一分一秒でも、お前と。

 マクスバードの港に、武器と武器が衝突する金属音が何度も響く。
 これは現実なのか? もし夢だとしたら覚めてくれ。早く――。
 そう願っても、意味はない。覚める事もない。つまりこれは夢などではなく、紛れもない現実だという事だ。
 一度閉じた瞳を開く。目の前の光景は数秒前と何一つ変わらない。ああ。現実とは、何故こうも残酷なのだろう。
 寝食を共にし、戦場で背中を預け合い、一緒に笑ったりした仲間達に、ルドガーは剣を向けている。信頼されていた剣を、信頼してくれていた人達へ突き付けている。
 仲間割れ。そんな言葉で済ませるレベルではない。
 俺の前に立ち、彼らを振り返った時のルドガーの目には、明らかに殺意が籠もっていた。
 その時点で俺は察した。ルドガーは、俺なんかのために、戦友を皆殺しにするつもりなのだと。
「覚悟してもらおう」
 ルドガーの隙を突いて、長剣を構えたリーゼ・マクシアの国王が俺に迫る。
 覚悟。そんなものはとうの昔に出来ている。そもそも俺は、ルドガーがここへ来なければ自分で自分の首を掻っ切って死ぬつもりだった。或いは、彼らに俺を殺めてもらおう、と。
 どの道長くないのだから、この命をルドガーのために使おうと思っていた。あいつが、あいつの大切なものを守るために背を押してやろう、その一心で、家にあの手紙を残してここでルドガーを待っていた。
 だというのに――何故こうなってしまったのだろう?
 俺の命で魂の橋を架ける事を、ルドガーは頑なに拒み続けた。大切なあの娘を守るためには、こうするしか方法はないというのに。
「兄さん!」
 首元まで迫った長剣が、横から割り込んできた双剣に弾かれ甲高い音を立てる。国王に隙が生まれた。すかさずルドガーは蒼の衝撃波を放ち、彼を吹き飛ばす。
 国王という世界的に重要な人物だというのに、ルドガーは一切容赦をしなかった。
 いや、彼だけではない。向こうで地に伏している宰相も、立ち上がろうと歯を食い縛っている研究者の少年も、殺害されたとなれば大事に至る事は明らかだ。
 俺なんかのために、ルドガーはその手を汚そうとしている――。道を踏み外しかけている弟を止めたい気持ちは当然、ある。だが、あいつがあいつの決めた道を行くのなら、止めたくない気持ちもある。
(……本当に、その二つの気持ちだけなのか?)
 心の奥底に隠れている三つ目の感情が、自分の事だというのに、掴めそうで掴めない。掬い上げようとしてもするりと手から抜け出してしまう。
 隠すな。それを否定するな。答えろ、ユリウス・ウィル・クルスニク。その二つの想いという名の建前に隠れている本心は何だ。
 ルドガーを止めない本当の理由は――何だ?

 自問する俺の前で、再びルドガーは国王と対峙する。俺はあの記者の娘の言葉を借りて、その背に言葉を投げた。
「ルドガー、お前、自分が何をしているか……」
「分かってるよ、兄さん」
 振り返らないまま、ルドガーは言う。
「俺は兄さんが大切なんだ。だから兄さんが犠牲になって救われる世界や未来なんていらない」
「……ルドガー」
「世界のために兄さんに死ねって言ってるようなもんだろ。そんなの……俺は許せない」
 双剣が閃く。長剣と交わり火花を散らす。
「だったら俺は、兄さんを守り抜く! 何にかえてもだ!」
 国王と刃を交えながら、ルドガーは叫んだ。
 大切なら守り抜け、何にかえても――。以前、俺がルドガーに言った言葉だ。まさかそれが、こんな形で返って来るとは。
(本当に、そう長くはない俺のためなんかに)
 戦友も、今まで生きてきた世界も、約束を交わした少女さえも、捨てる気だ。
(ルドガー…………お前は)
 仲間達と対峙した時ルドガーは、俺の時計を使ってスリークォーターまで変身した。
 お前は知っていたのか? 時計が二つあれば、単独でハーフまでしか行けなくともスリークォーターに到達出来る、と。
 ビズリーやリドウが話したか。或いは、世界中に散らばっていた俺の過去の記録を読んだのだろう。
 仮に後者だとしたら、ルドガーは俺に利用されていた事を知っているはずだ。
 それでもお前は、俺を守るというのか。仲間達との間に芽生えた絆を壊し、国際問題に発展しかねない事をしてまで、自分を利用していた勝手で最低な兄貴を守るのか?
「…………アースト」
 ルドガーがぽつりと呟いたのは、最後に倒した国王の名だ。
 その双剣に付いた深紅は、もう誰のものかわからない。

