Lie/eiL
 水面の光が、遠ざかる。手を伸ばしても、何も掴めない。そもそも、何も、ない。
 果てなく広がっている青の中を沈んでいくうちに、赤のラインが自身から水面へ向かって伸びている事に気付く。海瀑幻魔からあいつを――ルドガーを庇った時に負った傷から、深紅の線は引かれていた。
 徐々に朧気になる意識。目を閉じれば耳に入る水音だけが、今居る場所がどこなのかを教えてくれる。
 最後にこの音を聞いたのはいつだっただろうか。記憶を遡る。
 偽りと真実が混じったそれは、“ユリウス・ウィル・クルスニク”として生きてきた時のものしか掴み取れない。
『ルドガー、待ってろ!』
 そう叫んで、あいつを攫おうとした川へ飛び込んだのは何年前の事だったか。自分よりも小さな手を必死で手繰り寄せ、その体を冷たい水から守るように抱えてやってようやく岸に辿り着いた。
 川に落ちたルドガーを見た時は、生きた心地がしなかった。命を捧げようと決めた相手が、危機に瀕している。飛び込むという決断に、時間はかからなかった。瞬時の選択だった。――いや、それ以外に選択肢は用意しなかった。
 大切なら守り抜け、何にかえても。
 守るべきものを見付けたルドガーに、自分が言ってやれる精一杯の言葉。同じだ。同じだった。命を賭して守りたいものの為に行動する、その姿が。
 水面に映っている自分を見ているような気さえした。鏡の向こうで、ルドガーは自分と同じようにエルの為に剣を取っていた。

 ルドガー。

 音にならない声が、水泡となって現れ消える。愛しい名だった。自宅の扉を通ってその名を呼ぶだけで、ひどく安心した。あたたかくて優しい居場所だった。
 胸焦がれる相手だった。抱き締めて離したくない、手を繋いでいてやりたい。そう思っていた。
 心の片隅にそんな感情があるのを否定出来ないのが、自責の念を駆り立てる。なんて勝手な兄貴だと。命を壊してルドガーの背を押す覚悟をしても、割り切れていない感情が消滅せずに奥底に留まり続ける。
『約束したんだ。一緒にカナンの地に行くって』
 あの時掴んだ手の片方は、鍵の少女と繋がれている。
 あの時抱えた体は、いつの間にか大きくなっていた。
 目を開く。景色はまだ、青い。彼方の光を掴むように再び手を伸ばせば、呪いが蝕む左手の向こうで差し込む陽光が宝石のように輝く。まるで、ルドガーのようだと思った。暗い、底のない闇に差し込んだ一筋の光だ。
 奥底に沈殿した想いに蓋をする。大切だから、守り抜く。そうだ。あの火傷だらけの小さな手を握りながら、そう決意したじゃないか。あいつの命を、あいつが生きる世界を――あいつが未来を、後悔のない選択の末に紡げるように。

 その為なら、なんだって――。

 言い聞かせるように、かつての自分の言葉を復唱する。目を閉じても、ルドガーを抱えながら必死に掻いた水の青が瞼の裏側に映っていた。
 消えゆく意識の片隅で、ぱきんと世界が割れる音を聞いた気がした。空間が砕ける感覚。百回以上体感してきた、分史世界の最期。
 硝子のような世界の破片を潜り抜けて、正史世界へと落ちていく。
 白の空間を、在るべき世界へ戻る為に。



