ヴァイオレット・アイ | |
今立っている場所が夢である事は、すぐにわかった。現実に居るはずのない人物が、そこに居たからだ。 「……彼は……」 向こうはまだ、こちらには気付いていないようだった。高原の草の上に腰を下ろし、ただぼんやりと、雲が流れる空を見上げている。風に吹かれているその姿は、紛れもなく。ーー下ろされた瞼の裏側には、きっと、同じ紫の瞳があるのだろう。 一歩、踏み出す。まだ彼は気付かない。どくん、と心臓が鳴って、足を止めてしまった。何故だろうか。対面したいと思って近寄ろうとしているのに、心のどこかで、それを恐れているのか。脳裏を過る、業火の中で振り下ろされる短剣からは、必死で目を逸らしているというのに。 「……? 誰だ?」 草を踏む音がして、ようやく気付いたらしい。開かれた瞳が自分と同じ色をしているのを見て、半ば反射的にくるりと背を向けた。 何と返そうか。浮かぶのは、らしくもない単語ばかりだ。落ち着け、と自身に言い聞かせる。 僅かな間だというのに、妙に長く感じる沈黙。あまり長く悩んでいても怪しまれるから、その中から無難なものを一つ、摘み上げる。 「……ただの、通りすがりだけど」 「通りすがり? こんな僻地に、珍しい事もあるな」 「世界中を旅しているからね」 その言葉に彼が、ぴくり、と反応を示したのが背を向けていても分かった。おそらくそのワードは”旅”なのだろう。 「…………旅、か」 ぱらぱらと、本を捲る音がする。天遺見聞録だろうか。 「…………」 途絶えた会話。切り出そうにも、適切な言葉がどうしても見付からない。それほど、今背後に座り込んでいる人物に対して、複雑な感情を抱えているのだと気付く。あちらはあまり自分の存在を気にしていないのか、本を捲る音は止まることはなかった。ーーそもそも、後ろに居るのが誰なのかを分かっていないのならば、当然の反応だったが。 導師ミケル。災厄の時代が始まるきっかけとなってしまった人物。母ミューズの兄であり、すべてのはじまりの村であるカムランを作った”人間”だ。 一分か、三分か、それともそれ以上か。世界から吹き渡る風の音以外が消えてから、互いに一言も発しなかった。 ふと、足元に菫が咲いているのを見付けたーーその時だった。 「旅をしている、と言ったな。一つ聞いてもいいか」 「……僕に答えられそうな事だったら」 背に感じる視線。振り返ろうとして、留まる。 ミケルが言葉を発するまで、また少し、間が空いた。聞いていいかと言っておきながら、どこか、その問いかけをする事に戸惑っているようだった。 ぱたん、と、本が閉じられる音。 ”導師”は、静かな声色で言う。 「……。お前たちは、旅の果てに”答え”は出せそうか?」 「……っ!」 「こっちを向いてくれないか、”ミクリオ”。……お前に顔を合わせる資格など、私にはないだろうが」 一体いつから気付いていたのか。動揺する心をどうにか抑え付けて、ゆっくりと、振り返る。 交わる四つの紫。安堵したような、複雑そうな、何とも言い難い面持ちをしたミケルが、まっすぐにこちらを見つめていた。自分の中に誰かを見ているのだと、察する。 「ああ。やはりミューズの面影がある」 ほんの少しだけ和らげられた表情。ミケルが口にしたその名にまた、心臓が鳴った。 「貴方とも、似ていると思うけど」 「……寝言はここでは言わないでくれ。お前を殺した男に似ていても、嬉しくないだろう」 「……」 そんな言い方、と踏み出しかけて、ぐっと堪える。事実である事は否定できないからだ。ミケルによって命を絶たれた”人間のミクリオ”は、カムラン壊滅の引き金を引いたヘルダルフに”永遠の孤独の呪い”をかける為の贄となった。 導師は自分の命と、大切な妹の息子の命と引き換えに、復讐を果たしたのだ。あろうことか世界を救世するはずの存在が、後の時代へと続く災厄を生み出すという、最悪な形で。 「……だったら」 無意識に拳を作って、詰め寄る。 「どうして、こうやって僕の夢の中に現れたんだ」 さすがに胸倉は掴まない。そこまでする理由はない。彼に対して怒っているわけでも、恨んでいるわけでもないからだ。ただ、どうして、という気持ちだけが先行して、ミケルに詰め寄ることしか出来なかった。 