 戦友と刃を交えたルドガー。
 優しかった弟は、皆に料理を振舞ったり共に戦うために武器を握っていた手で、八つの命を刈り取ってしまった。
 この数分で、その手は血に塗れてしまった。俺が一番望んでいなかった姿だった。
 だというのに、ルドガーを怒る気にはまったくならない。そうしたところで、奪った命は戻らない。
 それに、そんな選択をしたルドガーの事が、俺は。
「お前は……俺なんかのために、すべてを捨てたのか?」
 その背に、聞くまでもない事を訊く。
「…………」
 ルドガーは答えない。
 吹きすさぶ波風に髪を揺らし、暗い海から視線を外さない。
「……。全部……無駄だったか……」
 カナンの地は、何も知らないかのように変わらず空に浮かんでいる。
 ビズリーの野望は、達成されるだろう。それを阻もうとする者は、もういないのだから――。
 これからどうすべきか考えかけたその時、左腕の時歪の因子化が進む。
 伴う痛みに思わず、懐中時計を落とした。ああ、とうとうここまで進んでしまったのか。俺の命が終わる時は、そう遠くはないらしい。
「!」
 呻いて膝を折った俺に、ルドガーが駆け寄った。
 ごめんな。ルドガー。お前が全てを捨てて守った兄貴は、もう。
「ルドガー……」
 血まみれの弟の名を呼んだ俺に触れる手は、温かい。
「兄さん」
 揺れる視界の中で、ルドガーは笑った。いつも向けてくれていたものと変わらない、優しい笑顔だ。
 俺が一番好きな、ルドガーの表情だった。
 顔のあちこちに付いた返り血が痛々しくて、右手を伸ばす。中には刃物で裂かれたような切り傷もあり、軽く拭っても、それは取れない。
 それはまるで、仲間を殺めた罪の烙印のようだった。一生罪を忘れるなと言わんばかりに付けられてしまっていた。
 否。その烙印は強制的に押されたわけではない。ルドガーは、自ら“選んだ”。その烙印を押される事を、俺なんかのために。
「……ああ、だが、これも」
 ルドガーはいつものように笑ってくれた。それだけで全て救われた気さえした。俺はまだ、生きていられる。ルドガーと、ルルと一緒に時を過ごせる――。
 隠れていた三つ目の感情が、顔を出す。
 死ぬのが怖かったわけじゃない。ただ、生きたかっただけだった。
 俺も、バカだな。クロノスにああ言われても、何も反論出来ないじゃないか。
「俺の望んだ世界……か」
 そう零した俺を、ルドガーはそっと抱き締めた。
 温かい。ルドガーは、確かにここにいる。
 同じ時を刻んで、ずっと共に暮らしてきた弟――ルドガー・ウィル・クルスニクである事に、間違いはない。
 何をしても、こいつは俺の大切な、たった一人の弟だ。

 そこで、認識する。
 たとえ、残された時間がどれだけ短くても。
 俺は、一分一秒でもお前と一緒にいたかったんだ。



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