封をした彼の記憶
 父親だった。あの男は、父親だった。
 赤子の自分があの男に抱き上げられた記憶が、ずっと残っている。どんな表情をしてどんな声で俺を呼んでいたかはまったく思い出せないし思い出す気さえないのだが、あの男の腕の中で無邪気に笑っていたという事だけはなんとなく覚えている。
 何も知らず、何も背負っていなかったあの頃は、ただ純粋にあの男の背を追いかけていた。強くなって、仕事を手伝いたい。骸殻能力を発現させてからは、期待に応えたい――その背に少しでも近付き役に立とうと、必死になっていた。
 あの男は、憧れだった。目標だった。他人だと認識し同じ字を捨てても、その過去は決して覆らない。憧憬の眼差しを向け、その手を握ってただ笑っていた幼い自分がいた事実を消せるわけでもない。
 時々、不意に思い出してしまう。あの男の手の温もりを。向けられていた、優しい眼差しを。封じ込める事も忘却する事も出来ない、あの男――ビズリーと家族として過ごした記憶は、褪せた色のまま奥底に留まり続けていた。
「……くっ」
 俺の抵抗を危惧したのか、リドウが打ってきた薬のせいで意識が朦朧とする。体から力が抜ける。手を動かそうとしても、この拘束具は外せそうにない。クランスピア社からの脱出は、今は諦めるしかなさそうだ。
 窓の外の夜空には、丸い月が浮いていた。差す月光から逃れるように転がると、頬にぴとりと冷たい床が当たる。視界が徐々に、黒に閉ざされていく。
 目が覚めたら、ほぼ確実に向こうに渡るであろうカナンの道標を奪取してここを出なければ。
 まだカナンの地は出現していない。ここに居ても“橋”にされる事はないだろう。あの男の為に架けてやる気は毛頭ないが。
 脱出時のシミュレーションを一度だけして、目を閉じる。扉が開いた音が聞こえたが、もう動く事は出来なかった。




