互いの証は互いの存在
 そこには、もう帰れないはずの日常が広がっていた。失った日々が、手放してしまった毎日が、そこにはあった。
 正史世界の事を忘れたわけではない。いつか終わる夢だという事もわかっていた。
 ただ、そこで迎える平穏な朝があまりにも懐かしくて、少しだけ、その事を忘れてしまいそうになった。穏やかさに包まれて思わず、最期の幻の世界の中で笑っていた。左手の痛みがもうない事に気付いて、何故かほんの少しだけ寂しくなったりもした。
「兄さん、どうしたんだ? ぼーっとして」
 目の前にいる“ルドガー”は、『ルドガー』とは違う。俺の弟であって、俺の弟ではない。それでもあいつが作る料理はいつも通りうまいし、お手製のトマト料理に俺の胃がしっかりと掴まれている事に間違いはない。
 そこは、今まで生きてきた世界と――いや、今まで穏やかに過ごせていた時の世界と何ら変わりはなかった。理想として願った郷が形成され、確かに存在していた。
 懐に入れてあった銀の懐中時計は、まだ動いていた。傷付き今にも止まってしまいそうなそれは、見るたびに正史世界の事を思い出す。
 『ルドガー』はまだ来ない。世界の終わりはまだ来ない。仮初めの平穏はまだ、終わらない。
「なんでもないよ」
 そう言ってやれば、“ルドガー”は、笑った。

 あれから、時計の針は何度回っただろうか。
 その時は、来た。この世界の存在になってからどれだけ経ったかは、既に忘却の彼方だった。
 出勤していったはずのルドガーが、家に戻ってきた。
 俺は訊いた。忘れ物でもしたのかと。目の前の『ルドガー』が“ルドガー”ではない事に気付かずに、いつもの調子で。
「……」
 答えないルドガー。その重い表情を見て、やっと気付けた。


 後悔もなにもない人生だと、思っている。ルドガーの為に生き、ルドガーの為に死に、ルドガーの創りたい世界を守る事が出来た。それ以上望む事はなにもない。
 俺の行いを愚かな事だと、どこからか嘲笑う声も聞こえる。時歪の因子化をして、カナンの地のカウンターを増やしてどうすると。審判の期限を縮めてしまっているではないか、と。反論はしない。それは事実であり、俺の我侭だからだ。
 ルドガーの為に命を懸けると決めた。だが、俺を越えるのを確かめられないまま死ねない。だから卒業試験を課した。試験官の俺を倒してみせろと。
 刃を構えたあいつの決意は本物だと分かってようやく、あいつはもう子供じゃないと気付いた。自分で全てを選べると、認めた。もう、手を引いてやる必要はないと。
 あいつとの戦いで、俺が時歪の因子化するのは分かっていた。あそこまで進行していて、しないはずがなかった。それでも、骸殻を発動した。カウンターが進んでも、期限が縮んでも、あいつなら――俺の弟なら必ず間に合うと、信じているからだ。
 ルドガー。お前は、お前の大切なものを守れ。守り抜いてみせろ。
 ずっと後ろをついて来ていたあいつは、いつの間にか俺の横に並んでいた。俺が繋いでいなかった方の手には、いつの間にか幼い少女の手が繋がれていた。
『約束したんだ。一緒にカナンの地に行くって』
 俺があいつにしていた事を、あいつはあの少女にしてやっている。それに気付いた後から、あいつの為にしてやれる事をやろう、その一心で行動した。
 代償などお構いなしに骸殻を使い続け、襲う痛みを無視し、審判の邪魔をするクロノスをあいつから離そうと、囮のように世界を駆けた。
 痛みは呪いであり、“証”だった。
 そして、今、俺を貫いている槍。それが齎す痛みもきっと、“証”なのだ。
「――――」
 砕ける世界の中、掠れた声で呟いた言葉が届いたかは、分からない。




