三章【俺も君もまだ道半ば】


 夕刻の図書室。静けさに包まれているこの場所に居ると、ここ数日の忙しなさが嘘だったのではないかと思ってしまうほどだった。
 新年度特有の慌ただしさは先週に比べれば収まってきていたが、まだやるべき事は残っていた。士官学院としては異例の副教官≠ノ、教官の先輩として教えなければならない事が幾つもある。
 それにしても、ある意味有言実行とはこの事か――と、リィンはここには居ない後輩≠思い浮かべて小さく笑った。
『と、いうワケだ。ヨロシクな、リィン先輩=x
『本当にそう呼ぶつもりなのか……?』
『たまにはなー』
 妙な気分だった。かつて先輩であったクロウにそう呼ばれた時、むず痒さと同時に、名前の分からない感情が心に潜んだ。
 それにしても――今年の春、士官学院に副教官として配属されるまで、クロウは一体どこで何をしていたのか。そもそも、何故クロウは教官として分校に来たのか。
「……?」
 積み重ねて来たはずの記憶が曖昧だった。リィンの追憶から逃れるように、それらは鮮明さを失いながら遠ざかっていく。辿ろうとしても見えない何かが阻んで、許してくれないのだ。
「アルティナちゃん、どうしたの?」
 知っているはずの事を、どうして思い出せないのか――と浮かびかけた疑問は、棚の向こうから聞こえてきたトワの声によって霧散する。
「少し古い本を見付けたので、気になりまして」
 耳に入ったやり取りに、リィンは顔を上げる。古い本とはどういうものなのか、単純に興味が沸いた。
 アルティナのいる場所へ向かって、彼女が見つめていた本の背表紙を見る。色褪せた赤のカバーに印字された金色の文字は、掠れていて読み取る事が出来そうにない。
「随分年季が入ってるな。発行されたのもかなり前なんじゃないか?」
「それは冒険家さんの手記だね。背表紙も中身も、何故か名前が掠れちゃってて著者は読めないんだけど、すっごく面白いんだよ」
「……ル、…………ティ……。確かに読めませんね」
「書かれている大陸とか地名はゼムリアにはなさそうだから、架空のものかなって思ったんだけど、それでも素敵な話なんだ。気になるなら借りていっても大丈夫だよ?」
「分かりました、少しお借りします」
 不思議な雰囲気を放つ本だった。この世界のものではないような、そんな空気を纏っているようにさえ感じて、リィンは暫くその本から目が離せなかった。
「意外だな。アルティナがそういう本に興味を持つなんて」
「はい、自分でもそう思っています……ところで、教官はそんなに沢山借りるのですか?」
 リィンが抱えていた数冊の本を指して、アルティナが首を傾げる。
「これは茶道と、それからテニスの本だな。こっちはチェスの戦術本で、その下は言葉の本だ」
「本当に、色々な事をしているんですね」
「教官として念のため……って感じだな。さすがに皆には及ばないけど、いつ相談されたり、練習に付き合ったりしても良いようにしているよ。余裕がありそうだったら、クロウにも一通り話しておこうと思ってるし」
「……」
「アルティナも、何か相談があったら遠慮しなくていいからな」
 リィンがそう付け足すと、アルティナは何かを考えている様子のまま、小さく頷いた。