 ユリウス・ウィ・バクーとして生きていた十数年間。それは、今となっては長い夢だったようにも思える。
 閉じていた目を開けば、見慣れすぎた屋敷の玄関前に立っていた。――夢か。考えるまでもなかった。リーゼ・マクシアとエレンピオスを隔てていた断界殻が開放されて以来時折、あの男とまだ家族だった頃の夢を見る。何も干渉出来ず、かといって目を覚ます事も出来ずただ見ているしかないが、何故今になってこんな夢を見るのかが甚だ疑問だ。科学のシステムではまだまだ解明出来ない事もあるらしい。
「ユリウス様、今日も自主訓練ですか?」
 双剣を背負って庭へ飛び出そうとしている幼い俺を、一人のメイドが呼び止めた。――クラウディア・イル・クルスニク。母・コーネリアの妹である彼女は、多忙な母に代わって、自分の子のように俺の面倒を見てくれていた。
 母と同じように優しかったクラウディア。彼女が作ってくれる手料理が好きで、美味しいと告げればクラウディアは笑顔でどういたしましてと微笑んでくれた。
 その料理の腕前は、確かにルドガーに受け継がれたようだ。初めてルドガーの料理を褒めた時、あいつはクラウディアそっくりの笑顔でありがとうと言った。
「剣の扱いには十分に気を付けてくださいね。ユリウス様に何かあったら、ビズリー様に怒られてしまいます」
「……父さまより母さまのほうがおこったらこわいよ」
「ふふ、そうでしたね。怒らせたら姉さまには誰も頭が上がりませんから」
 穏やかに笑うクラウディア。引きつった表情を浮かべる自分から思わず、目を逸らした。
 今でも、この日をはっきりと覚えている。空洞に何かを詰め込まれるような――錆び付いた鍵穴に無理矢理、鍵を差し込んでいるような感覚。最後まで見届けなくては、目覚められないのか。
 駄目元で頬を抓ってみようかと手を伸ばすも、自分で自分に触れる事が出来なかった。目を逸らす事はどうやら、許されないらしい。
「父さまも、あがらない?」
「きっと、ですけど。普段怒らない人が怒ると、結構怖いんですよ?」
「じゃあ、クラウディアも? おこるとこわい?」
「……そうですね……」
 俺が背負っている双剣を見た後、クラウディアは庭先に生えている一本の木を指す。
「私が本気で怒ったら、その剣であの木もすぱっと斬れるかもしれませんね」
「あの木を!?」
「ええ。こう見えて私、少しは剣の心得があるんですよ。本当に少し、ですけど」
 何も知らない人間が見れば、ごく普通の会話だ。だがそれは、俺にとってはあの日を思い出すものでしかなかった。
 向けられる鋭い刃。違うんだと言い続けてもクラウディアはそれを収めてはくれず、逃げる事も拒む事も許されなかった。
 クラウディアを、殺すつもりなどなかった。傷付けるつもりもなかった。出会ってしまったのは本当に偶然だったのに、誤解が最後まで解ける事はなく、ルドガーの目の前でクラウディアは命を落としてしまった。母の亡骸に縋り付いたまま意識を失ってしまったルドガーの姿は、鮮血と共に脳裏にこびり付いて離れない。
 ルドガーの記憶が失われたのはその時だろう。優しい母と暮らしていた温かな思い出を、全部奪ってしまった。
 俺が、この手で。
「それって、シロウトってこと? 木、きれるの?」
「斬れると思っておくから意味があるんですよ、ユリウス様」
「……よく、わからないよ」
「今はそれでいいんですよ」
 さあ、練習する時間がなくなってしまいますよとクラウディアに促されて、俺は庭の方へ一直線に駆けて行った。
 その後ろ姿を見送って、太陽が傾きかけた空を見上げる。ああ、今頃、ビズリーと母は――。
 そう遠くないうちに見る事になるであろう場面を思い浮かべかけて、思考を遮断する。何を思い出せというのか。夢を見せている存在がいるならば答えろと言いたいところだった。


