水底の扉のその先へ
 すべてを捨てたルドガーは、最期の刻まで兄のそばにいる事を選択した。選択してしまった。旅路を共にした仲間達と決別しても、それが世界を敵に回す選択だったとしても、彼の中に後悔の文字はない。
 たった一人の家族を殺せるわけがない。兄さんが死ぬなんて嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ――。
 ルドガーは、ユリウスを生贄に捧げその屍を越えるという事を、決断できなかった。しかし時間は非情にも、ルドガーに躊躇いを許してはくれなかった。ルドガーかユリウス、どちらかの命を世界の為に差し出さねばならない状況。緊迫し張り詰めすぎた空気。頑なに否定の言葉を口にし続けたルドガーの中で何かがぷつりと切れた後から、仲間達との間に亀裂が走るのにそう時間はかからなかった。
「俺は、兄さんを守る!」
 そう選択した後から、彼の運命は決まってしまっていたのかもしれない。
 一言で言うと、無謀な戦いだった。骸殻の力があるとはいえ、数では圧倒的にルドガーが不利。誰かを斬っても誰かがその傷を癒し、再び立ち上がる。誰かを相手していても背後から別の誰かが斬りかかってくる。距離を取れば大精霊や術士の精霊術が襲いかかる。剣が、棍が、大剣が、拳が、すべて自分に向かってくる。
 それでもルドガーは諦めなかった。必死に抗った。諦めてしまえば、抗うのをやめてしまえば、ユリウスが殺される。いなくなってしまう。それはなんとしてでも避けたい道で、たとえ戦友達を消す事になろうとも決して迎えたくはない結末だった。
 だが、彼らは強かった。
 何度も斬られ、何度も術を浴び、何度も地に伏しかけたルドガーはやがて、ある考えに行き着いた。
 それは単純な事だった。
 未だに呆然とするユリウスの前に立ち、ルドガーは手にしていた双剣を、鎚を、双銃を、血に染まりつつある港のタイルの上へと放り投げた。刃を交えていた彼らは、構えていた得物を下ろす。
 ただ一人、ガイアスだけは、長刀を下ろさない。
「……ルドガー。お前は、これからどう選択する」
 一国を統べるだけのことはある。一見降参ととれるルドガーの行動の先に幾つもの選択肢を見据えているかのように、静かに問う。
 ガイアスの問いに答えず、ルドガーはマクスバードの海を見た。どこまでも広がっている。どこへでも繋がっている。しばらく見つめた後に振り返った彼は、果てしない海とたった一つの守りたい存在を背に、少しだけ哀しげな顔をしてユリウスを庇うように両手を広げた。
「兄さんは殺させない。そんなのは、俺が許さない」
 ルドガーの言葉に、ガイアスの視線が険しくなる。ミラが剣を構える。辛そうな表情を浮かべる者、複雑そうな者、それぞれの反応を見て、ルドガーは広げた両手を下ろす。
「けど、もう皆とは戦わない。だから武器も捨てた」
「ならばルドガー、君はどうするつもりなのだ? カナンの地へ行くには、他に方法はないぞ」
「言っただろ。“殺させない”って」
 その言葉の真意を読み取れた者がこの時点でいなかったのは、不幸なのか否か。
 ユリウスに向き直ったルドガーは懐中時計をしまい、少しだけ高い位置にある両肩に手を置く。
「……ルドガー?」
「簡単な事だったんだ。一緒に生きられないならどうすればいいか、難しく考える必要なんてなかった」
「お前、何を……」
「俺にはできない。兄さんを殺すのも、兄さんが殺されるのを見ているのも――兄さんを犠牲にした世界で、生きていく事も」
 子供のような我侭なのは十分に分かっていた。分かっていても、兄を犠牲にする選択は出来なかった。その犠牲の上で成り立つ世界を、愛せる気がしなかった。
 頭に上っていた血はすっかり下がり、自分でも驚くほどルドガーは冷静でいられた。
 そんな彼を、ジュードが不安げな眼差しで見つめる。この中では、ルドガーとの付き合いが一番長い。何故決別してしまったのかと悲しみに明け暮れながらもジュードは、彼を止めたい、ただそれだけの為に拳を振るった。他に方法を見出せない自分を不甲斐なく思いながらも、それしかないんだと言い聞かせる事でどうにか立ち上がり親友と戦った。
 ルドガーは、ようやく止まってくれたと思った。だが心のどこかで、不吉なざわめきが治まらない。暗雲が青空を覆うように、嫌な予感がしてならなかった。
「ジュード」
 ぽつりと呟かれた自分の名に、ジュードは俯きかけていた顔を上げる。
「ごめんな」
 心底、申し訳なさそうな謝罪。
 ジュードの目が見開かれる。殺させない、という言葉。捨てた武器。共に生きられないならばどうすればいいか――点と点が繋がる。線になる。遅かった。遅すぎた。もっと早く気付かなければならなかった事に、ジュードは気付けなかった。
「駄目だ、ルドガー!」
 彼が駆け出すのと、ルドガーがユリウスを抱え体を傾けたのは、ほぼ同時だった。
 それはほんの、一瞬の出来事だった。誰も止められなかった。誰にも、止める事が出来なかった。
 上がった水飛沫。二人の命を飲み込んだ海。言葉を失う面々。何も知らずに吹き渡る潮風が水面を揺らす。