ミケルは一旦目を閉じて、深い息を吐く。 その仕草は、スレイの突飛な発言に対して自分が行うそれとそっくりで、思わず、握っていた拳をそっと下ろした。 「……それは私が聞きたい事だ」 「え」 「永遠の孤独の呪い。それは、強力故にかけた者にも等しく降りかかる。命を代償にしても、現世からいなくなっても……死を迎えた時のような世界へと身を投じる事を、私は許されなかった」 「それは、つまり……どういう」 「簡潔に言うならば”幽霊”だ」 「ゆうれ、い……」 幽霊。未練を残したまま現世に留まり、誰からも認識されぬまま、孤独である事も多いと言われる存在。 視線を落とした先には、先ほど見付けた菫の花があった。小さな紫は何も言わず、風に揺れている。 「私へ与えられた”罰”なのだろう。世界へ干渉する事は出来ず、自身のせいで起こった災厄がもたらした悲劇を、ただ傍観する事しか出来ない。……不思議なもので、それが始まると、縫い止められたように動かないんだよ。体が」 「……そんな」 「ここがどんな世界なのかは分からない。ミクリオ、お前の夢の中だとしても、私には生前の記憶がはっきりとある。……だとすると、眠ったお前の意識と私の霊魂が、何かの狭間の空間で出会ったのかもしれないな」 再びミケルが地面へと腰を下ろす。見下ろしながら会話を交わすのに抵抗が生まれて、同じように座れば、隣でミケルが苦笑いをしていた。 見上げた空を、一羽の白い鳥が飛んで行く。 どうやら、ヘルダルフへとかけた呪いは、ミケルにも同様に降りかかっていたらしい。因果応報ーーと言ってしまうには、残酷すぎるだろうか。けれど、そのせいで、と思うと、浮上する言葉の中では一番、それが目立ってしまう。 「導師、ミケル」 絞り出すように、言葉を発する。 「……僕の母の兄。貴方がした事で、災厄が始まった……始まってしまった。何人もの人が過酷な運命を定められ、何の罪もない人が死ぬ事になったんだ」 「……」 カムラン。終わりの地であり、始まりの地。あそこで起きた事が今へと繋がり、その過程には、罪のない命がいくつも失われている。ミケルがヘルダルフへかけた”呪い”によって、彼の家族は無残な道を辿った。引き起こされた戦争では、数え切れないほどの命が消え去った。 瞳石で見せられた映像を思い返しながら、横目でミケルを見る。ちょうど髪に隠れて、その表情は伺えない。 「だけど」 そう続ければ、ゆっくりとミケルの視線がこちらへ向けられる。 「貴方が僕を生贄にした事で、僕は天族になった。…………”スレイ”の作った未来を、見届けられる存在に」 人間のままだったら、そうはいかなかっただろう。一緒に道は走れても、作った世界を見守る役割を、誰かに託さなければならなかっただろうから。 「ジイジには勿論、感謝してる。僕を転生させてくれた事も、こうして今まで見守り育ててくれた事も。……僕が人間として生き続けていたら、スレイと、”人と天族が共存する世界”を、夢として追いかけられなかったかもしれないんだ。”違う種族でありながらも一緒に走れる友人”にだって、なれなかった」 「……ミクリオ」 「ミケル、貴方に対して、感謝は出来ない。だけど……。…………ダメだ。上手く言葉にならないな」 何かを言いかけたミケルを遮るかのように続けるも、続きがなかなか出てこない。どうすればいい。何を言えばいいーー。頭の中で羅列した文章と感情がぐるぐると回り、混ざり、思考をまとまらせまいと撹乱してくる。 数秒後。ぽん、と、頭にミケルの手が乗せられる。大きくて、あたたかい手だった。 「ミクリオ。……いや、私には、その名を呼ぶ資格もないな」 「……」 逸らされた視線。いつの間にか夕暮れに染まりつつあった空を見て、ミケルは続ける。一瞬切なげにそれが細められたのは、広がる橙を見て思い出すものがあったからだろう。 「私はあんな答えしか出せなかった。……出せなかったんだよ。どこで間違ったのかも、何をすればよかったのかもーーカムランのみんなの悲鳴、叫び、嘆きを聞いているうちに、分からなくなってしまった。目の前は真っ暗で、光を見失ってしまった。