サプライズ・エンカウント




 俺、見たんだ。

 昨日の夜な、急にトイレ行きたくなって一階に降りたら、ソファーに誰かが座ってたんだ。
 時計見てなかったけど多分3時くらいだったと思う。
 こんな遅いのにまだ起きてんだなって、誰だろうなーってよく見てみたんだ。
 ネロだった。
 微妙な角度で顔は見えなかったけど、あれは確かにネロ。
 テレビも明かりも付けないで、真っ暗な中ソファーにポツンと体育座りしてた。
 俺はちょっと脅かしてやろうと思って、三歩くらい近づいたんだ。
 そこまではいい。
 俺、見たんだ。
 ネロが、誰もいない向かいのソファーに、まるでそこに話し相手でも座ってるみたいにぶつぶつ話しかけてるのを。



********



「……へぇー」
 若の話を聞いて、ダンテ達とバージルは一様に変な顔をした。
「……それは、実は若が見てた夢でしたってオチか?」
 おっさんの言葉に若は猛反発し、テーブルをバンと叩いて立ち上がる。
「違えって!俺も最初はそうかと思ったけど絶対違う!」
「まぁ落ち着けって。根拠はあるのか?」
 と初代。取りあえず水を差し出すと、若は引ったくるように受け取って一気飲みする。ごくごくごく、
「ぷはっ。――ネロが何かぶつぶつ言ってるからどうしたんだろって思って話し掛けたんだ。でも何の反応もなくて、顔の前で手振ってみても見向きもしなかった。目ん玉一つ動かさなくて、でもやっぱり誰かに向かって喋ってた」
「なんて言ってたんだ?」
「わかんねぇ、どっかの外国語だったと思う。とにかく聞いたことがない言葉だったな」
 それは確かに独り言にしてはおかしい。バージルがコーヒーを啜ってから、
「寝ぼけてたんじゃないのか」
「うん、俺もそう思って諦めてトイレ行って部屋に戻った」
 どこに夢じゃない根拠があるのだろうかと皆は思ったが、若の話にはまだ続きがあった。ストンと席に着き、
「戻ったはいいんだけど、なんか眠れなくなってずっと起きてたんだ。あのときから今この時点まで俺寝てないし」
「……で?」
「五時くらいになって外が明るくなってきた頃に、誰かが階段を上がってくる音がしたんだ。――誰かそんとき起きてたか?」
 皆は首を振った。そんな早く起きるのはジジババくらいである。
「じゃあ、やっぱりあれはネロだったんだな」
 曰く、その足音は階段を上がると若の部屋の前で一旦止まったと言う。
 随分長い間そのままだった。
 ずっと起きてた若はそのうち痺れを切らし、用があるなら声ぐらい掛けろと思いベッドから立ち上がろうとした。
 その瞬間、

 ――だ、め、

 扉の向こうから、咳のし過ぎで掠れたような声がそう囁いた。
 ネロの声だったと思う。
 途端に気配は若の部屋から遠退き、足音が再開し一番右端の部屋まで歩いていくのが聞こえた。足音はそこで途絶え、代わりに扉を開けて閉める音がしたという。
 それから若は、今このときまで一睡もしていない。
 だから、あれは夢なんかじゃない。
 妙な沈黙が落ちた。
 どこかで物音がした。
「……そういえば、あいつまだ起きてこないよな」
 初代が思い出したように呟き、皆は一斉に階段を仰ぎ見る。
 今朝、ネロは朝食に顔を出さなかった。髭が部屋の前まで言って呼んでみたら、『眠いから先に食べてていい』と言うネロの声を確かに聞いている。
 それから、現在の昼時までネロは部屋から出てすらいない。
 いつも早起きするのに、珍しいなとは思っていたのだ。
 もし若が言っていた通り朝五時までネロが起きていたらしいのが本当なら眠いのも頷ける。
 そして、足音が消えた右端の部屋と言えば、ネロの自室だった。
 つまり。
「……それが事実なら、確かめてみる必要はあるな」
 今まで聞き専だった二代目がついに口を開いた。空になったカップを置くと椅子から立ち上がり、若達の注視する中吹き抜けになっている階段に向かう。髭が、
「今確かめんのか?」
「起きるのを待ってるわけにもいかないしな。それにこの時間まで寝てるのはさすがにいただけない」
 そう言って二代目の背中が二階に消える。するとおもむろに髭ダンテも立ち上がった。何をするのかと思えば、棚の上にあったエボニー&アイボリーを手に取った。弾が入ってもいないのにグリップからマガジンを取り出し、また装填すると背中のホルスターに差す。
 仕事だろうかと思ったが、ふと周りを見て若は目を丸くした。
 いつの間にかバージルが腕を組んだ中に閻魔刀を握っており、初代はエボニー&アイボリーをくるくる回していつでも戦える気配を纏っている。
「……なんでみんな臨戦態勢なんだ?」
 その言葉にバージルが鬼の目付きで、
「愚弟が。貴様は本当にデビルハンターか?」