 伸ばしかけていた手をジュードは、力なく地へと叩き付けた。




 水中の世界に、外界の音は聞こえない。そればかりか、見渡す限りの蒼の中、二人が交わす言葉さえも水泡となって溶けるように消えてしまう。唇の動きしか、想いを伝える手段はない。ただでさえ減ってゆく命の残量を自ら削って無音の会話を交わすしか、方法は残されていなかった。
『お前は……俺なんかのために、全てを捨てたのか?』
 二十年間生きてきた世界も、背負わされた宿命も、一族に課せられた使命とオリジンの審判も、少女と交わした約束も。
 そして、自分の命さえも。
 ユリウスに、ルドガーを責める気はまったくなかった。寧ろ謝りたい気持ちしかなかった。こんな酷な選択を強いてしまった事。そして、こんな兄のために様々なものを失わせてしまった事――意味のない謝罪だと分かっていても、一度浮上した罪の意識は沈んではくれない。
 すまない、そうユリウスが言おうとした時、ルドガーの指がそっと唇に押し当てられる。出そうとした言葉を、押し戻すかのように。
『俺なんかのため、なんて言わないでくれ、兄さん。俺は兄さんと、一分一秒でも兄弟として一緒に居たかったんだ』
 この選択に後悔なんてない、と言うように、ルドガーは笑う。その一言が、じわりと胸に染み込んでいった。
 ユリウスがルドガーへ向けていたのは無償の愛で、見返りなど求めてはいなかった。――否、見返りは、無意識に与えてくれていた。いつも家で待っていてくれる優しい笑顔。作ってくれる温かな手料理。“ルドガー”という存在がそこにいてくれるだけで、彼は幸せだと感じる事が出来ていたのかもしれない。
 ただ、表には出せない、ささやかな願望もあった。
 ルドガーがもし、自分を選んでくれたら。
 世界よりも何よりも、自分を守ると言ってくれたら。
 心の片隅に生まれてしまったその感情をユリウスは邪だと判断して更に端へと追いやったが、ルドガーが仲間達に刃を向け戦いを挑んでしまった時、本気で止めようと思えば止められたものを止めようとしなかったのは――その想いが捨て切れていなかったからだった。
 兄弟として一緒に居たかったんだ。
 ルドガーのその言葉に、視界が歪みかけるほど、救われた気さえした。
『……馬鹿な兄貴だよ、俺は。お前が俺を守ると言ってくれた時、素直に嬉しく思ってしまった。彼らを手にかけようとするお前を、止めなきゃいけない立場なのにな』
『……』
『だが、これも……俺が望んだ世界、なのかもしれないな』
『兄さん……』
 マクスバードの海は、キジル海瀑のように澄んではいない。二人が沈んでゆく先、海の底は暗闇に覆われている。それどころか、気を抜いてしまえば切り離されてしまうのではないかと思えるほどに暗く、冷たい。
 底なしの闇に一瞬だけ震えるも、愛しい大切な存在を見失わないよう、ルドガーはユリウスを抱き寄せた。もう離さない。もう一人になんかしない。俺が一緒だから、安心してくれ――腕の中の微かな温かさが、伝わる鼓動が、“ユリウス”という存在を確かに認識させてくれる。安心したのは寧ろ、ルドガーの方だった。
 今まで言えなかった言葉は沢山ある。最期を迎える前に伝えたい事も沢山ある。だが時間がない。消えかけている命の灯火は、そう長くは保たない。それは二人とも分かっていた。
