笑顔を失った青年 | |
夜が来て、月が昇る。淡い月光に照らされるスールズの村は、夜中だけあって静まり返っていた。 村のはずれにある集会所にも、光が降り注ぐ。窓の隙間から冷気を含んだ夜風と共に入り込むそれは、集会所一面を覆っている氷に反射し、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。 「クレア」 当然、返事はない。 氷の檻に囚われた彼女にヴェイグの声が届く事も、ない。 彼は力無く、氷柱花となってしまった幼なじみの前に座り込む。その瞳には、氷のように冷たく、暗い色しか宿していなかった。――無理もない。“あれ”から早くも一年が経とうとしているのに、ヴェイグは未だにクレアを救い出せずにいる。 今でも、あの日の事は鮮明に覚えている。何の前触れも無く目覚めた妙な力――それは、ヴェイグの制御を受け入れず、暴走するがままにその場に居合わせたクレアに襲いかかった。 彼は、欠けて使い物にならなくなるまで、剣を叩き付けた。手袋の内から血が滲み出るまで、拳で氷を殴った。立ち上がれなくなるまで、体をそれにぶつけた。火を据えていて火傷を、まだ上手く力を制御出来ていなかった頃は、凍傷を負った。――ヴェイグがこの一年で傷付いたのは、体だけではない。クレアを凍らせてしまった事から、彼に近寄ったらたちまち氷漬けにされてしまうと村人達の間では噂され、親からその話を聞いた子供にも恐れられた。時が経つにつれて、そんな事はどうでもよくなったが。 クレアの両親――マルコとラキヤ、それにポプラがヴェイグの事を庇ってくれたから、こうして彼はスールズに留まりクレアを見守っていられる。 「…………」 いつまで続くのだろう、この絶望の日々は。 いつまでクレアは、氷の中に囚われたままなのだろう。 もう、そう考える気力さえ彼からは失われかけていた。彼女は、クレアは、生きているかさえ分からない。確認する術もない。助け出せても、もしその命の灯火が消えてしまっていたら――。 不安と絶望と虚無感が、少しずつヴェイグの精神を蝕んだ。 「……オレは……」 その事を誰にも言えずに、長い夜をこの暗く冷たい集会所で一人で過ごし続けてきた。 家には、長い間戻っていない。――いや、一人、というわけではなかった。ヴェイグとクレアの飼っているザピィも、ずっと彼に付き添ってここにいる。餌を取りに行く時以外は、朝から晩までヴェイグの肩か頭の上に乗っかっていた。そのザピィは今、彼の肩の上で木の実をかじっている。カリカリ、という音だけが、集会所に響いていた。 「おまえにも、迷惑をかけてしまったな……すまない。クレアはここにいるのに……おまえを撫でてやる事も、遊んでやる事も出来ない。もう……一年も経つのにな……」 「キキッ」 「ザピィ……」 ザピィは木の実を手に抱えたまま、そう呟いたヴェイグに頬擦りをする。彼には、ザピィが何を言っているのかは分からない。けど、“そんな事ない”と、言ってくれている――そんな気がした。なんとなく、ではあるけど。 と、ザピィが肩から飛び降り、集会所の隅っこの方へ走って行った。いつもそこに何か隠しているのは、ヴェイグも知っている。食べたりなくて、食べ物でも取りに行ったんだろうか。彼はそう思っていたが、戻ってきたザピィはその小さな手に抱えていたものをかじらずに、じっとヴェイグを見つめている。 「……?」 「キキー……」 「まさか……それをオレに?」 「キキッ!」 ザピィが持ってきたものは、桃色の小さなグミ――ピーチグミだ。どこから見付けてきたのか分からないが、まだ新しい。道具屋から盗んだりしていないといいが――そう思いつつも、ヴェイグはそれを受け取る。そして、尻尾を少し振るザピィの頭へ手を伸ばした。 「わざわざすまな――」 『こういう時は、“すまない”じゃなくて“ありがとう”って言うのよ。ヴェイグ』 「……」 途端に、以前クレアに言われた事を思い出す。 「……。ザピィ……ありがとう」 頭を撫でられて、ザピィは嬉しそうに小さく鳴いた。本当は、少しでもいい、笑って言ってやるべきなんだろうが――笑い方を、忘れてしまった。 落日で失った笑顔。ヴェイグがそれを取り戻すのは、随分先の事となる。 ←Back |