 あれからどれほど気を失っていたのか。気が付いた時には波打ち際に投げ出されていた。幸いな事に、周囲には何もいない。勿論、ルドガー達の姿もない。
 空を見上げれば、夕暮れの空の中を鳥達がどこかへ飛んで行く。
 それを途中まで目で追って、枷がなくて羨ましいと思った。ルドガーも本来ならば、ああやってクルスニクの柵に囚われることなく生きていたはずだったのに。あの時どうして止められなかったのかと、どうしようもない後悔をした時もあった。ルドガーが骸殻を纏ってしまった時、頭の中は真っ白だった。何としてでも自分の手で審判を終わらせて、あいつを守らなければ――その為に使った骸殻の代償は、確実に死を引き寄せている。
 それでも今は、消えてしまうわけにはいかない。やるべき事は残っている。
 まだ、保ってくれと願いながら剣を取る理由がある。命を犠牲に、繋いでやらなければならない。あいつの為の“道”を。
 因子化がだいぶ進んだ左手を握って、目の前に広がる海を見る。空を映す大きな鏡には、自分一人が映っていた。水面にゆらゆらと揺れている。まるで陽炎のようだった。
「……ん?」
 映った自分の姿に感じた、違和感。理由はすぐに分かった。いつも胸元にあったループタイが、ない。海瀑幻魔の攻撃を受けた時か、水中で意識が飛んだ後に落としてしまったのか。どちらにせよ、探しようがないだろう。気に入っていただけに惜しいが、諦めるしかなさそうだ。
 さて、この後はどうしようかと考える。ほんの数秒だけ巡る思考回路。
 ひとまず、トリグラフへ戻る事にした。だがここはリーゼ・マクシアだ。エレンピオスへ戻るには船を使わなければならないし、港は少々遠い。負った傷も完全には治っていなかった。
 一晩休息を取るのが得策か――そう判断して、魔物の目から逃れられそうな岩陰に身を隠す。
『兄さんは、その歌好きだな』
『それは、お前の方だろ。赤ん坊の頃から、これを歌ってやるとすぐ機嫌がなおった』
 ルドガーとの会話を思い返して、ああまた嘘を吐いてしまったなと苦笑する。
 空白だらけのルドガーの幼少期を知る者は、もういない。あの時失ってしまったそれをあいつが取り戻す事は、今までなかった。
 一面真っ白の記憶。どこまで捲っても白紙のページ。ルドガーがそれを不安がっている事は勿論、知っている。
 俺ってどんな子供だったんだ、とルドガーに問われた事もある。
『お前は、手のかかる子だったぞ。二歳の誕生日の時なんてな、間違って苺型のロウソクを食べようとして』
『!?』
『どうにか阻止出来たが、あれにはさすがに焦ったな。まったく、いつまで経っても危なっかしいよ、お前は』
『またそうやって子供扱いしないでくれよ、兄さん……俺、もう十九だし。来年で大人の仲間入りだ』
 その時、不満気でありつつもルドガーは安堵していた。
 あいつを安心させる為に吐いた嘘は、幾つか分からない。それを数える事は初めから無意味だと思っていた。
 ルドガーが安心するたびに代償として降り積もる、ほんの少しの罪悪感。振り払いはせずに、抱えて消えてしまうつもりでいた。
 それがルドガーの母を――クラウディアを殺してしまった贖罪になるならば、いくらでも降り積もればいいと思っていた。
「……」
 物思いに耽る間にも、日は落ちていく。太陽が水平線の彼方へ隠れてから少し経った頃にはもう、空の漆黒の中に無数の小さな光が瞬いていた。
 そろそろ移動するべきか。さっきはああ考えたが、夜ならば村人の目に入らずにハ・ミルを抜けるくらいは出来るだろう。
 傷もそこまでは痛まない。遠方をうろついている魔物が近くへ来る前に行ってしまおう。
 そう思い立ち上がった瞬間、向こうの方でぱしゃりと水が跳ねた音がした。
「何だ?」
 思わず耳を澄ませると、また、水の跳ねる音がする。海中に何かいるのか。正史世界では海瀑幻魔は絶滅している。だがそれ以外にも、海中に住まう魔物は存在するはずだ。
 水棲の魔物が多く徘徊するキジル海瀑は、岩に擬態するものや堅い甲羅に覆われたもの等やや癖がある魔物が多い。相手にするのは問題ないが、余計な体力を使わない為にも無駄な戦闘は避けたかった。
 だが、音のした場所を通らなければハ・ミルの方へは出られない。念の為、鞘に収めていたカストールを引き抜いた。十分に警戒しながら岩陰を出て、仄かな月明かりだけを頼りに波打ち際から離れて歩く。
 一人分の、砂を踏む音。一人分の、伸びる影。
