それでは皆さんさようなら




 旧ヴォルティス工場は、元は大型クレーン車とかそういうデカイ機械の部品を作る工場だったのだ。しかし景気が悪化して仕事が回らなくなり採算が取れなくなったらしい。経理担当の社員が金を持ち逃げして、社長は世を儚んでこの工場の電気ケーブルで首を吊ったのだと言う。
 どうでもいいことだった。
 目下、ネロにとって重要なのはこんな廃工場の昔話ではなくて、こんな廃工場に潜んでいる悪魔を倒すことだった。依頼主はここの土地を買った男で、工場を解体したいのだが壊そうとする度に作業員が何人も死んで困っているのだという。電話を取ったのはネロだった。工場は事務所からそんなに遠くない距離にある街の中にあったし、悪魔は一匹だけらしいし、なら一人で行っても大丈夫だろうと判断した。ダンテ達も特に異論はしなかった。
 真夜中の時刻に工場に行って、相手を待っているとすぐに現れて戦闘に入った。
 はっきり言おう、こいつは弱い。
 悪魔は真っ黒な霧のマントの中に骨のような両手と、大きな深紅の球を浮かべた気味の悪い奴だった。頭も足も、腕や肩もない、手だけが浮いている。球はやけにキラキラしていてそれが逆におぞましさを際立たせていたし、声も聞こえるのだが全く人間語ではなかった。
(――早く終わらせて帰ろう)
 こんなジメジメした所にはあまりいたくない。空中でくるりと体制を変えて片足で着地するとネロは最後の締めに掛かった。背中のレッドクイーンのアクセルを捻ってフルスロットル、噴射口から火炎が吹き出る。動きが止まったのをチャンスと見たのか、悪魔がこちらに滑るように向かってくる。右手の人差し指でちょいちょいと挑発。
「来いよ」
 迎え撃ってやる。
 目前にまで迫ると、悪魔は両手の先から緑の液体を滴らせて大きく振りかぶった。液体が酸性の毒なのは鉄のコンテナが溶けたのを見たからわかる。問題ない。
 間合いに入った瞬間、ネロは身体を回転させてレッドクイーンを遠心力と共に横に大きく薙いだ。
 炎の烈風が毒と霧のマントを吹き飛ばし、中の深紅の球が現わになる。すかさずホルスターからブルーローズを引き抜き、球の真ん中に向かって全弾を撃ち込んだ。
 恐ろしく堅いので割れはしなかったが、全体に無数のヒビが入る。
 黒板を爪で引っ掻いたような叫びが高く響いた。霧のマントが消えて悪魔の両手が何もしていないのにパンと弾けて粉々になり、深紅の球が地面に重い音を立てて落ちる。そのまま少しだけゴロゴロと転がり、やがて止まった。
 静寂。
 ネロは鼻から息を吐いてブルーローズとレッドクイーンを戻した。あっけない、しかしこれで金は手に入る。貴重な生活費なのだ、それがこのくらいの戦闘で受けとれるなら何の文句もない。いや、やはり文句が一つある。こいつが強い悪魔じゃなかったことだ。
 きびすを返し、出口に向かおうとした。
 そのとき、かすかな物音を聞いた。背後から、さっきの球がある方向から。反射的に足を止めて振り返ると、ヒビの入った球がぶるぶる震えている。輪郭を発光させながら、中の深紅の色が紫になったり青になったり黄色になったりと明滅している。
 まだ生きてたのか――そう思った瞬間、球がいきなり黒色に切り替わった。鮮やかな深紅の影はどこにもない、混じりけのない真の黒だ。その色にぞく、と背筋に悪寒が走る。
 球がネロの身長くらいまでひとりでに浮かび上がり、そして、こちらに弾丸のような勢いで飛んできた。撃ち落とそうとブルーローズを構えたがそこで弾を入れ替えていないことに気づく。舌打ちしてレッドクイーンを取ろうとしたが遅かった、弾はもうネロと一メートルもない距離にいたのだ。
(やば――!)
