トニー・レッドグレイヴ作戦/前編




 事態は予想以上に酷い。一秒でも早くすみやかに事を処理しなくては安心して腰を下ろせないだろう。バタバタと二階から若が降りてきて、ダイニングテーブルを囲んで立っている皆の輪に合流した。
「確認してきた。やっぱり二匹だ」
「二匹か……やっぱ深刻だな」
 重々しくネロが呟く。テーブルには色褪せた事務所の見取り図が広がっており、そこに若が赤のマジックで視認地点を指し示す。その場所とは、
「おっさんと、あとバージルの部屋な」
 髭は苦笑するだけだったが、バージルは深い深い深ーい溜め息をついて眉間を寄せる。
 一階にも丸が三つほど付けられており、一つはトイレ、一つはバスルーム、そしてもう一つはキッチンにあった。しかしキッチンには×が引いており、すでにそこは「片付けられている」ことが一目で分かるようになっていた。
「残り四匹か……ったく、余計なもん連れてきやがって」
 初代のぐちぐちした呟きに二代目が首を振る、
「それについては今は過ぎたことだ。とにかく、これで全部なんだな?」
 無言で若が頷く。それを確認して二代目も頷き返すと、彼はバシッと見取り図を片手で叩いて皆を見回し、抑えた声音で述べた。
「もう一度作戦内容を言う。目標はトニー四匹の迅速な始末だ。各々の配置は先程伝えた通り、いざとなればフォーメーションBに切り替えろ。始末を終えたらそのときは合図をすること。そして、トニーに対する一切の魔具及び殺傷能力のある武器の使用を禁ずる。それ以外なら何でもいい、新聞紙でも古本でもスリッパでも使え。これは最重要事項だ、もし破れば……どうなるかはわかっているな」
 皆が緊張しながら頷く。
「――では、これよりトニー作戦を開始する。全員配置につけ」
「Yes,sir!」
 ノリノリで若が敬礼した。さすがに他の皆はやらなかったがバージル以外は内心でノリノリである。ネロもこんな雰囲気は嫌いではないしむしろわくわくするタイプだ、若みたいに恥を捨てて自分も敬礼出来たらどんなにいいかと思う。
 全員が自作の武器を手に取ってテーブルから離れ、丸の付いた地点に移動していく。ネロも丸めた新聞紙を持ってバスルームに向かった。
 さあ、作戦開始だ。



 とその前に、トニー作戦とは一体何なのかについて説明しなければならない。
 お答えしよう。トニー・レッドグレイヴ作戦、略称トニー作戦とは、早い話が「ゴキブリ殲滅作戦」である。
 何故か。
 それを話すには些か時間を遡らなくてはならない。