そうして、内側に燻る黒い炎に突き動かされるがままに、ヘルダルフを呪った」 天遺見聞録を開いて、導師の壁画が描かれたページで手を止める。導師ーー聖剣を掲げる”英雄”。希望を与え、救世主だと崇められ、人々の心の支えになる存在。 導師の部分を軽くなぞって、ミケルは自嘲気味に笑った。その裏に何が隠されたのか、分かるようで分からない。 「お前は陪神として、導師を支えているようだが……どうか、忘れないでほしい。彼も導師である前に、ただの一人の”人間”なんだと」 「!」 「残酷な事を言ったかもしれない。けれど、もう、同じ道を辿る導師が生まれない事を祈るしか、私には出来ないんだ。……バチが当たるだろうけどね」 導師になれる者は純粋故に、動かされやすい。白は何色にでも染まる、危ういのだと。 おそらくミケルも、ライラと旅をしていた頃は、スレイのようにただ純粋に色々な事を解決しようとしたのだろう。正直な心のままに、答えを探しながら、先の見えない旅を続けていたのだろう。 「導師という称号は、私には重すぎたようだ。情けない話だが」 英雄などという完璧な存在はいない。ミケルはそう言いたいらしい。そう称されるほど功績を残した人物が居たとしても、元はちっぽけな一人の人間に過ぎないのだ、と。 「……そんな事。そんな事、貴方に言われなくとも分かっているさ。僕は、スレイは”スレイ”でしかないと思ってるから」 隣で、夕飯を食べ過ぎて腹を抱えながら眠りについたスレイの事を思い出す。 「遺跡好きで、僕のライバルで、おやつを作らせても暗黒物体ばかりで、すぐお腹を空かせて、目を離せないくらいどこか危なっかしくて、優しすぎるからこそ……だんだん本音が言えなくなって……それでも、それでもスレイは、スレイなんだ。僕にとって、大事な”親友”なんだ」 だから絶対に道を誤らせたりなんかしない、外れそうになったら杖で殴ってでも引き止める。導師の名が重いなら、一緒に背負う。そして、二人で追いかけた夢を必ず実現させて、それが続くように守ってみせるーー。 手元にない長杖を構えるようにしながらそう言えば、ミケルはほんの一瞬だけ表情を歪めて、何かを堪えた。 「そうか」 ミケルが静かに、口を開く。ここにはいない誰かへと語りかけるように。 「”伝承は、いつしか希望になる”。ーーミューズ、お前の愛した子は……カムランの遺した、希望は……」 「ミケル?」 立ち上がったミケルの体が僅かに透けている事に気付いて、その手を掴もうとするも、叶わなかった。すり抜けてしまいやり場をなくした自分の手が、虚しく宙を掻く。 「あ……」 「今更、私がお前に色々と言う必要はなさそうだ。だが、一つだけ……”弓を構えて真実を射抜け”。お前がそばにいるなら、導師は答えを掴む事が出来る。きっと」 「…………当然さ。今までだって、そうしてきたんだからね」 力強く頷いて、応じる。弓。神依化した時の得物は、この旅の中で何度も道を切り開いてきた。すべてが終わるまで、終わらせられるまでーー放った矢で、暗黒の真実を貫いて白を見出してみせる。 一見、後始末にしか思えないだろう。だがこうなってしまっていた以上、もう前へ行くしかない。導師と陪神として未来を託されたのなら、それに応えて、夢を意地でも掴み取るしかないのだ。 「見届ける事は叶わないが、信じているよ。水の天族ミクリオーー災厄の炎を、親友である導師と共に消し去り、”世界を照らす”事を」 そう言い残して、消えゆくミケルが笑った。何の屈託もない笑顔だった。 「ああ、彼も……」 最期の笑顔に、誰かが重なる。 宙を舞っている光の粒子へと手を伸ばす。ミケルはどこへ行くのだろう。永遠の孤独に縛られているのなら、また、世界のどこかで災厄を目の当たりにする事となってしまっているのだろうか。それともーー。 足元にあった菫を摘む。紫の花弁は、風が吹いていないのに一度だけ揺れた。 『家族のようなものだよ。ミクリオーー』 感じたあたたかさはきっと、遠い日に確かに在った小さな幸せなのだろう。 す、と息を吸って、吐く。次第に白に覆われていく世界。 「ありがとう。……見ていてくれ、僕たちの”旅”を」 ーーーーーーーーーーーーー 捏造フェスティバル第一弾。ミケルもただの人間だった。 ←Back |