ビデオの中からこんにちは/後編




 何かがおかしい。
 そう初めに気付いたのは、一体誰だったのだろうか。


 画面の中で主人公ジェシカは身体半分を地面に埋めていた。容赦ない力で引きずりこまれ、ジェシカは半狂乱になって地面に爪を立ててもがく。だが、急に足首を掴む手が離れた。何故かは分からない、だがそれをチャンスとして彼女は全力で這い上がる。後ろが振り返れない。ブーツが脱げて裸足になりながらも、ジェシカは疲れた身体に鞭打って再び走り出す。荒い息と草を踏む音だけがリビングに響いていく。

 そのとき、ネロはその一連のシーンを耳で聞くのみだった。もう顔を上げられそうにないし、今視界を開けたらこの世の者でない何かが見えそうで怖かった。何故ここまで恐れるのかネロ自身も分からない。ただ、どうしてか恐怖心ばかりが増長するばかりなのだ。時折ポンポンと二代目が背中を叩いてくれるのが唯一の救いだった。
 何かがいる。
 こっちを見ている。
 わけも分からずそう確信する。喉が乾くが動けない。暑さなんかとうに忘れた。
 早く終わってくれ――
 主人公がまた絶叫した。反射的にしがみつく力をこめる。その様子を、ソファーの下から顔だけを出した血塗れの女がじっと見つめている。

 そのとき、髭は自分の手首をがっしり掴んでいる青白い手をしげしげと見下ろしていた。それはなかなか離れる様子がなかった。取りあえず軽く引っ張ってみるが、細い手は予想に反してギリギリと力強く握ってくる。ふむ、と頷くと髭は実力行使に出た。蚊でも潰すかのように、もう片方の手でその青白い手を叩いたのだ。が、それよりも素早く手は引っ込んでしまい、結果髭は自分の手首をバチンと叩いてしまう。
「何してんだおっさん」
 刺されたのか?と若が訊いてくる。
「まぁな」
 適当に相槌を打って背後を振り返った。やはりいない。
(…へーぇ……)
 随分と高度な幻覚を使うものだ。しかも自分以外には見えないときた。
 面白え。
 顔を戻してテレビを見ると、映画は後半戦に差しかかっていた。天気は曇りで、主人公は森の中で一番標高が高い場所まで来て呆然としている。確かに坂道を下っていたのに、何故いつの間に頂上まで着いてしまったのかと表情をひきつらせていた。
 頂上は木々が一切なく丸ハゲ状態で、草一本生えていない。まるでそこだけが栄養失調で、あらゆる植物が育たない環境にあるかのような。
 そして主人公は、真ん中辺りの地面が大人の身長ほどある長さに掘り起こされていることに気づく。
 何かが這い出したような跡だった。埋まっていたおかげで色の違う土が点々と乾いた地面に道を作っており、それは主人公の足元で終わっていた。
 ここに居てはいけない。
 そう考えた瞬間、アップで映った主人公の頭頂部を青白い手が髪ごと鷲掴んだ。
 全く同時に、髭ダンテの頭頂部にも青白い手が伸びてきて銀髪を鷲掴む。
 主人公は目を剥いて悲鳴を上げ、髭は対象的に眉間に皺を寄せた。額に冷たい指先がめり込む感触が気に触る。こいつ、少しオイタが過ぎるぞ。
 お返しだ。
 髭は、一瞬だけ背後に凝縮した殺気を放った。電気でも受けたかのようにびくりと手が震えて頭から離れる。よし、いい子だ。
 が、今度はネロ以外の視線がぐるりとこちらに向けられた。
 ふいに出た殺気に敏感に気付いたのだろう、何か言いたげに髭を見つめている。しかし説明が面倒くさいので髭は無視した。テーブルの上のポテトチップスを三枚同時に掴んでモリモリと食べ始める。未だに誰も手を付けていないハッピーターンが物も言わずにトレイに鎮座している。

