ホワイト・バード
 風が吹く。
 どこまでも澄んだ空気に満ちている。広がる雲海には先が見えず、描かれた青と白の境の線は時折混じりながら、遥か彼方まで続いている。
ーーあ! 今、空をネコのような妖精が飛んで行きましたわ!
 ぼんやりと蒼穹を眺めていてふと過ぎったのは、ライラがかつて言っていたとんでもなく下手な誤魔化し。誓約が枷となって発言に制限がかかっているライラは、とにかく、核心に触れられそうになると様々な手を使ってはぐらかした。お世辞にも似ているとは言えない猫の鳴き声の物真似を披露したり、突然妙な歌を歌い出したり、何もない場所でずっこけたり。不自然極まりないそれらにいつの間にか笑いを堪えるようになり、肩を震わせ、背を向けていたら傘でつつかれた事がもう、何ヶ月も前のように思えてくる。
 悪くない、旅だった。楽しかったとは言えないし、決して言ってはいけないと思っている。自分にはそんな資格はない。復讐のために神依を欲し、ロゼを都合のいいように利用し、加わった直後など、スレイ達の事は仲間だと捉えてはいなかった。嘘偽りのない笑顔を向けられても、仕方なく作ったおやつを美味しいと言われ目を輝かせられても、仲間だと言われても、あいつらはあくまで同行者だーーと、そう自身に言い聞かせていた。
 その時が訪れ、万が一の事があっても、振るう復讐の刃を鈍らせない為に。独りで戦わなければ、孤高でなければ、目的は果たせないーーずっと、そう思っていたから。
「心に、絆……か」
 ギネヴィアでの風の試練。一人では成せなかった事。そこでようやく、何かに気付けた気がした。失っていたような、落としてしまっていたような何かを、掴めた気がした。塔の頂から身を投げて自殺をはかった女性を助けられた時、スレイと目を合わせて、自然と笑えていたのだ。復讐に満ちていた冷えた心に、名前は分からない、あたたかいものが確かに流れ込んだのだ。
 血塗れた道を歩いてきた自分の手を、引っ張ってくれるような。
 振り返れば、そこで手を振って笑ってくれているような。
 独りではないと感じさせてくれるような、居場所を与えてくれるようなーーそんな奴らが、自分には居るのだと。
 けれど、気付くには少し、遅かったのかもしれない。復讐の為に手を血で染めてきた者が、あんなに優しい世界に居てはならないと誰かに宣告されるかのように、道は分かたれたーーいや、自ら引き金を引いたと言った方が妥当かもしれない。復讐の対象を目前にして、何も見えなくなってしまったのだから。
『じゃあな。そのままでガンバレよ』
 最期の最後で、笑えていただろうか。ーー遠くなるロゼの瞳に涙が浮かんでいなかったのを思い出して、ああ笑えていたのだろう、と安堵する。
「……?」
 かつて、険しい岩場でライラとシルフイーグルの巣を見付けた時のような穏やかな風を感じて、閉じていた目を開く。光を取り戻した目が映し出した景色は、橙に染まりつつあった。先ほどからそこまで時間は経過していないはずなのに、不思議なものだった。改めて、ここは現世から隔絶された地なのだと実感する。
 と、その時。
「何だ? 何か飛んでくる……?」
 残された白の中を飛んでいるにも関わらず、捉える事の出来たそれ。腰掛けていた岩から立ち上がって、雲の合間をふわふわと漂う”白”を、目を凝らして追う。やや不安定ながらもゆっくりとこちらへ近づいて来るそれは、よくよく見ると鳥のようだった。
 だが、鳥にしてはあまりに白すぎる。羽ばたきも見られない。
「……あれは」
 白が飛んで行く方向へ、思わず歩き出した。おそらく、生きているものではない鳥ーー思い当たるものは、たった一つしかない。
 たいして回転もしないうちに、脳は一つの記憶を掘り起こした。
『オリガミ、と言うそうです。デゼルさんもいかがですか?』
『俺は遠慮する』
『あ、それなら、私が花を折りますわ。それをデゼルさんに差し上げますね』
『……それをどうしろと?』
『飾ってもよし、見てもよし、装備してもよし! ですわ』
『……ぷっ、一番最後、いいんじゃない。ワタシはオススメするわ。あなたのその帽子の飾りに上手く差し込めそうだし』
『この帽子の飾りはその為にあるんじゃねぇ』