 ◆


「教官、一つ聞いても良いでしょうか」
 数日後。放課後に教官室を訪れたアルティナは、あの手記を抱えていた。
「一つ、と言わずに幾つでも聞いて良いぞ?」
「……生きた証≠ニは、何でしょうか」
 目を伏せて、アルティナはぽつりとそう問いかける。答えを探すのは簡単なようで、とても難しい質問だった。
 予想していたよりも重みのある問い。リィンは真摯な中に優しさを秘めた目で、アルティナの僅かに揺らぐ瞳を見つめる。
「……証……それは人それぞれだろうな。どんなに小さなものでも、その人が生きた証になる可能性はあるだろう? ……その手記を読んで、思うところでもあったのか?」
「上手く言えないのですが……残す事≠ェ出来たらいいな、と感じました」
 生まれ、育んだ想いは、大切にしていくべきものの一つだ。アルティナがそう感じたのなら、その為に力になってあげたいと、リィンは彼女の言葉に耳を傾けながら思う。
「……わたしは、いつまで生きられるか分からない身です。おそらく、寿命は長く設定されていない……既に、ミリアムさんから聞いているかもしれませんが」
「……そう、だったな」
 ――寿命はちょっと分からないかなぁ。
 帝都で聞いた、ミリアムの言葉。ホムンクルスとして造られた彼女達は、普通の人間と同じように生きていく事が出来ない可能性がある。体は成長するかもしれないが、残された時間はずっと短いかもしれないのだ。
 零しかけたものをぐっと堪えて、リィンはアルティナの言葉の続きを待つ。
「大切なものが、沢山あります。それを一つでも、形として残したい……そう思うのは、おかしい事でしょうか……?」
 己の軌跡を残した冒険家の手記を読んで、アルティナが得た想い。その芽はたとえ小さくとも、大きな証へと繋がっている。
「そんな事はない。俺も手伝うから、一緒に作って行こう」
 悲観しても、何も始まらない。リィンは心を覆いかけた暗雲を振り払うように、緩く頭を振った。
「……と、なると……まずは先生≠ノ助言を貰うのがいいかもしれないな」
「先生? リィン教官にそんな方が……?」
 一瞬で過ぎ去っていってしまうような、大切でかけがえのない時間。惜しみ愛おしむほど、きらきらとした輝きを放つ、一生の宝物だ。
 それを、書き起こして本にして残す。指南をするのなら自分よりも適任が居ると、彼は言う。
「本当の先生じゃないさ。俺よりもそういう話≠書くのに長けている人……今頃、部室に居る時間だとは思うけど……とりあえず行ってみないか?」
「……そういう事でしたか。分かりました。一応、筆記具を持参します」
 アルティナは、それが誰なのかをすぐに把握したらしい。
 一旦教室に寄ってから、二人は先生≠フところへと向かった。