 思わず片目をつぶる。
 だが予想していた衝撃は来なく、それどころか球は鼻先ギリギリまで迫った瞬間、いきなり音もなく弾け飛んだ。
「!」
 まさに粉々だった。球は空気に混じるくらいの粒子状に散り、ネロはそれを顔面に浴びてたまらず咳き込んだ。両目をつぶって頭を振る、その間に黒く光る粒子がネロの皮膚や鼻に入り込む、かすかに甘い香りがする。吸ってしまったと気づいたときにはもう何もかもが終わっていた。
 しばらくして、ネロは恐る恐る目を開けた。
 砂糖菓子のような匂いが漂う中、廃工場は元の静寂に戻っていた。悪魔の姿は完全になく、ネロ一人が呆然と佇んでいる。
「……なん、だ」
 最後のあがきで攻撃してきたのは間違いない。この甘い香りも嗅いではいけない類いだと直感でわかる。マズイと思った、かなり吸ってしまったのだ。身体に入り込んでしまったらどうにもならない。思わず胸の辺りをまさぐってみるが特に異常はなかった。だが、
「………」
 何かしら効果が出る前に早く帰らなくては――ネロはいやな予感を感じつつ出口に足を向けた。さっきの粒子を吸い込んだせいかまだ咳きが出る。まるでホコリを口呼吸で吸ってしまったときのような、喉がやたら乾燥しているかのような。
「ケホッ、ケホ、…ハッ…」
 ――あれ。
「ゴホ、ゴホッ、ゲホッ」
 咳きが止まらない。
 思わず立ち止まって喉に手を当てる。喉に絡み付くしこりみたいなのがあって、それが咳きを促している。吐き出せと言う脳の指令で何度も肺から強制的に息を出す。それでもなかなか止まらなくて、酸素を吸う暇すらなくて、苦しくなって身体をくの字に折り曲げた。口元を手のひらで押さえる、腹に力が籠る。
 そのとき、強烈な波が喉の奥から競り上がってきた。
「ガッ!カハッ…」
 ひときわ強い咳きを出すと、口の中から何かが溢れた。酷く鉄臭くて生温くて、ドロドロしたものだった。何が起きたんだ、ネロは口から手を離してそれを見る。
 目を見開いた。
 左手が、自分の血で真っ赤に染まっていたのだ。
 吐血――頭にその単語が転がり出てきた瞬間、全身を無数の針で刺されたような激痛が稲妻のごとく走った。あまりにも突然過ぎて声にならない声が出る、あっという間に立っていられなくなってその場に倒れた。床に頬が付いたとき二度目の吐血が起きる。身体中を何かが暴れていて、内側から突き破られるかのような物凄い痛み。
「がっ…!」
 心臓を鷲掴みされた。
 そう錯覚してしまうほどだった。反射的に身体を丸めて耐えるが痛みは容赦なくネロの心臓を責め立てる。脂汗が吹き出して何が何だかわからなくなって、頭の中がごちゃごちゃになった。一体何が起きたのか、そんなことすらも考えられない。いつもならすぐ回復するはずなのに一向にその様子はなく、痛みは酷くなる一方だった。パーカーの上から心臓の辺りに爪を立てる、爪の色が白く変わるくらいに。
 いきなり声がした。
『うけよ』
 頭の中でそれは響いた。
『のろいを、うけよ、われの、さいごの、しののろい、しぬまで、おまえがしぬまで、しぬまで、ころしてやる、しぬまで、』
 全身の皮膚が引き裂かれた。
 今度は錯覚ではない。コートやジーンズがじんわりと血で濡れていくのを肌で感じていた。頭からも出血して、額から鼻にかけて一筋の血が降りていく。ここまで来ると痛いどころの騒ぎではない、もはや地獄だ。
 今すぐ楽になりたかった。
(……駄目だ)
 止めろ、それは悪魔の罠だ、思うツボだ、考えるな。とにかく今どうすればいいかを考えろ、痛みから逃げるのは絶対に駄目だ。脳みそのかろうじて正常な片隅が考え始める。血が足りなくて寒くて歯軋りするほど頭痛がしたが無視した。
 自分はいま、一人だ。