 しょうもない、としか言いようのないやり取りが過って、ふ、と表情が緩んだのが自分でも分かった。本当に、しょうもない会話だったーー心底。
 回想に浸る間にも、優しい風がまた吹いて、白が一気に近寄ってくる。足を止めて立ち止まってみれば、まるでそれは意志を持っているかのように、風に乗りつつも真っ直ぐにこちらへと飛んできた。
「……」
 ぱさり、と。掌でそれを受け止める。ほんの少しだけ花の香りがする白の折り鶴は、もう二度と会うことのない彼らからのものだと、すぐに分かった。理由も根拠もない。それでも、そうだと思えた。その折り鶴が、鳴き声を発する代わりに、何かを伝えてくれたから。
『まあ、あんなところに……』
『なにを見ている?』
『崖の上に鳥の巣が。ヒナがいるようですわ』
『多分シルフイーグルの巣だろう』
 ギネヴィア付近で、シルフイーグルの巣を見つけた時の事を思い出す。敢えて険しい岩場に巣を作り、吹き荒ぶ峡谷の風を生かして逞しく生きる、自分たちからしてみれば小さな、小さな命。
『こんな過酷な場所でも生きているんですね。命が』
『たしかに過酷だがな。岩場は敵から巣を守る城壁でもある。やまない風も高く飛ぶ力に変わる。そう捨てた場所でもないのかもしれん』
『……』
『なんだ?』
『いえ、珍しいなと思って。こうして落ち着いて話すのも』
 見えてはいなかったが、きっと、あの時のライラは穏やかな表情を浮かべていたのだろう。視力を失ってから、声色で相手の表情を想像するのは得意になった。そうして向こうが何を考えているのか、何を言おうとしているのかを想定してきた。それでもどこかライラは掴みきれない部分があって、一対一でゆっくりと会話を交わした事はおそらく、片手で足りるほどだ。
 避けていたわけではない。苦手だった、というわけでもない。ただなんとなく、見透かされているような気がしてーーそして、遠い昔に誰かから与えられていたようなあたたかい感情、そんなものをライラから感じて、自然と距離を取っていたのかもしれない。刃を鈍らせる妨げにしかならないと、復讐者の本能が告げていたのだろう。
『ちっ……。気まぐれだ。いい風が吹いているからな』
『ええ。本当に。鳥たちを運ぶ風ですね……』
 鳥達を運ぶ風。それは世界中を駆け抜ける、翠の軌跡。高く、高く、命失ったもの、命なきものでさえも果てのない青へと舞い上がらせるもの。
 掌の中で、白の鳥が風に吹かれてかさりと音を立てた。
「…………いい風が、吹いているんだな」



「スレイさん」
 道中、立ち寄ったペンドラゴでの束の間の休息。日が暮れかけても宿屋にスレイの姿が見えず、探しに出たライラが彼を見付けたのは”あの場所”だった。
 ライラの呼びかけに、スレイはゆっくりと振り返る。夕陽に照らされるその表情は、苦笑しつつも、どこかに僅かな寂しさを滲ませていた。
「ライラ。……ごめん、探させちゃった? 今戻るよ」
「いいえ、なんとなくこちらかと思いまして……」
「さっすが、だなぁ」
 頭を軽く掻いて、スレイは再び夕陽を見遣る。向けられてしまった背中。ライラから、今のスレイの表情は一切見えない。
 数秒の間。橙の空を見上げているのは、何か理由があるのかーー薄々察しつつも、敢えて問わなかったライラが同じように空を見上げると、スレイが口を開く。
「……イズチにいた時の事、思い出してたんだ」
「旅に出る前、の事ですか?」
「うん。オレ、”イズチヒバリ”って鳥を、ある日見付けてさ」
 スレイ曰く、雛の時に見つけたそのイズチヒバリが巣立つ時、一羽だけ地面に落ちてしまったという。手を出してはいけないとジイジに言われていて、助けたいのを堪えて見守っていたら、身を引き摺るようにして移動した結果、上手く羽ばたきも出来ないのに崖から下へ落ちてしまった、と。
「もうダメだ、って思っちゃったよ。でも走っても間に合わないし、どうする事も出来なかったから、オレ、ジイジに言っちゃったんだ。どうして助けさせてくれなかったんだ、って。そしたらさ、ジイジ何て言ったと思う? ……”いいから黙って見ておれ”ーーオレは思わず、崖から身を乗り出しちゃったんだ」
「……」