 緩やかに伸びていく紫の光は、目の前の歯車型のオブジェクトと眼下に広がるリーゼ港を繋げた。
 架け橋が、確かに架かった。
「これが魂の橋か」
 リドウの架けた橋はすぐに消えてしまったが、それは奴の最後の抵抗なのだろう。
 橋の先には、複数の人影が見える。誰なのかは考える必要もない。表情は見えないが、ルドガー達である事に間違いはなかった。
「……ルドガー」
 思わず橋へ一歩踏み出せば、瞬く間に俺はリーゼ港へ運ばれていた。どうやら、魂だけの肉体がない存在でも一応、渡れるらしい。
「ナァー……」
「!」
 聞き慣れた鳴き声に足元を見れば、ルルが俺を見上げていた。まるで俺の存在が認識出来ているかのようだ。偶然空でも見ているだけなのかと思ったが、そのルドガーそっくりな目はしっかりと俺を見つめている。
「ルル……まさかお前、俺が見えるのか?」
「ナァ」
 毎日のように抱えていた白い体を抱き締めてやろうとしても、すり抜けてしまう。
「……ごめんな。ごめんな、ルル。お前と遊んでやる事も、ロイヤル猫缶やカリカリをあげる事も……もう俺には出来ないんだ」
 もっと一緒に居てやりたかったが、それは叶わぬ願望だ。
 触れられないと分かっていても、撫でる。ルルは心地良さそうに一鳴きした。優しいな、お前も。ルドガーと同じように。
「ユリウスは、最後に何を告げたのだ?」
 マクスウェルの声。自分の名に反応して振り返ると、ルドガーと目が合った。――何かを、ぐっと堪えているような表情だ。
「……秘密だ」
 どうにか絞り出したようなルドガーの言葉が、嬉しかった。
 “あいつがあいつの世界をつくる”という俺の願いは、ルドガーの胸の中だけに留まるという事だ。それでいい。あいつの世界は、あいつにしかつくれないのだから。
 ルドガーが願った事、望んだ事。それは俺にも、分かるようで分からない。
「ルドガーさん」
 リーゼ・マクシアの宰相が、俺の懐中時計を持って立つルドガーに声を掛ける。
「あなたは宿屋で休んでいてください。カナンの地……おそらく……いや、間違いなく、一筋縄ではいかない場所です。仕度はジジイにお任せを」
「ローエン、私も手伝います」
「グミ、いっぱい買っておかないとね」
 宰相と少女がマクスバードの町の中へ消えていった。
 さっきは気にしている余裕もなかったが、精霊術士の少女の周りを飛んでいた妙なぬいぐるみは何なのだろうか。玩具にしては精密すぎる。引っ張られているところを見る限り、それなりに柔らかいようだが。
「ルドガー」
 次に声を掛けたのは、新聞記者の少女だった。
「わたしも、宿屋に用があるから。一緒に……行こう?」
 少し間を空けて、ルドガーが頷いた。
「ああ、そうだな。行くよ」
 彼女なりの気遣いなのだろう。声色はやや控えめだったが、無理もない。
 やがて、他の仲間達も一言ずつ声を掛けてから散り散りになっていく。すぐに突入しなかった事に安堵して、ほっと息を吐いた。俺と戦った傷や疲労をそのままにしてカナンの地に来られても危険なだけだ。多少の休息も必要だろう。
「……そういえば」
 ふと思い出す。俺はまだあいつに、就職祝いを渡していなかった。渡そうとしていたものはあったが、結局、渡し損ねてしまったのだ。
 クランズA・4304。用意していた双銃の名。断界殻が解放された年に、こっそりとルドガーの為に改良したものだ。
 渡してやりたいが、今の俺は物を動かすどころか掴む事さえ出来ない。あれがあるのは、クランスピア社の俺のデスクの下だ。
 何か方法はないかと考えていると、足元で丸くなっているルルが目に入る。そうだ。俺がマクスバードまで持ってくるのは不可能だが、ルルの手を借りればどうにかなるかもしれない。猫の手も借りたい――というより、頼らないと無理な話だった。
「ルル。少しだけ手を貸してくれないか?」
「ナァ」
 屈んで問えば、ルルは鳴いてゆっくりと歩き出した。
 肯定、と捉えていいのだろうか。
「ありがとう、ルル」
 エレン港へ繋がる橋を渡る前に、後ろを振り返る。
 橙と紫の空の中に佇む宿屋は、普段より小さく見えた。