 ネロの部屋の前まで来ると、二代目はノックをしようと拳を上げた。が、
「――。」
 何かに気づいてすぐ手を下げ、そのままなんの前触れもなく扉を開ける。
 ベッドの上で、ネロが身体を起こして眠そうに頭を掻いていた。
「……」
 しかし二代目の眼には、ネロのすぐ後ろに違う影を見た。ふわりと金髪がなびくのを一瞬視認する。
「……あ、れ?」
 こちらに気づいてネロが視線を向けた。それから申し訳なさそうに口調を下げる。
「ご、ごめん朝起きれなくて。何か眠くてさ、」
「お前は誰だ」




 二階の廊下から二人分の足音がした。それから階段を降りてくる気配がし、ダンテ達はすぐさま振り返る。
 誰が見ても明らかだった。
 降りてくるネロは追い詰められた犯人のような表情をしていた。顔だって青い。斜め後ろに二代目がついたまま一階まで行くと、ネロは立ち止まって恐る恐るという風に皆を見回す。らしくない態度に若もようやく事態に気づき始めていた。
 ――ネロじゃない。
 ネロの『中』に何かがいる。別の気配だ、嫌でもわかった。いつもいつも相手にしていたのだから。
 それは、まがうことなき悪魔の気配。
 最初に動いたのはバージルだった。
 バージルが話し合いなどというまどろっこしい事を悪魔相手にするはずがない。彼は音もなくネロの前まで一気に距離を詰めると、閻魔刀の切っ先を振り上げたのだ。
 ネロの顔に混ぜ物のない恐怖が浮かぶ。
「! 待てバージル!」
 二代目が止めようとする瞬間、繰り出される殺意に眼を閉じたネロの口から叫び声が上がった。