********



 時間は昼を過ぎた頃に遡る。
 自室に戻ろうと廊下を歩いていた若は、バージルの部屋の前辺りでチョロチョロ動く物体、トビイロゴキブリを見つけた。節足動物門・昆虫綱・ゴキブリ目ゴキブリ科、禍々しい褐色に親指くらいの長さのなかなか立派な奴ではある。そのときは「あ、ゴキブリだ」程度にしか思わず特に驚異は感じなかった。こんなスラム街に居を構えているのだ、害虫の一匹や二匹くらいでは別に今更驚かない。
 取りあえず何か叩くものを探さなくてはと思った瞬間、四つの出来事が同時に起こった。
 まず髭の部屋から「うお!?」と驚いた声が上がり、
 一階のバスルームから「ぎゃーーーーーーーーー!!」と叫び声が聞こえ、
 トイレの扉を開けてすぐさま閉めた音がし、
 そしてキッチンから何か固いものでバチコーンと勢いよく叩いた音が響いた。
 それらが終わると、一気に事務所内は不気味なほど静寂に包まれた。
 ――何だ、いまの。
 呆然とした若の前で部屋の扉が開いて、そこから怪訝な顔をしたバージルが出てきた。
「……おい、今のは」
「さあ…」
 そのとき、双子の目の前で突然髭の部屋の扉が開いた。何故かローリングしながら髭がほうほうの態という感じに転がり出てきて、振り向き様に足で扉を閉める。
「っだあー!あっぶねー」
 珍しく冷や汗を流している髭に驚いた。
「……どうしたのおっさん」
 若とバージルの変なものを見る眼に気づいた髭が「どうしたもこうしたも」と起き上がりながら、
「出たんだよ」
「出たって」
「ベッドで寝転がってたらな、ゴキブリサマがいきなり天井から降ってきて俺の顔に着地しようとして来たんだ。それで咄嗟に廊下に出た。いやーマジでびっくりしたぜ」
 ゴキブリ、と聞いて若はハッとした。そうだ、さっき廊下にいた奴はどうしたんだろう。足下を見るがすでに影も形もない。逃げたのか、だがこんな狭い一本道の廊下を人間にバレずに逃げられるはずがない。
 一体どこに――バージルに姿を見なかったか聞こうと顔を上げた瞬間、若は固まった。
「? …なんだ」
 こちらを見たまま何も言わない若にバージルは声を掛ける。が、若はそれどころではない。見てしまったのだ。バージルの肩越しから見た清潔そうな部屋の中、ホコリ一つない床の真ん中辺り。
 そこに、先程の「奴」がいたのだ。
 多分バージルが扉を開けたと同時に足下から侵入したのだろう。これはマズイ、もしもバージルが気づいたら彼のことだ、一気にボルテージが上がって閻魔刀と幻影剣のオンパレードで事務所が壊れるかもしれない。そこまでコンマ一秒で考えられた自分の頭を誉めたかったが今はそれどころじゃなかった。
「バ、バージル」
「なんだ」
「今すぐ外に出て、扉閉めろ」
「?」
 バージルは首を傾げる。如何に穏便に気づかれぬようにするかが問題だが、果たして若にそんな高度な話術があるはずもなかった。
「…何故だ」
「いいから、いいから早くこっち来い」
 上手い言葉が出てこなくて若は焦る。いよいよバージルは眉を寄せ始めて挙動不審な弟を見つめ、髭も「何やってんだ」とばかりに腰に手を当てている。
 お願いだから何も聞かずに扉を閉めて欲しい。
 そう願うが、神様は微笑まなかった。
 あろうことか部屋の中のゴキブリがカサカサと動いてこちらを向き、その見るも恐ろしき羽を目一杯広げたのだ。
 顔が青ざめた。
 害虫が音も立てずに離陸し、そして、廊下に出て自由を目指そうとこちらに向かって凄い速度で突撃してくる。
「バージル!!」
「な――」
 咄嗟に若はバージルの左手を掴んだ。急な行動に反応が遅れ、バージルはそのまま力任せに引き寄せられて廊下に出される。そして若は、向かってくるゴキブリが部屋と廊下の境界線を越えようとするまさにギリギリのところで扉を叩きつけるように閉めた。同時に中からバチ!と扉にぶつかる音がし、それを最後にバージルの部屋は沈黙する。
 そして、三人の間にも無言が落ちた。
 最初はわけがわからんと言った顔をしていたバージルが、時間が経つにつれてみるみるうちに事を理解した表情に変わっていく。
「……おい、貴様まさか、」
「お取り込み中悪いんだが」
 初代だった。
 皆の目が一斉に階段に向く。初代が一番上の段から顔だけ出して手招きしている。
「どうした?」
 髭の問いに初代は疲れた顔で、
「緊急招集」