 随分と時間が長く感じるのは、気のせいか。日が落ちた頃、頬に泥を付けて幼い俺は玄関の前に立っていた。
 屋敷の中からは料理の香りが漂っている。クラウディアのトマトソースパスタの匂いだ。いいオリーブが手に入ったから期待していてねと、クラウディアは張り切っていた。そう母に言っていたのも覚えている。朝、ほんの少しだけ寝坊してしまった事を母に咎められかけて、機嫌取りの為に言ったようにも見えなくはなかったが、実際、それで母は機嫌を取られていた。
「ただいま! クラウディア!」
「おかえりなさい、ユリウス様。また転びましたね?」
 俺の頬についた泥を拭いながら、クラウディアは困ったように笑った。
 怪我をするほどではなかったが、剣の特訓中にそれの重さに耐え切れず転ぶ事は多々あった。軽い剣を使えばいいものを、この頃から意地っ張りだった俺は大人用の剣を危なっかしく振り回していた。
 今を思うと、その成果はあったと思えるが。
「きょうはトマトソースパスタ?」
「朝に姉さまと約束してしまったので。お二人が帰って来るのが待ち遠しいです」
「……父さまは、トマトきらいだよ?」
 俺はトマト好きのナス嫌いだ。だがあの男は逆に、ナス好きのトマト嫌いだった。
 理解不能だ。あの紫の食物のどこが美味くて何故食す気になれるのか。トマトがナス科というものに分類されていると知った時は、トマトへの侮辱だとさえ思った。
「ビズリー様は特別にナスとベーコンのパスタです」
「さすがシェフ!」
「どういたしまして。ユリウス様もナスを食べられるといいんですけどね」
「ナ、ナスは――」
 俺の言葉を中断させたのは、玄関の扉が開かれる音だった。すぐにクラウディアが扉の方に向き直って、頭を下げる。
「おかえりなさいませ。ビズリー様」
「……」
 夜の闇の中から扉を通って現れたビズリーは、いつもなら一言で応じるそれに対して何も返さなかった。
 何となく纏う空気が普段と違うと気付いた幼い自分は、ビズリーの腕を軽く引いて心配そうにその顔を見上げる。クラウディアもそばに来て、俺の肩に手を置いた。
「父さま……? なにか、あったの?」
「……」
「ビズリー様……姉さまはどちらに? ご一緒ではなかったのですか?」
「…………」
 朝、ビズリーと共に家を出た姉の姿が見当たらない事に気付いて、クラウディアが不安げに問う。それにもビズリーは答えない。
「母さまは、どこ? 父さま」
「…………すまないが、今日は夕飯はいい。もう寝る事にする。お前たちだけで、食べていてくれ」
「ビズリー様」
 服の裾を掴んでいた小さい手を軽く振り払って立ち去るビズリーに、俺もクラウディアも、それ以上何も言えなかった。
 ビズリーがいなくなった後に、クラウディアは両手で顔面を覆ってその場に崩れ落ちた。理解してしまったのだろう。もう姉が帰って来ない事を――彼女が、トマトソースパスタを食べ損ねてしまった事を。
 俺は声を押し殺して嗚咽するクラウディアを、その小さい体で必死に抱き締めていた。大丈夫、とは言えなかった。安心させる事など出来やしないと分かっていながらも、そうするしかなかった。
 幼いながら察しがよかった俺も、気付いていた。母は死んだと。勉強を教えてもらう事も一緒に料理を食べる事も、何もかもが出来なくなってしまったと。
「クラウディア……」
 涙は出なかった。あまりに衝撃が大きすぎて逆に、流れようともしなかったのかもしれない。


 母がいなくなったベッドは、一人で寝るには少し大きかった。つい先日まで母が眠っていた場所へ手を伸ばして、冷たいシーツを撫でる。心にぽっかりと大きな穴が開けられたような感覚だった。理解はしているのに、気持ちがついて来ていなかった。
 そんな自分を窓辺からぼんやりと眺めていると、部屋の扉がゆっくりと開けられる。幼い俺は、半ば反射的に目を閉じた。
「起きているか。ユリウス」
 何も返さなかったが元々返事を待つ気はなかったらしく、静かに扉を閉めたビズリーはベッドのそばの椅子に腰掛けた。その手には、銀の懐中時計が握られている。
「……いずれお前にも話さなくてはな。クルスニクの一族の宿命の事を……コーネリアを殺した、“奴ら”の事を」
 手が伸ばされ、頭をそっと撫でられる。
「俺たちは勝たなくてはいけないんだ。……何にかえても」
 幼い自分の頬に何かが落ちたのを、俺はただ見ている事しか出来なかった。


――――――――――――――――


 ユリウスが捕らえられている部屋をビズリーが訪れた時には、リドウの手によって彼は眠らされていた。
 部屋には他に誰もいない。リドウには席を外すように言い、ビズリーはまだ目を覚ます気配のないユリウスの前に屈む。
「……とう、さ……」
「!」
 その口から零れた言葉に、ビズリーは一瞬だけ目を張る。それは、呼ばれなくなってから随分と長い月日が経っていたものだった。
 ユリウスと“家族”として暮らしていた日々は、確かに存在している。例え拒まれようと嫌悪されようと、血の繋がりは決して切れるものではない。
 今、ユリウスはその褪せた思い出の中にいるのか。二度と戻らない日常の中へ、夢という形で潜り込んでいるのか。
「……ユリウス」
 ビズリーがぽつりと名を呼んで、掛けられていたユリウスの眼鏡を外す。
 彼の目尻に何かが浮かんだ気がしてそっと拭うが、そこには何も付いていなかった。



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