「アッシュ、やっぱりここに居たか」
 開いた扉の向こうで、アッシュが読んでいた本から視線を外した。
 同じ文芸部員であるタチアナの姿は見当たらない。どこかへ出掛けているようだった。
「シュバルツァーにチビ兎か。仲良く揃って何の用だよ?」
「君にアドバイスを貰いたくて来たんだ。今、少しだけ時間は貰えるか? もし難しければ、出直そうと思うんだが……」
 リィンの後ろに居たアルティナが、手記とメモ帳を抱えてひょっこりと顔を出す。
 その様子から、なんとなく察してくれたらしい。仕方ねぇな、と言いたげに肩を竦めて、アッシュが手にしていた本を閉じた。
「……。まあ、気分転換に付き合ってやるよ」
 栞が挟まれている本を机の端に置いて、彼はアルティナへ座るように促す。リィンは入り口の近くで壁に寄りかかって、二人のやり取りを見守っていた。
「まず、概要なのですが」
 横に置いた手記を一瞥して、アルティナは説明する。
 これを読んで、特に課題などにはなっていないが、自主的に、学院での思い出を書き記した本を作ろうと思った事。
 それを、自分の生きた証としたい事。
 そしてその為に、文章を書くのが得意であろうアッシュを訪ねた事――。
「……そういう事か」
 アルティナから大まかに話を聞いたアッシュは、くるりとペンを回す。
「話はだいたい分かった。――で、チビ兎はまず何の話を書こうとしてるんだよ?」
「……」
 アルティナは黙って、立っているリィンを指す。
 アッシュは予測出来ていたらしく、ちらりと横目でリィンの方を見た。
「……なんとなく分かっちゃいたがな」
「英雄≠ナはなく、わたし達の教官としてのリィンさんを書きたいと思いまして……」
「あー、縋るような目をするなっての」
 観念したように、アッシュはアルティナが持参したメモ帳を指す。分厚い紙の束は未使用で、いくらでも書き込めそうだ。
「何でもいいから、そこにシュバルツァーの事を書いていけ。料理で言うならそいつが材料になる」
「羅列、という事でしょうか」
「そういうこった。本人が居んだから、聞きながらでもいい。とにかく埋めてみろや」
「承知しました。……という事で、リィン教官。少しこちらへ来ていただけませんか」
 アルティナに呼ばれて、リィンは彼女の反対側、アッシュの隣に腰掛けた。
「無理のない範囲で回答をお願いします」
 その後は質問攻め――というほどでもないが、リィンはアルティナに様々な事を聞かれた。
 好きな色や食べ物に、休みの日は何をしているか。よく行く場所はあるか。
 故郷ではどんな生活をしていたか。特技は何なのか。印象に残っている、学院での思い出は何か――等、日常の中で何気なく話すような事を、アルティナは次々と問いかけ、書き留めていく。
 それは情報局のデータベースにはないであろう、ただのリィン・シュバルツァー≠フ事だった。
「こんなものでしょうか」
 メモを十枚以上費やして、彼女はペンを置く。逆さであるのと、小さな文字で書かれているのもあり、リィン側から内容を読み取る事は出来ない。
「沢山書けたな。そういえば……俺に質問をしていない時もペンを動かしていたけど、何を書いていたんだ? アッシュも耳打ちしていて、ちょっと気になったんだが」
「秘密です」
「諦めるんだな。完成までのお楽しみにしとけ」
「はは……それもそうだな」
 切り離してばらばらになりそうだったメモを、アルティナは丁寧に束ね直す。
「アッシュさん、ここからどうすればいいのでしょうか?」
「こっからはチビ兎次第だ。一冊本貸してやるから、そいつを参考にして文章を作ればいい。その手記も手本になるだろ」
 棚から適当に取り出した本を、アッシュはアルティナに手渡した。
 CALL MY NAME≠ニいうタイトルが書かれているそれを受け取って、アルティナはやや困惑したように口を開く。
「あまり文章を書いた事がないのですが……正しい書き方があるのでは?」
「正解なんざねぇよ。チビ兎が思ったものを形にすりゃ、それだって立派な読み物だ」
 抽象的、或いはそれに近いもの――だいぶ掴めてきたとはいえ、まだアルティナにとって、不得手のカテゴリに属するものだった。
 本を見て首を傾げたアルティナ。リィンはふと、昨年度の事を思い出す。
「アルティナ、分校長からの課題で俺の絵を描いてくれた事があっただろう? あの時の感覚を思い出せばいいんじゃないか」
「リィン教官を描きたい≠ニ思った、あの時ですか」
「描きたい≠ニ書きたい=c…方法は違っても、そこは変わらない部分だと思う」
 絵と文で形は違っていても、作り上げる時に根底にあるものは同じはずだった。
 アルティナは自身の胸に手を置いて、アッシュとリィンの助言を咀嚼するように、小声で繰り返し呟く。
「わたしが書きたい、と思ったものを形に……。……頑張ってみます。アッシュさん、ありがとうございました」
 メモを持ち、立ち上がって、アルティナはぺこりと一礼した。
「アッシュ、ありがとう。助かったよ」
 訪ねて良かったと告げると、呆れと何かの合間の表情を浮かべて、アッシュが手を振る。
「礼なんかいいっつの」
 逸らされた視線。アッシュはそう言いつつも、ぶっきらぼうな雰囲気の中に違ったものも滲ませている。
 二人が部室を出る時には、彼は再び読書を始めていた。