 クランスピア社への道中、不安がっている親衛隊や、カナンの地の出現に怯える人々を目にした。
 ビズリーがカナンの地から生きて帰ってきたとしても、俺とリドウがいなくなったクランスピア社の混乱は避けられないだろう。ビズリーが殉職したとしたら、尚更だ。ひょっとしたらルドガーが社長になるかもしれない。
 そこまで考えて、思考を止める。もうよせと、自発的に回路が止まる。それを見届ける前に、俺はきっと魂の循環の環に取り込まれてしまうだろうから。
 お前は、お前の世界を作るんだ――俺があいつに言った言葉だ。俺の世界は、いや、俺たちの世界は、あの時に壊れてしまった。ルドガーはこれから、ルドガーだけの新しい世界を作る。それを見られないのは残念だが、きっと後悔のない選択の末に作り出してくれると信じていた。


 辿り着いたクランスピア社は、カナンの地の出現、そして俺とリドウが行方不明だという事もあり、若干混乱していた。応対に追われる受付嬢、GHSを片手に頭を掻き毟りながら困惑している社員、詰め寄る街の人。悪いなとは思いつつも、そのおかげでルルは誰の目に留まる事もなく非常階段へと向かう事が出来た。
 魂だけの存在――今の俺は、俗に言う幽霊というべきなのだろうか。とはいえ、あの大精霊の姉のように飛ぶ事は出来ず、ひたすら地道に階段を上がっていくしかない。
 無機質な段をルルと共に上り続けてようやく、通信部門があるフロアに着く。人は疎らだ。だがそれでは余計にルルが目立ってしまう。
 そろそろと端を隠れるように移動しつつ、クランズA・4304の回収に成功したらどこへ置いておこうかと考える。ルドガーが確実に見るであろう場所。マクスバードまで持っていけるかは分からない。よくよく考えれば、列車に乗る際、駅員の目に留まってしまう可能性が高いからだ。双銃を銜えた猫を怪しまない駅員など存在しない。
「ナァ」
 ルルの鳴き声に、顔を上げる。
 通信部門のオフィスに繋がる扉は、運の良い事に開いていた。ダンボールか何かが引っ掛かっているらしく、ちょうど猫一匹が通れそうなくらいだ。
「ルル、こっちだ」
 先に入って、ルルを誘導する。社員は数人いたが、皆パソコンに何かを打ち込むのに集中していてルルには気付かない。
 俺のデスクの下には、不透明の青い袋がそのまま残されていた。箱に入れておかなくてよかったと安堵する。これならルルも運びやすいだろう。
「ごめんな、重いだろうけど頼むよ。とりあえず……そうだな、マンションフレールまで持って行ってくれるか?」
「ナァー!」
「!? お、おい! ルル、待ってくれ!」
 双銃の入った袋を銜えるなり、ルルはあっという間にオフィスから姿を消した。さすがに社員達も気付いたが、既に遅い。丸い体からは想像もつかないような速さで、ルルは非常階段へ一直線に駆けて行く。
 慌てて後を追って、ルルに追い付き立ち止まる。
 そこで、息を整える必要がない事に気付いた。本当に俺は死んだのだと、何度目かはわからないが、実感した。