 徐々に近付く砂浜。ただの魚である事を祈って、様子見の為に岩に空いた空洞から顔を出す。
 そこには。
「……ルド、ガー?」
 見間違いか、幻かと思ってしまった。しかし一度視線を逸らしても、見えるものはまったく変わらない。
 腰の辺りまで海水に浸かったルドガーは、何かを探しているようだった。時々遠くの方へ目を凝らし、少しだけ屈んでは濡れた髪を掻きあげて、駄目かと言いたげに溜め息を吐く。
「ルドガー!」
「!」
 思わず名前を呼んでいた。
 振り返ったルドガーは、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべてすぐ、ひどく安堵したような顔をした。
「……兄さん! よかった、無事だったんだな」
「俺の事はいい、それよりお前は何をしてるんだ? 風邪をひくから早く上がりなさい」
 手を引いてやろうと、乾きかけていた服が濡れるのも構わず海へ入る。水の冷たさがじわりと伝わった。冷えきった手を掴んだ時、ふと、ルドガーが川へ落ちたあの日を思い出す。だいぶ状況が異なるが、あの時もあいつは、こんなほっとしたような表情を浮かべていた。
 ほら戻ろうと手を引きながら促すと、こちらを見て何かに気付いたらしいルドガーは、待ってくれと言って海中へ視線を戻す。
「あ。俺、探してるものがあるんだ」
「探してるもの?」
「さっき足元で何か光ったんだけど、もしかしたらそれかなって」
 そう言うとルドガーは、止める間もなく息を吸って青く暗い水中へ潜った。
 一瞬の静寂。数秒の探索。月光しか頼れる光がない中でも、器用な弟は見付けた光を間違いなく掴み取った。
「あった!」
 水音を立てて浮上したルドガーの手には、見慣れたループタイが握られていた。
「お前、それは」
「兄さんのループタイだよ」
「……よく分かったな、俺がこれを落としたって」
「そうだな…………弟のカン、ってヤツかな?」
 勘にしては鋭すぎやしないかと思った。そもそも、あの分史で海に落ちた後に会っていないのにどうしてループタイをなくしたと分かって探していたのか。
 波間に漂っているのを偶然発見したのか、それとも、海瀑幻魔に攻撃された後に飛ばされていてそれを見ていたのか。
 思考の末。いくつもあったパズルのピースが一つだけ、かちりと音を立ててはまった。
「ルドガー」
「ん?」
「お前……俺を探してたんじゃないよな?」
「っ!」
 なんとなく推測したそれをぶつけてやれば、ルドガーは小さく呻いて目を逸らす。どうやら正解らしい。ならばループタイがこんな近くに落ちていたのは本当に偶然だったようだ。
 逸らされた視線はそのままに、ぽんと肩へ手を置いた。しっとりとした布地の感触。乾くまでには時間がかかりそうだ。
「大丈夫だよ、ルドガー。お前が信じてくれれば、俺は」
「……違う」
 言葉を遮って、ルドガーは顔を上げた。
「あの後ハ・ミルへ行って、借金返す前に少し休もうと思って寝たら……兄さんが俺の目の前で、消える夢を見たんだ」
「!」
「兄さんの事はもちろん信じてる。信じてるよ。俺よりずっと強いし、丈夫だし。……でも、怖くなったんだ。もし兄さんがいなくなったら、って不安になって、気が付いたらここに来て兄さんを探してた」
 縋り付くように体を寄せて来たルドガーは、絞り出すようにそう言った。
「兄さん。いなく、ならないよな?」
 不安に染まった瞳。握り締められたループタイ。
 定めたシナリオの先で消滅が確定している自分にとって、ああ、と、肯定を返せない問い。
「……」
 入社試験の日、ルドガーは俺に殺される夢を見たと言った。軽い冗談で話を逸らして深くは追求しなかったが、それはきっと、クルスニクの血が見せた宿命の夢だったのだと思う。親しい者同士が殺し合い、奪い合う。二千年も血で血を洗う骨肉の争いは続いていた。一族の悲劇はこの手で終わらせると誓って、使命感に駆られて時計を手にした日がもう遥か昔のように感じる。
 遠ざけたかった運命は、その時からルドガーに魔の手を伸ばしていたらしい。それを断ち切る事は叶わなかった。もう遅かった。
 だが今ならまだ、守れる。ルドガーの“世界”は、作る事が出来る。
 今の“世界”を、破壊すれば。
「兄さん」
「……懐かしいな」
「?」
 築かれた“ルドガーの世界”に、俺はきっといない。
