夜風に消える

――なんて、小さいんだ。
 初めてお前の手を握った時、そう思った。力を入れてしまえば折れてしまいそうで、お前がとても弱く小さな存在に思えて仕方がなかった。
 否、本当にその通りだった。
 人は脆弱だ。その生命の灯火を消す事など、火に水をかける事と同じくらい容易い。現に俺は、時歪の因子を探すのが面倒で、分史世界の街の住民を皆殺しにした事もあった。どのみち消えるんだから構わないだろう、と。
 その中には、お前と大差ないくらいの年の子供もいた。けど、やつれた俺の心に、躊躇いなんて優しい感情は残っていなかった。俺はその子供さえも、容赦なく斬り捨て深紅の池に沈めてしまったんだ。
 そうやって数多の人間を消してきた俺の手はもう、血塗れだ。俺にお前の手を握る資格など、ない。それは十分に分かっていたんだ。
 だけど俺は、いつしかお前の手を握らざるを得なくなってしまっていた。
 なぁ、ルドガー。
 確かに俺は、自分の目的を果たす為に何年もお前を騙し、利用してきた。一族の因縁と関わらせない為に、と言えば聞こえはいい。だが俺は、クランスピア社で働きたいというお前の夢と目標を奪い、挙げ句の果てに、関わらせないと決めたはずのクルスニクの呪われた因縁にお前を巻き込んでしまった。
 お前は俺の事を完璧な兄として見ていたらしいが、実際はまったく違う。俺に憧れの眼差しを向けてくれた事が申し訳なくなるくらい、何一つ成せていない情けなくて愚かな存在なんだ。
 幻滅したか? 呆れたか? 一発殴りたいくらいの怒りを覚えたか?
 でもな、ルドガー。
 周りからも、お前からも何と言われようと、俺の根底にはお前を守りたいという想いがあったんだよ。――正直に言うと、初めからそうだったわけじゃない。
 ある時を境に、そう思うようになったんだ。
「……」
 持っていたペンを置く。
 椅子から立ち上がり、月明かりが差し込む窓を静かに開いた。途端に流れ込んだ夜風が、心地いい。
 いっそこのまま、風と共に消えてしまいたいとさえ思う。
「……ルドガー」
 お前は今、どこで何をしている?
 あの娘、エルを守る為に戦っているのか。
 仲間達と他愛のない会話をしているのか。
 旅の過酷さを忘れたくて博打に走っているのか。
 その質問に答えてくれる者は当然、いない。いなくていい。俺はルドガーに、残酷すぎる選択肢を突き付けてしまった。
 あいつが笑っていようと苦しんでいようと、その決断を迫られる時は必ず訪れる。だからルドガーが何をしているのか知ってしまえば、余計に罪悪感が伸し掛かる事になる。
 こうするしかないとはいえ、身勝手ですまないとは思ったが、俺の決意を揺らがせてしまうわけにはいかなかった。
 窓を閉め、自室を出る。自分以外誰一人いないダイニングに、一人分の足音が響く。音を立てないように扉を開き、薄暗い通路に出て、そっと扉を閉める。
 少し間を置いてから、俺は背を向けて歩き出した。

 二度と戻る事はない自宅に、行って来る、と小さく告げて


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