「リィン教官。お願いをしてもいいでしょうか」
 階段を降りていると、アルティナが突然立ち止まる。
「ん? 俺で良いなら、遠慮なく言ってくれ」
「わたしと手合わせをしていただけませんか」
「手合わせか。分かっ――――え、いや、突然どうしたんだ?」
「そんなに妙な事でしょうか?」
「珍しいな、と思ってさ。今まで一度もそんな事を言わなかっただろう?」
 アインヘル小要塞や練武場で戦闘訓練を行う事はあったが、いつもユウナ達や他の生徒を誰かしら交えている。リィンが今までに一対一で手合わせを行ったのは、生徒の中ではほんの数名だった。当然、その中にアルティナは含まれていない。
「自分でも良く分かりませんが……先程メモをまとめていて、どうしても引っかかる事がありまして」
 アルティナは階段を降りて、リィンの隣に並ぶ。
 掴めているようで、掴みきれていないと感じる事があると、彼女は言った。
「なので、剣を交えれば伝わる……知る事が出来るのでは、と判断しただけです。……わたしは剣、ではなくクラウ=ソラスですが」
 リィンは掛かっていた時計を確認する。
 まだ施錠まで余裕があった事に安堵して、彼はアルティナを促した。
「そういう事か。まだ時間はある、行こう」


 そのまま向かった練武場は運良く空いており、二人はすぐに、手合わせをすべく距離を置いて向き合う。
 まるで外から切り離されたかのように、練武場の中は静かだ。
「戦技・アーツは共に使用禁止、でいいな? 前者はともかく、後者は駆動させている余裕なんてないと思うけどな」
 リィンが太刀を引き抜く音が、静寂の中に染み込んでいく。
「構いません。訓練とはいえ、さすがにブリューナクをリィン教官に撃つのは抵抗がありますから」
 アルティナが顕現させたクラウ=ソラスが、その場で一度回る。思えば、こうして一対一で対峙するのは随分と久しい気がした。
 リィンが記憶を掘り起こすと、端には緋色がちらつく。
「君と最後に直接戦ったのは……カレル離宮の時か。懐かしいな」
「その前はパンタグリュエルでしたか。……不埒な事もありましたね」
「あれは誤解だって言っただろう……」
 じとり、とした目を向けるアルティナ。苦い記憶が蘇って、リィンは思わず脱力する。
「冗談です。リィン教官が本意ではない事は分かっていますから」
「クラウ=ソラスに殴られたところは、しばらく痛んだけどな……」
「その後、わたしも脱出する教官に壁に叩き付けられたので、そこはおあいこかと」
 端から聞くと、教官と生徒が交わすものとは到底思えないような会話に聞こえるのだろう。
 何一つ間違っていないのだが、他に誰もいない、この場だからこそ交わす事が出来るやり取りだった。
「それにしても……そのような関係だったわたしが、今はリィンさんのサポート役兼教え子として、ここにいる……改めて、不思議だと感じます」
「俺もそう思ってるよ。人の縁っていうのは、どこでどう繋がるか本当に分からないな」
 無数の枝のように伸びて、時に絡み、またある時はぷっつりと断ち切れてしまう。強さと脆さを併せ持った縁は、ちょっとした事で繋がる事もあれば、あっさりと失われてしまう事もある。
 それは目には見えないが、確かに世界を形作っているものの一つだ。
「……それでは教官。そろそろ、お願いします」
「そうだな」
 リィンが太刀を構える。アルティナが身構えると、応じるようにクラウ=ソラスが仄かに発光した。
「担当教官として、君の成長の確認も兼ねて相手する。全力で来てくれ、アルティナ!」
「はい。行きます――!」
 太刀と戦術殻のぶつかる音が響く。刃と戦術殻の表面に、互いの姿が映し出された。
 教官として、生徒として、二人は仲間達と共に駆ける。行き着く先がまだ見えなくとも、未来へと続く長い道を進んでいく。

 今この瞬間も、確かな生きた証になると信じて。







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