 ああ、もっと一緒にいたい。もっと一緒に生きたい。もっと一緒に沢山の事をしたい。もっと他愛ない話をしたい。もっと、もっと。
 目前に迫る死を受け入れていないわけではない。だが本心は正直で、いつまでも見え隠れしながら残り続ける。それが叶う事はないと分かっていても、ばっさりと切って捨てる事が出来ない。それはルドガーもユリウスも同じだった。
 平穏なごく普通の日常。望みがあるとすればただそれだけで、互いがいれば他には何もいらなかった。もう引き返せない、帰れない、あの穏やかな優しい日々。懐かしいと思えてしまう事がほんの少し、淋しく感じた。世界も宿命も使命も捨てたところで手に入らないのだから、運命はどこまでも残酷だ。
 だがその運命も、呪うばかりのものではなかった。クルスニクの一族に与えられた力。それがその叶わぬ願いを叶えてくれる可能性を秘めている事に気が付いたのは、水に身を投げてからだいぶ経った頃だった。
『にいさん』
 ルドガーがそう言うと同時に、小さな泡が上へと向かい消えた。もう喋るなと言いたげなユリウスの視線を受け止めて、ルドガーは続ける。
『つくろう。俺たちの世界を』
 ユリウスがハッとした表情をする。音のない言葉は確かに届いたらしい。その言葉の意味も、彼は察してくれたようだった。
 すぐにルドガーが懐から取り出した、金と銀の懐中時計。落とさないようにそっと手渡された自身の銀の時計を見て、ユリウスは苦笑する。何を想ったのか。ルドガーが答えを出そうとする前に、ユリウスは言う。
『お前の料理。また食べたいな』
 たった一言そう言うと、ユリウスは時計を開く。秒針はまだ動いていて、ゆっくりと時を刻んでいた。
 一パーセントでも可能性があるなら信じたい。九十九パーセントの失敗を恐れていては、海の底で永遠に眠り続ける事を選んだも同然だ。
 握り締めた懐中時計。それは二人を導き世界を開く鍵となるのか、それとも永久に切り離してしまう刃となるのか。それは誰にも分からない。だからこそ、賭ける。賭けるしかない。
 交わる視線。決意が交差する。
 深みを増す蒼の中で、金と銀の歯車が煌く。それは夜空に瞬く星のような光でありつつも、どこか儚い輝きだった。
 骸殻を纏った二人はそれ以上言葉を交わさず、じわじわと身を侵食する時歪の因子化を黙って受け入れる。伴う痛みも、酸素がない息苦しさも、不思議と感じない。近付く消滅の時も怖くはなかった。
 理由はきっと、考えるまでもない。
『ルドガー』
 いつものような穏やかな表情で、ユリウスはルドガーをそっと抱き締めた。人肌同士の温もりは感じられず、触れている部分から伝わるのは骸殻の鎧の硬さだけだった。
 ルドガーは、何気なく上を見上げる。地上の光は遥か彼方にあった。背を向けて、逃げて、見捨てて、置き去りにしてしまった世界とはもう、お別れだ。
 ルドガーが目を閉じると、ユリウスの抱き締める力が強くなる。そろそろ時間なのだろう。愛しい弟を抱く手には既に感覚がない。視界は霞み、命は終わりに近付く。ぼんやりとした世界の中、ユリウスは目の前にある銀をくしゃりと撫でた。――まだ、ルドガーはここにいる。それが分かっただけで、十分だった。
 空のように青く優しいユリウスの瞳が、ゆっくりと閉じられる。
『――――』