 マンションフレールへ戻って来ると、ポストに何か入っているのが見えた。
 明らかに容量を無視した何かが、二つほど――近付いてよく見てみると、どうやら、双剣とハンマーのようだった。添えてある紙はおそらく手紙だろう。差出人はだいたい想像がつくが、まさかの届け物だった。
「これ、入るのか……」
 思わず、間抜けな一言を口にした。俺も出来る事ならばここへ入れておこうと考えていたからだ。ルドガーがここに戻らずカナンの地へ行ったとしても、帰って来たらポストくらいは見るだろう、と。こんなに武器が詰め込まれていれば尚更だ。
「ルル、俺の部屋の入り口に手紙を挟んでおいたんだ。取ってきてくれるか?」
「ナー」
 白い体が駆けて行く。
「……」
 ルルを見送った後、ふと思った。ルドガーが、ここへ帰ってくる。全てを終わらせて、戻ってくる。その時、あの部屋は、あの空間は――どれだけ虚しいものなのかと。
 俺はもういない。いなくなる。使っていた部屋は整理しておいたから空っぽのままで、そこにあるものは形のない思い出だけだ。それさえもやがて、なくなってしまう。風化して朽ちていく建造物のようにゆっくりと霞んでいき、記憶の中に存在している事さえも曖昧になってしまう。古ぼけた写真の中でずっと変わらない姿のまま、色褪せていく。
 人は、亡くなった者の声を初めに忘れると聞いた。ルドガーは、あれだけ歌っていた証の歌も、叩き起こしてやっていた目覚まし代わりの呼び声も、数え切れないほど交わした言葉を発していた声も、全部、忘れてしまうのだろうか。
 あいつと俺の世界は壊れた。壊れてしまった。壊すしか、なかった。
 その破片の上に新しく作られた世界に生きるあいつは、俺の事をどこまで覚えていてくれるだろうか。
「……ルドガー」
 届かない。そばで発しても届くはずもない、当たり前のように呼んでいた名。それが少しだけ寂しいと思ってしまうのは、俺が弱い人間だからか。
 足元にルルが来ていた事に気付いて、屈む。何をバカな事を考えているんだと、自分で自分を笑った。決めたはずだ。あいつが、あいつの大切なものを守る為にする選択を、俺はただ見守ろうと。もうそれしか出来ないと悲観的になるのではなく、それしかしないと思っておこうと。
 どんな結果になろうと、俺はあいつの選択を信じている。紡がれる未来がどんなものでも、それがあいつの選択ならば俺は十分だ。
 そう、思っておいた。今になって俺自身が揺らいでしまわないために、固く、強く。
「よし、ルル。頼む」
 握り締めた左手には、何の痛みもなかった。




「エルは……俺の命で助ける!」
 心のどこかで、予感していた。ああ、こうなる可能性だってあると。選択肢の一つに入っているのだから、それを選ぶ事もあるはずだと。
 何にかえても誰かを守りたいと思う気持ち。それは、七歳のあいつが俺に教えてくれた事だ。
 守りたい誰かの為に、恐れず死を選ぶ事。それは、俺が身をもって示した事だ。
「それが君の選択なんだね。ルドガー・ウィル・クルスニク」
 エルを抱き締めるルドガーのそばに歩み寄って、その肩にそっと手を置く。乗せた手が透けてしまっても、構わない。俺はここにいる。そう感じさせて欲しかった。最後まであいつを見守る事が出来たと満足して、循環へ逝きたかった。
 ルドガーの証の歌が聞こえる。泣くなとエルに告げるかわりに想いを乗せて、歌っている。俺と同じように。振り返らずに進めと、世界を作ってくれと、願いながら。
 時間の流れが、長く感じた。一秒が三秒ほどあるような気さえした。仲間達の一番前に立ち約束を交わすルドガーとエルを見ていると、どうしても、過去の幸せだった記憶が脳裏をちらつく。溢れ出る写真を抱えていても、端から零れ落ちてしまいそうになる。
 思えば、果たせない、果たせなかった約束ばっかり交わしていた。
 いつか、トマト狩りツアーに行こう。
 これからは、お前が勤める食堂でメシでも食うか。
 シェフ、今度のトマト料理開発は俺も手伝うぞ。
 安心しろ、お前が自立するまでは一緒にいる。
 思い返して羅列して、俺はなんて勝手な兄貴だと苦笑する。本当に、心底、そう思っている。守るつもりが結局傷付けて、叶わないとわかりきっていた約束を増やして、壊すものを余計に重くしてしまった。
 けど、それは本心だったんだと言い訳をして、審判の門から放たれた光の方を見る。カウンターが百万――零へと巻き戻ろうとしていた。
 眩い光の中でルドガーが、破片となって消える。証の歌は少しの間だけ、聞こえていた。手を伸ばせば指先を誰かの手が掠めた気がして、笑う。わかってるよ。彼らとこの子は、俺が帰す。橋はそれまで消えたりしない。だから安心して、先に行け。
「ルル。お嬢さんの事は頼んだよ」
 ルドガーが消えた空は青く、どこまでも澄んでいた。
 徐々に意識が遠のいていく。次第に立っている感覚さえ曖昧になって、その場に座り込み空を仰いだ。そばに来たルルに行くように促すと、ナァと一鳴きした後にこっちを一度だけ振り返って、エル達と共にカナンの地からリーゼ港へと戻って行った。
 静寂。門の前には、俺一人になった。
 近くにあったはずのビズリーの遺体は、いつの間にか消えていた。循環へ行ったのか、それとも――何にせよ、俺には知る由もない事だ。