「――やだ!」

 それは、女の子の声音だった。

 思わずバージルは手を止め、まさかの出来事に二代目以外のダンテ達も目が点になる。概して、悪魔というのは少女に化けることもあるし声も似せられる。命乞いをするために嘘をつくこともある。が、今聞いた声は本当に恐怖を孕んだ叫びであり、もし悪魔だったら地の言葉遣いが現れるはずだ。「やだ」とかそんな少女の言葉遣いを、命の危機に瀕しているときにまで貫くだろうか。
 そして、さらに物凄いことが起こった。
 ネロが急に電撃でも受けたように硬直して仰け反り、その胸元から、白い手がいきなりにゅっと伸びて出てきたのだ。
 わーお、と髭が呟き、なんか出た!と場違いに若が発したのをよそにホラーな映像は続く。ネロの胸から血は出ていない、実体のないものが身体の中から抜け出てきたようだった。白い手は二本目が現れて、さらにその真ん中から金髪の頭頂部が姿を出し、上半身が抜けると長い髪があらわになった。支えるものがなくて前のめりに床に両手をつくと、残りの下半身もずるりと抜けてネロの身体からすべり落ちる。そのまま後ろにぶっ倒れそうになったネロを二代目が支え、事務所に居る人数が一人増えた。
 不思議の国のアリスのような格好をした、金髪の女の子だった。
 身体が半透明だ。影だってない。ぺたんと床に座ったまま大粒の涙を青い瞳からボロボロと流している。
「――霊体か?」
 初代の呟きはあながち間違ってはいない。だが、少女の纏うオーラは確かに悪魔のものだった。しかしどうもおかしい、バージルは二代目に視線を向け、
「どういうことだ」
 二代目は答えない。代わりに女の子が顔を上げた。
 喉が詰まっているのか何度もしゃくり上げて言葉を発しようと努力し、それがようやく実るとこう言ったのだ。
『たす、たすけ、』
 そこで少女は目を見開く。流していた涙も唐突に消え、まるで呼吸が止まったかのように硬直する。少女から悪魔の気配が急激に増し、そして、
 口が三日月型につりあがって、耳のほうまで裂けた。
『――キシシ』
 人間の声では決してない笑い声。空気が変わる。
 少女の背中から真っ黒い墨のような煙が勢いよく吹き出して、輪郭が朧気な人型の巨大なシルエットを作った。少女は口裂けの顔のまま、操り人形のごとくこちらを見ながらゆっくりと立ち上がり後退する、その後ろに背後霊のようにシルエットを浮かばせて、真っ黒なオーラを纏わせながら。
「……こりゃたまげたな」
 髭がポツリと言った。隣りの若は未だによくわかっていない。
「え、何だよ。何がたまげたんだ?」
「あの悪魔、嬢ちゃんの魂を媒体にして取り憑いてやがる」
 普通なら悪魔は肉体ごと食って人間の振りをしたりするのだが、こいつはそうではない。魂だけに取り憑いて実体化し人間を襲う珍しいタイプの悪魔らしい。
「じゃあ、人間の魂と悪魔がくっついてるのか?」
「まあ、そうなるな。しかもだいぶえげつない性格ときた。さっきの嬢ちゃんの言動からして、意識を完全には乗っ取っていない。そうしてもがき苦しむのを栄養にして楽しんでるんだろう」
 髭と若の話を聞いて初代の眉がしかめられた。
「……つまり、あいつ倒すには彼女の魂ごと斬らなきゃいけないってことか」
 このくらいの悪魔なら、ダンテ達には造作もない。一秒だって掛からず終わるだろう。
 しかしそれは、罪のない少女の魂も無に帰すことになる。彼らの持つ武器は魔の力を具現化したも同然で、あまりに強大過ぎる。悪魔を倒せても魂は天に昇ることも出来ず、そのまま消滅してしまうのだ。
 人間は殺さない主義だ。それは魂だって同じである。
 せめて、悪魔と少女の魂を分けられたら。
 そのとき、
「――閻魔刀だ」
 二代目だった。視線を向けると、意識を取り戻したネロと共に立ち上がるところだった。
「閻魔刀は人と魔を分かつ性質を持つ。なら魂と悪魔を切り離すことも出来るはずだ」
 皆の視線がバージルの閻魔刀に注がれる。
 それが可能なら、今すぐに実行するべきだ。だが内心ダンテ達はバージルが素直にやってくれるかどうか計りかねていた。一度は悪魔としての道を歩いた男である、人間の魂に配慮することを彼がしてくれるかどうか。もしかしたら少女のことなぞ何とも思っていないのかもしれない。バージルは無表情だった。もしそう考えているなら、そのときは全力で止めてやる――彼らが決意したその瞬間、
「バージル」
 ネロが呼んだ。
 バージルは無言で目を向けた。いつものネロだ、少女が身体から離れて魂の色も戻っている。
「……もしあんたがあの子の魂ごと斬るつもりなら、俺の持ってる閻魔刀でやるから。そのときは、邪魔しないでくれ」
 彼も危惧することは同じだったようだ。青い魔人がネロの背後に現れる。右腕から閻魔刀が出現して牽制するように一振り、
「あの子泣いてるんだ、助けてやりたい」
 そのとき、悪魔の吠えるような声が事務所全体に響き渡った。近くのソファーが飛んで壁に激突し、ドラムセットがひっくり返る。悪魔は左手らしき黒いシルエットの爪先を鋭利に伸ばして攻撃に入ろうとしていた。
 その下で、口が裂けたままの少女は焦点の合わない目から血の涙を流している。
 手にとるようにわかる、あの子の魂が嫌だともがいているのだ。今まで人間が殺されそうになる度にそうして必死に抵抗したのだろう、しかし悪魔はそれを嘲笑い、ただ少女は見ていることしか出来ず何人もの死体を踏み越えていったのかもしれない。
「バージル」
 念を押すようにもう一度ネロが言う。
 そのときにはもう、決意は決まっていた。
 バージルが閻魔刀を構える。
「……魂だろうがなんだろうが関係ない」
 その言葉に若の目に力が籠る。
「俺は、悪魔がいるなら斬るだけだ」
「――バージル!」
 若の制止の呼びかけを無視してバージルは走った。速い、神速の勢いとはまさにこのことだと思わせるほどだ。悪魔が左手を振りかぶってバージルを狙うが、あまりに速すぎて彼が通りすぎた後の床を突き破ってしまう。
 あっという間に少女の横まで距離を縮めた。
 一秒と経っていない。
 止める隙もなかった。鞘に収まった閻魔刀が勢いよく引かれ、少女目掛けて斜めに斬り放たれる。
 その軌跡の先。
 それを見て、ネロも若もダンテ達も、バージルへの疑いを一気に払拭した。
 悪魔が絶叫する。
 少女の背中から伸びていた悪魔の根本を閻魔刀に切断されたのだ。
 取り憑いていた魂からずるりと抜けて悪魔は宙に野放しになり、少女の顔が元に戻って解放された。切り離れた悪魔から力の気配が失せて、もたもたと外に逃げようと窓に向かう。
「そーこなくっちゃなお兄ちゃん!」
 髭が飛んだ。悪魔の真横に。ルシフェルを装備して。羽の骨格部分から真っ赤な氷柱状の剣を取り出して何本も投げつけた。悪魔の腕や腹辺りに深々と刺さり、勢いで壁に縫い付けられて苦悶の声が大きく上がった。
 動かないマトなど、見なくても撃ち抜ける。
 初代と若とネロの、合計五つの銃口が一斉に悪魔に向けられた。