 信じる事にした。壊れた世界から架かった橋を渡って何もない場所へ降り立ち、選択の果てに一から世界を作ってくれると。
 兄として、願う事にした。一族が抱えた痛みも苦しみも宿命も解き放って、審判の先に光を見出してくれると。
 だから、覚悟した。その為なら、この身など捧げても構わないと。
「お前は覚えてないかもしれないが……昔、俺が残業で夜中の二時を過ぎて帰った日があったんだよ。そうしたら、寝ていると思っていたお前が起きていた」
「……眠れなかったのか?」
「いや。怖い夢を見たと言っていたよ……俺にしがみついて離れないほどだったから、とにかく怖かったんだろうな」
 夢の内容は聞いていないが、おそらく、今日ルドガーが見たものと同じなのだろう。消えちゃいやだ、いやだと言い続けて離さない幼いルドガーの姿を見た時は、遠い先に訪れる別れが弟にとってどれだけ重いものになるのかと、心が痛んだ。
 ルドガーを守れば、俺は消える。
 俺が消えなければ、ルドガーを守れない。
 それ以外に方法など見付からなかった。審判はどこまでも非情だった。オリジンが課した血塗れの宿命は、二千年も酷な選択を一族に強いてきた。
「その時はな、こうやってお前を慰めたんだ」
 軽く撫でてやった後、そっと抱え込むように抱き締める。腕の中の小さな体、その瞳からは塞き止めていたものが取り払われたかのように大粒の涙が流れていたのを、よく覚えている。
 ルドガーはもう、あの頃とは違う。子供じゃない。それは分かっている。だがどうしても、子供だと思ってしまう。子供であって欲しいと、邪な感情さえあるような気がした。
「兄さん……」
 顔を上げたルドガーと、視線が合う。さっきの問いの返答を求めるような視線に耐え切れなくなって、空いた手でルドガーの頭を寄せた。
 軽く当たる額と額。腕に力を籠めれば、応じるようにルドガーが腰に手を回してくる。
「…………はっきりした答えはやれないぞ、ルドガー。未来なんてのはそんなものだろ」
「……」
「けどな、一つだけ約束する」
 本当の約束は、目を見て交わす事。幼い頃、母からそう言われていた。
 当てた額を離して、ルドガーの目を見る。澄んだ瞳はいつの間にか、哀しい光を宿してしまっていた。あの男に都合よく使われ、あたたかい手料理を作っていた手で血塗れの武器を持ち、平穏な日常を見つめていた瞳にはいつの間にか、数多の世界の最期を映すようになってしまっていた。
 目を隠しかけていた、濡れたルドガーの前髪を僅かによける。
 それを、少しでも取り除けるのなら。
「俺の望んだ世界……それをいつか、お前に見せてやる」
「兄さんの望んだ世界?」
「ああ。お前が食堂で働いていて、分史世界の破壊なんてしなくていい世界だ。それで、今より美味いトマトでパスタが作れる」
 想定している未来は、その通りだった。明るい光に満ちた場所に、ルドガーは立っていた。
「……その世界って、もちろん、兄さんもいるんだよな?」
 予想通りの言葉。否定をしたらきっと、ルドガーは俺を離してはくれない。あの夜のように。
「ああ……いるよ。お前が勤める食堂の、常連だ」
 そうしてまた一つ、嘘を吐いた。
 初めから訪れないと決まっている未来の事を、約束する。ルドガーは少しだけ、表情を和らげた。
 微かな罪悪感はいつものように降り積もらず、掬い取って手に握っておいた。なんとなく、嘘にならないような予感がした。果たされない約束でありながらも、いつかこの目でその世界を見る日が訪れるような気がして、ならなかった。

 もう一度、ルドガーを抱き締める。耳に入る波の音。水面に映った夜空の中に、星が降る。
 銀の懐中時計はまだ、動いている。
 まだ、止まらない。








「もう行け、ルドガー。守ってやりたい子がいるんだろ?」
 果たされた約束。嘘にならなかった嘘。
「お前は、お前の世界を作るんだ」
 かつて、未来の自分から告げられた言葉。その世界は今、壊れようとしている。
 それでも、きっと“ユリウス”は認めてくれるだろう。あの“ユリウス”と同じように、俺は家族のおかげでたくさん笑うようになった。小さくても、守りたいと思える世界を作る事が出来たのだから。

 震える肩に体を預けて、証の歌を口ずさむ。
 ルドガーが、俺がいなくなった未来でも笑っていてくれますようにと、ただ願った。




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