 夕焼けへ右手を伸ばして、スレイはその中を駆ける黒い影を目で追った。
「その時、下から風が吹いたんだ。強かったけど、なんというか……支えるような、強い風だったよ。そうしたら、オレの目の前を、落ちちゃったイズチヒバリが風に乗って高く飛んでった」
 空を見上げながらそんな話を聞いてーー聞いていて、ライラとスレイの脳裏を過る光景は、おそらく同じものなのだろう。
 あの日。気持ちを落ち着けようと、街中を散策し夜風に当たっていたスレイ。気持ちを紛らわせようと、紙で鳥を折っていたライラ。あまりに唐突すぎた”仲間”の死は、二人に動揺を齎した。
 けれど、表面にそれをはっきりとは出さずに、スレイもライラも、黙って彼がーーデゼルが去った星空を見上げた。暗雲が消え去り澄んだ漆黒の空に輝くのは失われた命の数だ、などと詩的な事を言ったのは、どこの誰だったか。どれが誰かだなんて、探すのは不可能だというのに。
 あの時紛らわせたかった気持ちの正体には、ライラは未だに辿り着けていない。探ろうとすれば、奇妙な防衛機能が働いて、鍵穴のない錠をしてしまう。忘れてしまった方がいいと、何かに警告されるかの如く。
 そう遠くないその時を思い返して、思考の海に沈みかけたライラを呼び戻すかのように、スレイは言う。
「……だから、きっと大丈夫なんじゃないか、って思ったんだ」
「え?」
「ライラが折った白い鳥。一回下に行っちゃったけど、風に乗ってちゃんと飛んで行ったじゃないか。あのイズチヒバリとおんなじで」
 伸ばしていた手をぐっと握って、スレイはライラに向き直り笑う。
「オレ、風が好きだよ。イズチヒバリを助けてくれたし、ライラの想いだって届けてくれた。……オレは、そう信じてるから」
「……そう、ですね。私も……私も、風が好きですわ」
 時に荒れ狂い、多くのものを奪っていく風だって、時に力強く吹き、多くのものを支えていく事もある。
「そういえば、オレ、一つ思い出したことがあるんだ」
「?」
「デゼル、って言葉、どこかで見たなぁって思って」
 懐にしまっていた天遺見聞録を取り出して、スレイはそこに挟んでいた一枚の紙を取り出す。
「ここじゃない、どこか遠い国。そこでは、デゼルって名前は”両翼”って意味があるらしいんだ」
「両翼……」
「本人に言ったら、”俺には翼なんて似合わねぇ”なんて言って顔背けられちゃいそうだけど……デゼルと神依したら剣の翼が出てきたし……ロゼが、飛んでいくように消えてったって言ってたし。間違ってないのかな、ってさ」
 翼。風に乗って舞い上がる、羽。神依を発現させたスレイやロゼが自在に宙を舞って戦える風の属性の持ち主である彼の名が、そういう意味だったとは。
 吹き渡る色のない風が一瞬翠を帯びたように見えて、ライラは微笑む。
「…………いい風が、吹いていますわ」
 誰かの翼として駆け抜けた”風”は、この瞬間も世界のどこかを駆けているのだろうか。スレイの羽飾りを、ライラの髪を揺らしたそれは、今も。

 空を見上げてしばらく沈黙を保つ二人から少し離れた場所で、ザビーダがそんな彼らを見て苦笑いしながら腕を組む。
「やれやれ。……やっぱり、俺はアイツの代わりになんてなれねぇな」
 デゼルの抜けた部分を埋めるような形で、スレイ達の旅に加わったザビーダ。風の力が欠落したままでは浄化の旅に支障を来すだろうし、そう言われても本人も否定する気はなかったのだが、やはり空いてしまった”デゼル”という穴は、誰にも埋められやしないのだ。
「けどまぁ、心配すんなって。最後まで、俺は俺なりに”風”として、導師様ご一行の背中をドーン、っと押してやっから」
 自分を見上げてきた幼い彼の姿を一瞬思い返して、ザビーダはふっと笑う。
 そういえばあの日もこんな風が吹いていたなと、遠い記憶に思いを馳せながら。








名前の由来がデゼルはdes ailes(両翼)なんじゃあないかな、と発売前から思ってたんだけどデゼルはこの大空に翼を広げ飛んで行きましたね……追悼。
ライラの折り鶴がどうか、デゼルのもとへ届いて欲しい。


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