 そのとき、初代はあぐらを解いて片膝を立てる態勢に変えていた。床に置いたジンジャーエールを二口飲み、片手に多めに持っていた柿の種をポリポリ食べながらふと周りを見る。画面からの緑色の照り返しを受けて皆の顔はいつもより悪く見え、取り囲む闇はテレビの明かりと相反して一層暗く映った。
 暑いな、と初代は思う。
 茹だるような暑さとはまさにこのことだ。
 映画は確かに面白いが寒気がするほどのものではなかったし、ジンジャーエールも氷が溶けてぬるくなってしまった。冷凍庫に足しに行こうかとも考えるが何だか動くのが面倒くさい。首にはりつくインナーを摘まんでパタパタと仰ぐもあまり効果は得られそうになかった。
 だが、
「?」
 何故か、うなじがヒヤリとした。
 気のせいかと思ったが違う、生え際のすぐ下辺りに弾力を持った何かが触れている。まるで氷を直に当てられたようだった。考える間もなく冷たい何かがうなじから首筋にゆっくりと伸びていく。絡み付くようなそれが人間の指だと理解したとき初代は咄嗟に周りを見回した。
 視界には自分以外の皆の姿がはっきり見えている。
 では、この指は一体誰の物なのか。
 反射的に後ろを振り向こうとしたが、それよりも早く視界に映ったものに初代はとうとう身をこわばらせた。ネロと二代目と若が座っている三人掛けのソファーの背もたれの下から少しだけ出ている、白くて細い何か。
 中指だった。
 爪が剥がれていた。
 あのときのネロの挙動不審を理解した。
 中指がソファー下から床板を這って出てくると、追って他の指も姿を現す。やはりどれも爪がなく、剥がれた部分は肉が腐って血と共に固まっていた。黙ってそれを見守っていると、ソファー下から完全にその姿が出てくる。それは手首から先がなかった。断面部分の皮膚がひきつっていて、無理に千切られたようにも見えた。手は半ば浮いていて、五本の指だけが床を付いている。
 そして、指先で器用に方法転換すると、手が初代の方を向いた。
 中指が手招きするように来い来いと動く。
 ここに来ても初代は一切表情を崩さなかった。声を出せば誰かが気づくだろうが、それじゃあ行き着く先はネロと同じで相手にもされないだろう。
 首筋にうごめいていた手が顎下に回り、喉元から締めつけるように頭を固定する。白い手だということにようやく気づく。
 いきなり若がこちらを向いた。
「初代ー、柿ピー持ってきすぎだっつーの。ちょっともらうぞ」
 と言ってソファーから身を乗り出し、初代が片手に持っていた柿の種を数粒取ってからテレビに向き直ってポリポリ食べ始める。
 首に巻かれた手に気付いた様子は一切ない。
 幻覚か――初代は咄嗟にそう思った。
 だとしたらあの手も同じ類いか、では一体誰がこれを仕掛けているのだろうか。考えているうちに、手首から先がない手が動き出す。ゆっくりとゆっくりと、人差し指と中指で床を進みながら無言で初代に向かって行く。あの手が目の前まで来たとき自分は何をされてしまうのか、考えたくもない。