 二階であったことを伝えるとネロ達の方も真相を明らかにした。あのとき一階にはネロと初代と二代目が居て、何があったのかと言うと各々似たような状況だったらしい。
 ネロは、バスルームの掃除をしていたとき急に足に何かが這ってきた感触がして、見下ろしたらゴキブリが足首にくっついていた。
 初代はトイレに入ろうと扉を開けて、便器の蓋の上にゴキブリが鎮座していたのですぐ閉めた。
 で、二代目はキッチンで昼メシの後片付けをしていて、ふとコンロの横を見たらカサカサ動くゴキブリを見つけたのでラップの芯で叩き潰したとか。勇者だと皆は思う。
「一匹二匹程度なら問題はないんだ。でもこんなに同時に出てくるのはおかしい」
 初代はダイニングテーブルに集まった皆の前でそう言った。
「普段奴らは夜のうちに行動するもんだ、だが今は昼間で活動時間じゃあない。日中出てくる場合と言えば大掃除とかで物を大量に動かすときくらいだが、今日はそんな日でもない。恐らく最初から事務所内にいる奴らではなく、外部から侵入した奴らだと見た――って二代目が言ってた」
「……そういえば二代目は?」
 若が訊く。ダイニングには皆が集まっているが、二代目だけが何故かいないのだ。
「二代目なら、『懲らしめてくる』ってさっき外行った」
 ネロが答える。恐ろしい邂逅を遂げたせいかその顔は真っ青だ。
「懲らしめるって……」
「ゴキブリ大量発生の原因を縛くってさ」
 曰く、若達が二階で一悶着してる間に、二代目は先程初代が述べた考えをいち早く思いつき外に向かったらしい。そこで、事務所のすぐ横にいかにも放りましたといった感じの不透明のゴミ袋を見つけて直ぐ様検討が付いたと言う。
 犯人は、すぐ近くのブロックで薄汚い中華料理店をやっているダグラス・チャン(49)。脂ギトギトの黒髪と黄ばんだエプロンを腰に巻いているのが特徴の小柄な男である。
 ゴミ袋の中にチンジャオロースの残りと伸びきったラーメンの残骸が入っていたからすぐ分かった。この辺りで中華料理をやってるのはあそこしかないからだ。個人経営で従業員もおらず一人で切り盛りしているのだが掃除が大嫌いで、店の中はいつもゴキブリが堪えずうろついているからこの辺じゃ専ら評判が悪い。いつの話か、汚いところは慣れてるホームレスがチャーハンを頼んだら、ご飯の中に白アリとゴキブリの足が入っていて泣きながら店を出たという逸話もある。
 しかも彼は驚くことにゴキブリを素手で掴んでゴミ袋にそのまま押し込めるのだ、だから、月一でしか出されないゴミ袋には蠢く物体が中から見えるから恐ろしく気持ち悪い。極めつけに彼は物凄く性格が悪くて、ゴミ袋を収集場所に置かずに店から離れたストリップバーや売春館の前にわざと捨てていくのである。当然クレームも絶えないのだがダグラスは左から右へ聞き流し続け、店の前にファックな貼り紙や報復の小便を垂らされても全く気にしないのだった。店があまりに汚いので殴り込みにも行けない。何故こんなになっても店を続けていられるのか、というか何故店をやっているのか、誰もが考えるのだが真相は明らかになることはないだろう。スラム街七不思議の一つでもある。
 そして、今回ゴミ捨て場の標的にされたのがデビルメイクライだった。
 ダンテ達もダグラスの評判は聞いていたので一度もその店の前を通ったことはない。
 ダグラス自身も、デビルメイクライがヤバげな仕事ばかり受け持つ所だと小耳に挟んではいた。しかしこの男、今までどんな酷いクレームを受けてきても全て受け流す異様な心の持ち主なので怖いもの知らずなのである。
 それにダグラスはデビルメイクライには些かムカついてもいたのだ。端正な顔立ちの奴らが異様に揃っているし、たまに美女もやって来るところを何度も目撃している。女に声を掛けられたことがないダグラスにとってはそんな輩が一番腹が立つのだった。しかしどう考えても彼が悪い。完全な逆恨みだ。
 そんなわけでダグラスは、デビルメイクライ前に店の残り物とたっぷりの害虫を入れたゴミ袋を、わざと袋の口を緩めて捨て置いたのだった。
 それが、人生最大の後悔になるとも知らずに。
「そうか、あいつが犯人か……可哀想に」
 話を聞いた髭が珍しく同情した。二代目が自ら向かったのだ、タダで済むとは思えない。初代も神妙に頷く、
「ありゃ相当怒ってるな、なんせサブマシンガンとミサイルランチャー持ってったし」
「終わったな、そいつ」
 そのとき、絶妙なタイミングで出入り口の木製の扉がゆっくりと開かれた。全員が振り返ると、話に聞いていた通りサブマシンガンとミサイルランチャーを抱えた二代目が無表情に立っていた。思ったよりも早い帰宅だ、それが逆に怖い。
「……ただいま」
 ネロが答える、
「お、お帰り……どうだった?」
「あぁ、店は閉店するそうだ。実家に帰って親の畑の手伝いをするらしい」
 若とバージルは無言で顔を背けた。一体何をしたんだろう、とてもじゃないが聞ける猛者はここにはいない。



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