 その後、どれだけの時間無心でいたのか分からない。
 ふと気が付けば、青い空の中を落ちていた。どこまでも、果てなく広がるそれは無限のものに思えて、見るのが億劫になり目を閉じる。
 記憶が一つ落ちた。それは大切な何かだった。
 記憶が二つ落ちた。それはきっと、誰かの名だった。
 記憶が三つ落ちた。それは封じ込めて、思い出さないよう鍵をかけていたものだった。
 それらは手を伸ばしてももう、取り戻せない。拾えない。浄化され、すべてを失う。『ユリウス・ウィル・クルスニク』という存在が消える。俺が、俺でなくなる。
 浄化の果てに生まれ変わってまったく別の人間になるのか、どうなるのかは分からない。柵に囚われてしまった魂は、果たして浄化しきれるのだろうか。もしかすると、跡形もなく完全に消えてしまうかもしれない。
 消滅。与えられて当然の罰だと思っていた。今までに一体どれほどの命を奪ってきたのか。ルドガーを守る為の代償は、時歪の因子化だけではなかったのだから。
 記憶が次から次へと落ちてゆく。長年暮らしていた街も、何度も顔を合わせた人も、次第に輪郭が曖昧になって最後は欠片も思い出せなくなる。
 忘却の波はやがて、大切にしていたものまで奪い去ろうとする。だがそれでも、最後まで、忘れられないものがあった。もう一度と、願ってしまったものがあった。

 食べ損ねてしまった、あの――








『マクスバード行き、ドアが閉まります』
「!」
 聞き慣れた列車のアナウンス。駅を埋め尽くす人々の喧騒。
 閉じていた目を開けばそこには、見慣れた景色が広がっていた。
「……トリグラフ、中央駅」
 だが、どこかが違っていた。しばらく辺りを見回して、その違和感に気付く。
 風景に、色がなかった。分史世界のようなくすんだ色をしているわけでもなく、白と黒でしか世界の色が構成されていない。モノクロ写真の中のような空間が広がっている。
「……」
 ここはどこなのか。死後の世界であろうことは想像がつくが、ここまで元いた世界に酷似しているものなのか。――心の片隅に浮かんだ“仮定”を、押し込める。まさかそんなはずはないと。あの時、オリジンがすべて消したはずだ。
 街を歩きながら正史と相違点を探すが、今のところは一つもない。ここにはクランスピア社も特別列車も、マンションフレールもある。何もかもが違わない。今まで生きてきた世界が、色だけを失くして確かに存在している。
 循環の中で落としたと思っていた記憶が、この世界のものを見るたびに一つ一つ戻ってくる。ここが浄化された者の行き着く先だと言うならば、それは少し妙だった。そもそも、そんな場所があったら恐ろしいところでしかないと思った。記憶を失い自分さえもわからない人々が集い、転生か完全な消滅を待つだけの場所。
 それらはまるで表に出るのを待つ機械のようで、それを想像して、無意識のうちに服の裾を握った。