 そのとき、バージルはやっとつまみに手を伸ばして、頓に人気が無かったハッピーターンを一つ取った。キャンディ包みの透明な包装紙を剥ぎ取り一口食べる。一体何が嬉しくてハッピーターンと名付けたのか理解に苦しむが、せんべいは嫌いではないのでバージルは黙々と食べていく。
 画面の中では、森の頂上で主人公が女性の悪霊と対峙していた。悪霊の後ろにはかつての仲間達の死体が泥まみれにも関わらず立っている。ゾンビになったのだろう、目玉の中まで土が入っているのにも関わらず眼球全開で主人公を見ていた。クライマックスが近いらしい。
 やはりつまらん、とバージルは思う。
 結局ホラーはホラーなのだ、ただの人間が知恵を働かせていかに恐怖心を煽る映画を作っても、ホラー以上に壮絶な体験をしてきたバージルの心は波風も立たない。それとこれとは話が別らしい若は食い入るようにテレビを見つめている。呆れたものだ。が、ここまで見てしまったのだから最後のオチまで確認しなくては気が済まないのは皆同じ。どうせ部屋に戻ったところで眠れやしないのだから、暇潰しで時間を過ごしたほうがまだ有意義だ。
 しかしテレビばかり見つめていると眼が疲れる。
 暗い場所で見ているから余計に悪い。バージルは一旦両目を閉じた。眼球が乾いている気がする、瞼で視界を塞いで網膜を潤すよう促す。急な一休みに神経が驚いたのかじわりと眉間が痛んだ。主人公が『どうしてこんなことをするの』と涙ながらに叫んでいる。
 しばらくすると痛みも収まり、そろそろいいだろうと薄く両目を開けると、
「――。」
 バージルはしばし固まった。
 皆が見ているテレビの後ろから、抱きかかえるように女がしがみついていたのだ。
 ブラウン管のテレビの画面の上あたりに腕を、下のビデオデッキに足を絡めている。布切れみたいな白い服を着ていて、長い黒髪が床にまで垂れている。顔をテレビの頭にもたれさせて、血走った両目が髪の間からバージルを凝視していた。
 女の乾いた唇が開いて、
「…あたしの赤ちゃんどこよぉ」
 ひたすらバージルに向かって、
「あたしの赤ちゃんどこにやったのよおぉおおおおおおお!!」
 金切り声を上げて女は叫ぶ。窓ガラスもつんざくような大声だ。驚く前に何が何だかサッパリなバージルは無言になるしかない。何だこの女、いつからいたんだ。しかし周りの奴らは気にした様子はなく、端から女の存在に気づいていないようだった。変だと思った直後に女がまた奇声を上げる、あたしの赤ちゃんかえせと絶叫する。うるさい、お前の赤ん坊なんか知らん。
「あたしの赤ちゃんはああぁああ!!どこにいいいい!いったのよおぉおおおお!!」
 耐えきれず切り返そうとしたその瞬間、何か得体の知れない「気」のようなものが身体に入って来るのを感じた。反射的にバージルは意志の力でそれを跳ね返す。途端に女の叫び声がふっつりと止み、憑き物が落ちたかのように静かになる。
 やがて黒髪の頭がもぞもぞ動いて、
「……やっぱりお前も駄目だ…次の奴…次の奴……」
 呪いのように呟くと、女の身体はまるで煙のように消えてしまった。
 何なんだ一体――そう思った瞬間、今度は若の口から悲鳴が上がった。


 若の叫びは、まるで突然の出会い頭に驚いて声を上げてしまったという感じの小さな悲鳴だった。しかし神経過敏な状態のネロには恐怖心をさらに煽るものでしかない。びくっと大げさなくらい肩が跳ねた。
 なんだよ、若までどうしたんだよ、驚かせんなよ。
 顔は上げず耳を澄ませていると、
 ――どうした。
 二代目の声。次いで若が困惑したように、
 ――な、なんか今、手が。
 ――手?
 ――ポテチ取ろうとしたら、いきなり下からガシッて掴まれた。
 ――? どこから。
 ――床から。すり抜けてきた。俺ばっちり見た。
 ネロは青ざめた。呼吸も止まった。
 まさかまさかまさかまさか、
 ――おい。
 バージルの声と同時に、ふ、と空気が変わった。テレビからザリッとノイズ音がし、画面から聞こえていた主人公の声とBGMがぶつ切れになる。
 ――故障か?具合悪いな、いい所なのに。
 呑気な髭の声。
 そして、初代が目を見開いてこちらを見ているのにネロはついに気づかなかった。
 ――ネ、
 初代が何か言おうとし、同時に、二代目の首に回していた腕に冷たい手がガシッと掴んできてネロはびっくりした。
 初代の手かと最初は思った。
 その考えはすぐに取り消される。初代は手袋を絶対に外さないし、それはダンテ達にも当てはまることだった。素手なのはこの事務所で自分だけだ。
 では、今自分の腕を掴んでいるのは一体誰なのか。
 見るな!ともう一人の自分が絶叫している。だが意思とは裏腹にネロはゆっくりと、
 ゆっくりと、
 ネロはゆっくりと、
 顔を上げて、目の前のそれを見た。


「――やっぱり、お前が一番怖がってるね」



********



 そのとき、若は再度ポテチを取ろうとトレイに手を伸ばしていた。今度は大丈夫で、何事もなくそれを掴むことに成功する。
 さっきのは何だったんだろうか、気のせいにしてはリアルだったなーと軽く思いながらポテチを口に運ぼうとして、
「うわああっ!!」
 ネロの、恐怖に塗りつぶされた叫びが左から聞こえた。



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