 この状態を一人で乗り切るには無理がある。誰かを、誰かを呼ばなくては。しかしここは廃棄されて人気のなくなった工場だ、死人も出たから誰も近寄らない。人が来るとは思えない――いや駄目だ諦めるな、まだ何かあるはずだ、何か、何か、何か、くそ、痛ぇ、ホントだせぇな、ったく、おっさんに見られたら、大笑いさせられそうだ、いってえ、
 ――おっさん。
 連絡だ。
 事務所に、連絡。せめてそれだけはしなくてはならない、さすがにこのザマでは帰れそうになかった。激痛のなかネロの血まみれの口元に苦笑が浮かぶ。いつもは連絡なんてしないのに、こんなときばっかり、
 ネロは、肘をついて起き上がろうとした。
 しかし失敗に終わる。血で滑ったのだ。ゴン、と額をしたたかに床に打ち付けたが不思議と痛みは感じない。感覚が麻痺してきたのだろうか。
 足は――動きそうにない。
 ネロは唸り声を上げながら上半身を上げた。腕を前に持ってきて身体を支え、二の腕に力を込めてほふく前進を開始する。全く使いものにならない足が心底憎らしいが、移動手段は何も足だけではないのだ。途中でまた心臓が激しく痛みを訴えて、思わず目玉をほじくり返そうかと思った。しばらくして痛みの波が引くの待ってからほふく前進を再開する、身体を引きずった跡が血の線になって少しずつ伸びていく。
 工場の外に出た。
 真夜中の街は薄気味悪いくらい静かで、半月が物も言わずネロを見下ろしている。
「はっ……」
 ――電話を。
 電話はどこだ、ここは廃虚の工場とはいえ普通に人が住む街の中にある。公衆電話の一つくらいあるはずだ。実際行きに近くで見た。あぁどこだっけ、思い出せ、はやく。
 目の前が霞んできた。意識して動いている気がしなかった。
 それでも、ネロはどうにかして公衆電話の前まで辿り着いた。ここまで来るのに一週間くらい掛かったような気もする。ネロはうつ伏せの状態から、すっかり真っ赤に染まった左手を持ち上げてコードを掴み引き下ろした。受話器が固い音を立てて目の前に落ちてくる。
 血が足りなくて目眩がした。
 ひゅー、とか細い息が断続的に続く。
 ネロは獣が吠えるような息を吐きながら渾身の力を振り絞って膝立ちの態勢になる。膝の骨ががくがくする。壁に寄りかかり、遥か高みにある1から0のボタンとコイン入れを親の仇の如く睨み付け、べたべたになったジーンズのコインポケットから五十セントを取り出した。血だらけだが大丈夫だろうかと一瞬だけ思いつつ震える手で金を入れる。
 ボタンを押そうとして、
「ぐぅっ…!」
 また引き裂かれるような痛みが全身を駆け巡り、ネロは受話器を落としてしまった。なんとか身体を倒れないようにはしたが、一気に体温が冷たくなったのが指先で感じ取れた。目を細めて小さな舌打ちをする。
 ぶっ殺してやる。
 何をぶっ殺したいのかわからなかったが、とにかくそう思った。
 這うように受話器を取り上げて耳に当てる、通信が接続されている音がする。右手を上げ、ボタンをゆっくりと押していく。押したボタンが次々血に染まる。
 プルルルルル
(早く……)
 プルルルルル
(早く出ろ…)
 プルルルルル
 ネロにとって永遠とも思えるような時間が過ぎ、そして、
 プルルル、ガチャ、
『――Devil May Cry』
 その声に、物凄く安堵した。



********



 陶器の割れる音がキッチンから盛大に響いた。髭は雑誌から顔を上げて、
「どうしたー?」
 キッチンから二代目の声が返ってくる。
「……コップを落とした」
「おいおい、俺のじゃないだろうな」
「いや、ネロのだ。新しいのを買わないとな」
 ソファーでポテチをむしゃむしゃ食っていた若が、
「そういえば、ネロいま依頼に行ってんだろ?もう帰ってくる時間じゃないのか」
 隣りのバージルが本から視線を外して壁掛け時計を見上げた。時刻は午前0時十分。ネロは午後七時頃に一人だけ早めに夕食を食べ終えていて、そのあとすぐに現地にすっ飛んだのだ。
 ――近場だからすぐ終わる、十一時には戻るから。
