイは息を吐く。
「ミクリオはさ」
「ん?」
「やめないの? それ。体によくない、って本当なんだろ」
 彼が嗜むものはあまり健康には良くないのだと、スレイは理解していた。何かの本にそう書かれていたのを記憶していたし、ジイジが教えてくれた事もあったのだ。
「……そうだね。そのうち」
 ミクリオがどこか切なげに笑う理由が、スレイに分からない訳ではなかった。数字上では遠い昔、災禍を巡る戦いの終局で失った大切な存在の事を、思い出さずにはいられないからだ。
 スレイもミクリオも、忘れもしない。忘れられるはずがない。優しく頭を撫でてくれた事も、雷を落とすように叱ってくれた事も、蒼穹の社で、大切に慈しみ育ててくれた事も。
「またそれ」
 ヘルダルフに取り込まれたジイジを、自らの手で苦しみから解き放った時。辛さ、怒り、哀しみ――すべてが混じり合った感情は、彼ら二人の心に深く刻まれた。
 それでも、二人は決して立ち止まりはせず、歩み続けた。痛みという名の苦しみの先に見出したものを、見失ってはならないと分かったからだ。
「……」
 戦火に包まれるカムランの中に生まれ落ちた希望を、掬い上げてくれたジイジ。何度感謝の気持ちを伝えても足りないくらいの恩を、二人とも感じていた。
 
「……言っておくけど、ライラとワタシは止めたわよ。だけどオジーダが背を押した」

 二人の胸中を察したらしい声が、敢えてなのか、割って入る。
 床まで届かない足をぶらぶらと揺らしながら、エドナはそう呟いた。
「背を押した、って?」
「よ〜く聞いとけよ、ミク坊。こういうのを嗜めるようになってこそのオトナ、そしてイイオトコってもんだぜ=c…こうだったかしら」
 珍しく物真似をしてみせたエドナに、スレイは小さく笑う。
「ええと……つまりミクリオは、大人の良い男になりたかった、って事?」
「そういう事ね」
「そこは僕が答えるところだろ」
 じとりとした目で彼女を見遣って、ミクリオは頬杖をつく。
 長くなった銀の髪がさらりと揺れて、夜明けのような色を秘めた瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「君が眠っている間に、色々あったんだよ」
 いずれ機会があったら話すさ、と。彼はそれだけ零して、夕陽が詰まったようなグラスを傾けた。
「うーん……そっか。だけど、ミクリオはミクリオだなって、オレは思う」
 一体何があったのだろう、と問いかけたくとも、今はそれを許してくれなさそうな雰囲気に包まれる。
「ミボはミボだもの。当然よ」
「だからそこは僕が答えるところじゃないのか、エドナ」
 頬杖をついたまま、彼は続けた。
「背も髪も伸びたけど……そこまで大きく変わってはいないさ。僕も――」
「……」
 直後、旅の途中で何度も聞いた音が鳴る。
「痛ッ、そこでどうして僕を傘で突くんだ!」
「変わらないなあ。二人とも」
 どこか微笑ましそうに二人のやり取りを見ていたスレイは、自然とそう言っていた。言葉が、葉を伝う朝露のように、零れ落ちるかのようだった。
 それを聞いてミクリオは一つ、息を吐く。エドナは、持っていたそれをテーブルに引っ掛けて、再び足をぶらつかせた。

「きっと、これからもこうだよ。僕らは」

 そう言うミクリオは、心の中からあたたかな断片を拾い上げている。
「……世界がどんな色になっても?」
 答えなんて分かりきっている問いを、エドナが横からぶつける。
「ああ」
 銀の合間に在るミクリオの紫は、変わらない光を湛えていた。
「だよな」
 へへっ、と笑ってみせたスレイにつられて、煙管を置いたミクリオも笑う。
 少しだけ穏やかな空気が流れた後、ことん、とグラスを置いたエドナは、変わらない瞳でミクリオを見上げた。
「ミボ、マロングラッセを持ってきて頂戴」
「はいはい。エドナお嬢様」
「あはは……」
 そんなところも相変わらずなのだと、スレイは安堵していた。心の奥、更にその奥で生まれかけていた名前のない感情は、風に吹かれて消え去ってゆく。
「そういえば……みんな、どうしてこれを飲むんだろう?」
 立ち寄った街の酒場では、真っ昼間から盛り上がっている場所が多い。
 酔っ払って仲間に絡んでいた人や、悪い酔い方をしたのか、カウンターに泣き崩れて延々と愚痴を零している人――或いは、心地良さそうに嗜む人。スレイは二度の旅の中で、そういった人々を何度も目にしてきた。
 まだ彼にとっては、少々苦い飲み物でしかない。その意味が分かるまでは、もう少しだけ、時間が必要らしかった。
 席を立ったミクリオが振り返って、よく見せていた、考え込む仕草をする。
「心が洗われる水――そう言い表してる人も居たね。つまりは、そういう事なんじゃないか」
「心を洗う水、かぁ」
 スレイの瞳を反射したかのようなカクテルが、グラスの向こうに光を映し出した。


(お題箱:煙管で一服してるエピリオにそろそろ禁煙をと迫るスレイとエドナ)

※どこで飲んでんの、とか細かい事は気にしないでください。
・スレイのカクテル=アラウンド・ザ・ワールド
・ミクリオのカクテル=カラントサンライズ


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