05

 寮長の手が胸に触れた瞬間、その手が勢いよく抜き取られて次の瞬間私の身体は力強く引き寄せられていた。寮長の手が腕を離れる。
「寮長、何してるんですか」
「…………あ、秋吉」
 涙で歪んだ視界に、額に汗を浮かべて軽く息切れしている秋吉が入り込んだ。鋭く寮長を見つめるその目は、厳しく歪められている。私はもうあまりのことにすっかり脱力してしまって、足の力が抜けた。倒れ込んだ私を抱きとめて、秋吉は寮長をぎろりと睨み上げた。
「……かばうなら新田も同罪だが?」
 なにを、かばうのか。誰を、かばうのか。そして私の罪はなんなのか。
「なにを言っているのか、さっぱり意味が分かりません」
「まさか知らないとは言わせない」
「まったく、何を言っているのか分かりませんが、とりあえず寮長が比呂に乱暴する気だったのだけは分かります」
「……」
「失礼します」
 厳しい表情のままの秋吉が、腰が抜けている私を背負って足早にその場を去る。怖々と振り返ると、表情の読めない顔がじっとこちらを見つめていて、慌てて逸らす。
 そして、秋吉の背中に顔を預けると、そのあたたかさに一気に張りつめていた気持ちがほどけてしまう。
「ごめん、秋吉」
「なにが」
「言うこと聞かなくて、ごめん」
「お前は悪くない」
「ごめん」
「……」
 ため息をついて、立ち止まる。と思ったら、もうすでに部屋の前に来ていた。ドアを開けて、秋吉は私の部屋に入って私をベッドに下ろした。履いていたローファーをそっと脱がしてくれて、みっともなく泣いている私の頭を撫でて、しゃがみこむ。
「悪いのは、お前の弱味に付け込んだ寮長だ。お前はなんにも悪くない」
「……秋吉」
 いつになく優しい表情に、ますます情けなくなる。寮長はあやしい、近付くな、と秋吉はきちんと私に言っていたのにほいほいついていって、おまけに彼を共犯にしてしまった。必死で泣くのを我慢しようと目元に力を入れて、スウェットの袖でぐっと擦る。
「怖かったな。すぐ助けてやれなくて、ごめん」
「あ、秋吉はなんも悪くない」
「うん。俺もお前も、悪くない。分かるな?」
 あくまでも私を責めない彼に、もう私の涙はとどまるところを知らなかった。涙腺のネジが馬鹿になったみたいに泣き続ける私に苦笑して、彼は、タオル取ってくる、と言って部屋をあとにした。
 洗面所から水の流れる音がして、私はベッドに寝転ぶ。ぎゅっと縮こまって自分で自分を抱きしめる。寮長の手はひどく冷たかった、体温をまるで感じられない表情や、指先を思い出して身震いすると、窓のほうから数度、こんこんこん、と。
「……。は?」
 ここは三階のはず。不審に思い涙でべちょべちょになった顔を上げると、棟に隣接している大木によじ登っている猿、もといサングラスをかけている兄を見つけた。
「……うわあああ!」
「どうした比呂!」
 濡れタオルをつくってくれていたのであろう、手が水に濡れている秋吉が慌てふためいて部屋に入ってきて、私の視線の先を見てあんぐりと口を開けた。しかし、すぐさま彼は、とっさに、というふうに窓を開けた。身軽に室内に飛び込んできた兄は、サングラスを外してその垂れた目をあらわにする。
「何泣いてんの?」
 のんきにそう聞いてくる兄に、どうしようもない怒りが襲う。先ほどまでの怖さや秋吉の優しさに触れて溶けだした涙も引っ込んだ。
「ざけんなよ! こんなところに押し込まれた私の気持ちも知らないで!」
 だいたい、なぜこのタイミングで日本に帰ってきたのか、まったくの謎である。そしてさらに言及すれば、なぜここが私の部屋だと分かったのか、それも大きな謎であるが、それらはこの際どうでもいい。
「っていうかあんた、失踪してたんじゃなかったの」

prev | list | next