守りたいものがある。それだけだ
 空を覆い尽くした漆黒の中には、幾千の星が輝いている。それはもう、数えるという行為は無意味なほどに。
 夜の帳が下りた頃、地上に届く小さな光。きっと、そのすべてを把握する事は叶わない。
 レーヴァリアを形成するのは、数多の目覚めの世界の人々が見る夢だ。誰だったろう。あの星の数だけ目覚めの世界があり、レーヴァリアの未来を紡ぐ糸となってくれている、そう言ったのは。幼い頃に読んだ夢守の伝承の中にそんな一文があった気もするが、黒い靄がかかったかのように、だいぶ曖昧になってしまっている。
 妙に冷たい夜風が吹く。澄んだ空気に潜む闇の気配は、日に日に強まっている。
 夜はまだ長い。夜明けの光が照らし出すまで、世界は眠っている。耳を澄ませば、夜空の星の音が聞こえた気がして、思わず息を吐いた。
「……そろそろ、行かなくては」
 蝕まれ始めた世界。何かに背を突き飛ばされるかのように、僅かに明かりの残る街から一歩踏み出す。
 メランコリウムで封じているラーフ・ネクリアが気掛かりで、ルフレスの街を離れる事を決めたのはほんの数日前だ。まだ幼い若仔たちだけを残して行くのに、不安がないわけではない。けれど、もし、強まっているマイナスの感情に引っ張られて結界が歪み、ラーフ・ネクリアが外へ出てきてしまうような事があったら。眠る事で結界を形成し、無防備に晒されている夢守たちに危険が訪れたらーーそう思うと、動かずにはいられなかった。
 最悪の展開は、決して訪れさせてはいけない。何にかえても、守らなければいけない。果たすべき使命と、成さなければいけない事がある。
 再び、風が吹く。唸るような風音と共に、静寂の街を駆け抜けてゆく。
「ナ、ナハト!」
「!」
 その声の主は誰かなどと考える必要はなかった。
 聞き慣れたそれに足を止めて振り返ると、テルンが不安気な面持ちでこちらを見ていた。どうやら追ってきてしまったらしい。行く事は予め告げてあったから、皆が寝静まった頃に、そっと街を出ようと思っていたのに。
「起きていたんだね、テルン」
「ほ、ほんとうに、行っちゃうですか」
 予測していた通りの問いに、ほんの少しだけ心が痛んだ。
「……。僕は行かなきゃいけない。そう、話したはずだよ」
「で、でもでも、もしヴールが街に来ちゃったら……!」
「……」
「ボクたちだけじゃ、形のあるヴールに対抗なんて……」
 テルンの言う通りだった。ヴールは勢力を増しつつある。形のないものならテルンでも浄化出来るものの、どこかの世界の魔物を模し実体をもってしまったヴールに対しては、若仔たちには為す術など皆無と言っていい。本来、ルフレスは戦う種族ではないのだから。
 震えているテルン。夜風の冷たさのせいではない事くらい、すぐに分かる。得体の知れない、容赦なく牙を剥き襲いかかって来るヴールは、恐怖の対象でしかないはずだ。
「テルン。おいで」
「……っ」
 寄ってきたテルンの肩へ、そっと手を置く。
「僕は必ず戻ってくる。戻って来るから、皆と信じて待っていてほしい。メランコリウムで元凶をどうにかすれば、きっとここも大丈夫だから」
 何が起きているのかを見て、確実に対処しなければ、いつまで経っても現状は何も変わりはしない。後をついて来てくれているテルンに、美しいままこのレーヴァリアを引き継ぐには、どうしても行かなければならない。
 諭すようにそう言うと、テルンは顔を上げて、ゆっくりと頷いた。
「…………ボク、ナハトの言葉信じる。だから、約束、してほしいです」
「約束か……必ず帰って来る、って?」
「そ、それは絶対じゃなきゃだめです! ……あの、帰ってきたら、ボクに魔法教えてくれる、って」
「……魔法を?」
「ボク、ナハトの後ろをついて行ってばかりですけど、だったら、後ろからナハトを助けられるようになりたいって思うから……」
 テルンは、後を継いでいずれ夢守になる。それはつまり、戦う力を持たないルフレスたちの為に、形のあるヴールと戦うという事だ。
 気が弱いところはあるものの、テルンは優しい仔だった。その優しさが戦う者を守り支える力に繋がるのなら、いつか立派な夢守になれる。その素質は十分にある、そう思っている。
「分かった。約束するよ」
「……! やった、魔法、教えてくれる……!」
 ありがとうと言って、目を輝かせるテルン。見上げてくる目は、いつだってこうだった。まるで中に星があるかのような、真っ直ぐな瞳。まだ穢れた世界を映してはいない、澄んだままの翠。
「育み手として嬉しく思うよ。そのためにも、早く戻って来なければいけないね」
 テルンの頭をそっと撫でる。
 ふと空を見上げると、流れ星が二つ、黒の中を駆けて行った。




 視界が霞む。力が入らない。思考さえも曖昧になり、立っているのがやっとだった。
「っ、まだ、だ」
 屈するな。立ち上がれ。終われない。己に叱咤して相手を見据える。ここでラーフ・ネクリアを抑え込まなければ、世界が、闇に呑まれてしまう。レーヴァリアが、消滅の道を辿ってしまう。跡形もなくなってしまうのだ。守ろうとした未来も、抱いた望みも、見出した光もーー何もかもが。
 底のない闇が広がる中、対峙したラーフ・ネクリアが不気味な光を放つ。漆黒に描かれる魔法陣。何が来るのかはすぐに分かった。先ほどユリウスたちと共に戦った時にも見た、極大な破壊の光を放つ術だ。まともに受ければひとたまりもない。ましてや、今の満身創痍の状態で直撃を受けたらーー。
「僕には……っ、守りたいものが、ある」
 自身に聞かせるように、言う。あの仔が見る空を、淀ませたくはない。あの仔が歩む大地を、腐らせたくはない。引継ぎたい。残したい。だから、レーヴァリアという存在を続かせなければ、今ここにいる事には何の意味もない。
 集まる魔力。対抗するように、ロッドを構える。
「ーー闇よ光れ」
 どんなに暗い闇の中にも、光がある。毎日のように訪れ広がる夜空に星が瞬くように。
 走る痛み。内に巣食うラーフ・ネクリアの影が、甘言を囁くようだった。苦しかろう、辛かろう。早く完全に身を堕として、預けてしまえばいいと。
「あらゆる影を廃して」
 苦しくない。辛くもない。これは世界の為の戦いだ。光の戻ったレーヴァリアであの仔が笑っていてくれれば、それでいいのだからーー。
 脳裏を過る、テルンの無邪気な笑顔。ラーフ・ネクリアの甘言を追い払い、背後に描いた魔法陣に全てを注ぎ込む。
「そのゆく路を照らし出す」
 すべてを守れるのなら、それで。
「放て!」
 同時に放たれた二つの光線が、凄まじい衝撃と共に真正面からぶつかり合う。ラーフ・ネクリアから流れ込んで来る何かの声が、幾つもの感情が、感覚が、内側から掻き乱してくる。痛い。苦しい。辛い。怖い。嫌だ。消えたくない。助けてーー。
 頭を振る。ロッドに力を籠める。倒れるな。負けるんじゃない。振り絞った力を上乗せし増した光はあまりに眩しく、自身のものでありながら、空いた腕で顔を覆いたくなるほどだ。
「……テルンーーーー」
 すべてを、守りたいから。
 反照する。やがて反転する。空間を覆い尽くした漆黒の中はもうーー何も、見えなかった。
 



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