 マンションフレール。三階に上がって自室の前に立つも、扉へ伸ばした手が止まる。
 ルドガー。いるのか――あの、扉の向こうに。
 押し込んだ仮定は、ここまで来る途中で確信へと変わりかけていた。オリジンの消去が適用されなかった、百万個目の分史世界。ルドガーが時歪の因子の世界。かつて俺が生み出し願いを詰め込んだあの分史のように、穏やかで優しい世界。
 だが変わりかけていただけで、まだそれを否定する自分もいた。扉を開くのが少しだけ、怖くなった。
 もし、誰もいなかったら。
 もし、そこに空っぽの部屋があったら。
 “ルドガー”が、存在していなかったら――
「……兄さん?」
 思考が自動的にシャットダウンされた。ブレーカーが落ちた時のように、ばつん、と止まった。
 ゆっくりと横を見れば、横には“ルドガー”がいた。
 紙の袋を抱えて、驚いているのか目を丸くして、ぽかんという擬音語通りの表情をしている。
「……ルドガー?」
 俺のそのなんとも情けない呟きを聞くなり、ルドガーは抱えていた紙の袋を落として、体当たりと言ってもいいくらいの勢いで俺の胸に飛び込んできた。落ちた袋からは、銃弾らしきものが転がり出た。
 ルドガーがぶつかってきた反動には、少し足をずらす事で耐えた。昔はよくこんな事があったな、懐かしい。分史世界からなかなか帰ってこれなかった後なんかはもう、大変だったよな。
 胸中で思っていたはずの言葉は、声に出ていたようだった。そうだよな、と返されて、顔を上げたルドガーは、言う。
「俺……ずっと兄さんに言いたかった言葉があったんだ。結局最後まで一度も言えなくて……けど、今なら言えるから言うよ」
 なんとなく、察しはついた。でも、黙っていた。何も言わずに頷いた。
 それは、何度も何度も背に受けた言葉だった。ルドガーの何気ない一言にも支えられる事は多々あった。毎朝当たり前のように交わしていた会話の一部であるそれはそういえば、途中で途切れてそのままだった。
 瞳の端に浮かんだ涙を拭って、ルドガーは笑った。
 久々に見た『ルドガー』の、笑顔だった。
「おかえり。兄さん」
 ああ。言われた回数は数え切れないほどなのに、どうしてこうも目頭が熱くなるのか。
「ああ。ただいま……ルドガー」
 今日のメニューは何だと問うと、トマトソースパスタだよ、と返ってくる。
 落とした袋を拾い上げて、ルドガーが扉に手をかけた。早くソース作らないと。オリーブ、足りるかな。ぶつぶつとひとり言を呟くその背に向かって呼びかけると、どうしたんだ、と言いながら振り返った。
 困ったものだ。せっかく、久しぶりにルドガーが笑った顔が見られているのに、水面のように見えるすべてが揺れている。
「兄さん」
 すっと近寄ってきたと思えば、ルドガーは俺の頭をくしゃりと撫で回した。幼いあいつに俺がしてやっていたものに比べると少し雑だったが、そんな事を思っている間に、今度はその腕の中に収められる。
 それは俺が、ぐずっているあいつを慰める為にしていた事だった。もう泣くなと、優しい声色でそう言ってやりながらよく慰めたものだった。
「来てくれるって……信じてた」
 ルドガーの抱く力が、強められた。小さく、もう離さないと聞こえたような気がした。
 歪んでいく視界を直そうとしても、こうされていると身動きが取れない。溢れ出るものが止まらず、限界を越えて頬を静かに伝っていく。
 夢ではなかった。幻では、なかった。
 いつか終わる夢であったとしても、今だけは、いつまでも終わらない夢だと思わせて欲しかった。
「……俺の望んだ世界……か」
 震えた声で言った言葉は、届いただろうか。

 空間に色が付き始める。
 止まっていた時間が、またゆっくりと動き始めた。


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