その翌日、となりの男はベッドを去った。退院ではない、病室の移動だ。少女の言う通り、個室に移ったのだろう。そうなると、彼女に展開したフォローの論理もまるで意味をなさなくなる。個室に移るということは、それだけ病状が深刻なのだから。
 なんとなく悶々としながら、俺は荷物をまとめていた。俺は、今日退院するのだ。誰も迎えに来ないが、かえってそれでよかった。下手に派手ななりをした組織の人間が来てもほかの患者や見舞客が困惑するのだろうし。モニカくらいは来るかなと淡い期待を抱いていなかったわけじゃないが、よく考えればモニカは今日は用事がある、とすげなく昨日言っていた。要は、こどもじゃないんだから退院くらいひとりでできるだろうと。
 バックパックに少ない着替えなどをまとめて廊下を歩いていると、とぼとぼと前方から歩いてくる一組の親子に気がつく。片方は、レイラだった。
「あ……」
 俺に気づいた彼女が小さく声を上げたが、母親と一緒だったためか小さくお辞儀をするにとどめ、話しかけてはこなかった。きっと父親の見舞いに来たのだ。硬い表情の母親や、個室に移った父親を見て、彼女は何を思うのだろう。
 すれ違うその間際、バイバイ、と小さく囁いて、ほほえんで見せた。それを見て、レイラは少しだけ肩の力を抜いたようだった。
 受付で手続きを済ませ外に出た段階で、携帯が震える。着信、モニカ。
「もしもし」
『ジェイミー、いいニュースと悪いニュースがあるわ』
「いいニュースから聞こうか?」
『退院おめでとう』
「それだけ?」
『おじ様の容体が急変したわ』
 一瞬言葉に詰まった。モニカの言うおじ様は、すなわち俺の親父のことだ。
「どこに運び込まれてるんだ」
『聞いても無駄だとは思うけど、あなたが退院した病院に』
 聞いても無駄、その言葉の意味を誰よりもよく理解しているのは、俺自身だ。それをモニカも分かっていて、あえてそう言う。
 通話は、俺の相槌で切れた。
 今更どこにも行けないので仕方なく今しがた出たばかりの病院に再び入り、一般の見舞客に混ざり見舞客バッヂを受け取り父親の病室に向かう。個室だ。ノックをしようとすると、それより数瞬早くドアがスライドして開いた。開けたのは、継母だった。
「……あら、ジェイミー」
「……」
「悪いけど、彼は今眠っているの。見舞っても意味がないわ」
 やんわりとした拒否、入って来るな、そんな意思表示を見て取って、ため息をつく。そのまま踵を返しかけた俺の背中に、彼女の視線が突き刺さった。品定めするようでいて、もうすでにそのものにほとんど価値のないことを知っている、そんなふうな視線だ。
「ジェイミー」
「……」
「あなた、何を考えているの?」
「……」
 人が何を考えているのか、そんなことが分かれば苦労しない。彼女はきっと、俺が家業を継ぐことを納得したことが怖いのだ。権力者の妻として生きていた自分がその限りではなくなることが怖いのだ。それも、推測の域を出ない、さだかでない思い込みではあるが。
「……別に、俺が跡を継いだからといって、あなたを冷遇したりしませんよ」
 はっと息を飲む音がする。振り向いて、にっこりと作り笑いをする。
「安心して。あなたは俺の母親なのだから」
 うつくしい、と思う。親父の血を受け継いだ黒い髪の俺とは正反対のブロンドの癖毛がウェーブを描いているのを。皺の寄った目尻を歪ませた彼女にもう一度、音がしそうなくらいに嘘くさく微笑んで、今度こそ踵を返して歩き出した。
「…………」
 どうせ老い先短いのだろう彼女をどうこうして、仲間内で妙な評判を立てられるのも気が進まない。それならば適当に遇しておけばいいだけの話だ。
 整然と病室のドアが並ぶ廊下を進みながら、腐ったため息をつかずにはいられなかった。
 親父を見舞うことができないのが悔しいのではない。悲しいのでもない。ただ、風前の灯火の命を思うと、あんなに大きかったはずの親父が小さくなってベッドで眠っているのを想像すると、妙なざわつきが胸を支配する。

prev | list | next