 彼が発した言葉の水泡が消えた時、そこに二人の姿はなかった。








 重力のない空間を、浮遊しているような感覚だった。今どこにいるのか。確かめようとしても、接着剤でくっ付けられたかのように目が開かない。あれからどれくらいの時間が経ったのか。それさえも分からない。ただ、もう痛まない左手に温もりがあった。思わず力を籠める。
 どこからか、カチカチ、と鳴る音が聞こえる。まるで心臓の鼓動のようだった。時歪の因子が自分の中にある事を理解する。二重に聞こえるのはきっと、気のせいだろう。
 一緒にいこう。兄さん――。
 白に塗り潰されていく意識の中、ルドガーの声を聞いた気がした。




「……!」
「ナァー」
 ずしりとした重みで目を覚ませば、視界を僅かに下げた先で愛猫が堂々と鎮座していた。
 体を横たえたまま、顔だけ動かして周囲を見回す。開放された窓から差し込む光。ほとんど物がない殺風景な部屋。なんとなく、頬を抓った。感じる痛み。
 ――夢ではない。夢などではない。
 置かれた現状をそれ以上理解するより早く、ユリウスはトマト柄の寝巻きのままリビングへと飛び出した。
「ッ、ルド――」
「おはよう、兄さん」
 視線の先で、キッチンに向かっていたルドガーが笑う。
 振り返ったルドガーにほんの一瞬だけ出た時歪の因子の反応を、ユリウスは見逃さなかった。
「お前、時歪の」
「兄さん」
 彼が言いかけた言葉を遮って、ルドガーは持っていたフライパンの上で焼き上がったオムレツを盛ろうと皿を取る。
 突っ立ったままのユリウスの寝巻きの裾を、ルルが鳴きながら引っ張った。早く着替えて来い、と言わんばかりに。
「とりあえず、着替えて来なよ」
「あ、ああ」
 促されるまま自室へ引き返す。
 着替える最中にふと左手を見てみれば、そこには火傷の跡しか残っていなかった。あの忌々しい呪い――かつ、命にかえて弟を守っていたという確かな“証”は、消えていた。
 癖で片方だけ手袋を嵌める。置いてあった伊達眼鏡を掛ける。
 夢、ではないのなら。
「ルドガー」
 リビングへ戻ると、ルドガーは椅子に腰掛けてテレビを眺めていた。
「食べよう、兄さん。せっかく兄さんの好きなトマト入りオムレツ作ったのに、冷めたらもったいないだろ」
 用意されていたトマト入りオムレツから漂う香り。足元で一足先に朝食をとっていたルルが、ユリウスを見上げて一度だけ鳴いた。
 温かいオムレツを口へ運ぶ。二度と味わえないと思っていた味が広がる。
 自分を奈落の底から救ってくれたルドガーの料理は、いつまでも特別なものだ。これに敵う味をユリウスは知らないし、知ろうともしない。知る必要がない。最愛の弟の作る大好きなトマト料理に勝てるものなど、一つも存在しないのだから。
「美味いな。さすがだよ、シェフ」
 ユリウスの言葉に、ルドガーは嬉しそうに笑う。つられてユリウスも表情を緩め、テレビの音声に耳を傾けた。
 聞こえる内容はリーゼ・マクシアのトマト狩りツアーの紹介だった。特別にペットも同伴可能だと、ナレーションが告げる。
「兄さん、今度このツアー行こうよ。もちろん、ルルも連れて」
 トリグラフ駅の食堂の新メニュー開発、できるかもしれないし。
 続けられた言葉に、ユリウスは食べる手を止めた。
「……」
「……兄さん?」
「……そう、か」
 テレビへ目を向ければ、ずらりと並んだニュース内容に物騒なものは一つもない。
「……そうか……」
 事件など一件もない報道内容。
 駅の食堂で働いているルドガー。
 それらはこの世界が平穏である事の証であり、何よりもユリウスが望んでいたものだった。
 そうだ。夢ではない。夢などではない。夢だ、などと思ってはいけない。
「……にいさ、」
「ルドガー」
 掛け直された黒縁の眼鏡。レンズ越しの優しい視線に、ルドガーは言葉を止める。
 絡まる碧と蒼。まるで空と海のようだった。世界の果てまで行こうと決して切り離せず、繋がり続ける。
 空の青があるから、海の青がある。
「ルドガー、なんだな」
 僅かな間。だがそれは、その言葉を否定するために空いた時間ではない。
「……うん。兄さん」
 頷き、そう言うルドガー。
 ユリウスは席を立ち、微笑んだルドガーを思い切り抱き締めた。籠められた力。服越しに感じる体温。ユリウスの腕の中に収められたルドガーは、あの暗い世界を思い返して一瞬、身震いする。
「ごめんな、こんな選択をさせて……あんな選択肢を突き付けてしまって、すまなかった」
「……っ、俺の方こそ」
 意味のない懺悔だと分かっていても、一度溢れ出すと止まらない。気持ちが収まらない。
 ルドガーは、ユリウスの胸に縋り付く。その存在を、その命を、自分の愛した兄のものだと確認するかのように。目の前にいる“ユリウス”が“ユリウス”である事を、確かめるかのように。
「ずっと苦しんでたのに気付いてあげられなくて、一人で戦ってたのに助けてやれなくて、俺を守る為に命削らせて、こんな選択に付き合わせて……あんな形でしか、兄さんを守る方法を思い付かなくて……ごめん」
 埋もれたルドガーの顔が今どんな感情を表しているのかは、ユリウスからは見えない。見えないが、分かる。泣いている事くらい、分かる。たとえその涙が、見えなくとも。
 数秒の静寂を破り、ユリウスは証の歌を口ずさんだ。穏やかな旋律が、聞き慣れた心地よいハミングが、ルドガーを癒す。
 ルルはいつの間にか、食べかけの朝食が残されたテーブルの下で丸くなっていた。

 永遠に失うはずだった日常が今、白紙の世界に描かれ始める。

 二人の世界は作られる。
 この幸せな夢が終わりすべてが青に回帰する、その時まで。




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