「長引いてるのかもな」
 向かいのソファーで初代が呟く。が、特に心配することでもないと皆は思う。このくらいの誤差ならかつて何度もあったのだ。むしろ髭の方がもっと酷いのが多い、三日後に帰ってくると言っておきながら一ヶ月もしてやっと戻って来たことが一度だけあって、皆に「遅ぇよ馬鹿アホこのクソ野郎」とどつき回されたことがあるのだ。それに比べたらこれくらい何てことはない。
「……何もないといいんだがな」
 意味深な台詞にダンテ達は振り返る。
 見事に粉々になった黒いカップを入れたビニール袋を持ったまま、二代目がソファーの後ろに立っていた。
「…あまり良い予感がしない」
「おいおい止めろよ、あんたが言うとシャレにならねぇよ」
 初代は手をヒラヒラ振ってそう言うが二代目の顔は曇ったままだ。カップが割れたのが虫の知らせとでも思ったのだろうか。よくある話だ、所有者の持ち物が何かの拍子で壊れたり使い物にならなくなったとき、その所有者の身に何かが起こっているのだと言うありきたりな逸話。
「ネロが向かったのってどの辺だっけ?」
 若が隣りのバージルに聞くと、バージルはページを捲りながら答える。
「ここから走れば30分くらいの所にある街だ。旧ヴォルティス工場だな」
「ふーん……」
「それがどうした」
「いや、手こずってるなら俺も行こうかなと思って。暇だし」
「さすがにもう終わっている頃だろう。行くだけ無駄だと思うぞ」
「ちぇー、やっぱ一緒に行けばよかった。先にネロが電話取っちまったし」
「今更過ぎたことをごちゃごちゃ抜かすな、気が散るから口を閉じろ」
 む、と若の眉間がしかめられ、バージルも目線だけで「何だ」と送ってくる。あーはいはい喧嘩は止めようなと初代が仲裁に入ろうとして、
 電話が鳴った。
 皆の顔がぐるりと事務机に向かう。
 こんな時間に掛かってくるということは、合言葉付きの依頼だろうか――そう一斉に思うが、一人だけ二代目が電話を見つめて「ネロ」と呟いたことには誰も気づかなかった。
 雑誌を畳んで髭が事務机に乗せた足をドンと叩き下ろす。反動で受話器が宙に上がり、見事な位置に落ちてきたところを掴み取った。
 耳に当てる。
「――Devil May Cry」
『……』
「?」
 返事がない。無言電話かとも思うが違う。今にも事切れそうな細い息遣いがかすかに受話器越しから聞こえていた。しばらくして、
『……お、っさ…』
「――ネロか?どうした」
 答えがない、どうも様子がおかしい。若達が何か言いたげにこちらを見ている。ネロが必死で言葉を紡ごうと何度も唾液を飲み込むのがわかった。
『…ちょっと、へま、こいた……悪魔、倒した、けど、なんか、変なの、吸って…呪い、みたい』
 髭は僅かに顔をしかめる。悪魔の呪いはタチが悪いのが多い、解呪の仕方が呪いを掛けた悪魔任せなのがほとんどだし、死に際の呪いはもっとタチが悪い。へたをしたら、
「今どこだ」
 間。
『工場……近くの、公衆電、話、』
「動けるか――って言っても無駄みたいだな」
 二秒の間。
『…ハハッ、ハ、だせえだろ……』
「そっち行くから、大人しくしてろよ坊や」
 間。今度は長かった。
『………、ぁぁ』
 受話器を戻す。髭は立ち上がって引き出しの上に置いていたエボ二ーとアイボリーをホルスターに差した。壁に掛けてあるリべリオンを一瞥したが結局取らず、確固たる意志を持って足音を響かせながら出入口の扉に向かう。急にきびきびと動き出した髭に皆はいぶかしみ、バージルが、
「ネロか」
 髭は背を向けたまま、
「あぁ。ちょっとお迎えに行ってくる。電話番頼むぞ」
 二代目が心配げな眼を向ける。
「…大丈夫なのか」
「分からん。ただ――」
 扉のノブに手を掛ける、
「あまり良い予感はしないな」



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