********



「なあ、もういいからさ。そんなにぺこぺこしなくていいから。俺達は悪魔を倒しただけなんだから」
 ネロの言葉にしかし少女は気がすまないらしい。何度も何度もダンテ達に頭を下げて、Merci(有難う)とPardon(ごめんなさい)を繰り返している。どうやらフランス人のようだ、そういえば先程の「助けて」の発音もどこか独特だった。若が、
「あ、ネロがぶつぶつ言ってた言葉に似てる」
「お前はフランス語も分からないのか。愚弟が」
「だって知らねーもんは知らねーもん」
「あぁそうだな、貴様は教養が足らんから少し難しすぎたか」
「なんか言ったかお兄様」
「あぁ言ったぞ弟よ」
 喧嘩五秒前の双子は置いておくとして、こんなに頭を下げられたことはないネロはあたふたしながら「顔を上げろ」と繰り返している。果たして言葉が通じているかどうかは分からない。
 だが、やっと少女は小さな頭をこちらに向けた。そして目を線にして笑う。大きくなればさぞ美人に育っただろう、そのあどけなさにネロは何だか胸が詰まった。
 この子は、どうして亡くなってしまったのだろうか。
「……ほら、早くいきな」
 手で促す仕草をすると少女は後ろを向いて小走りし、昼明るいデビルメイクライの出入口に向かう。
 その途中で一度だけこちらを振り返り、
『――Merci, au revoir!』
 そして、少女の姿は空気に溶けるように消えたのだった。
 空に旅立ったのだろうか。そうであるといいのだが。
「……なんて言ったんだろな」
 隣りの初代が誰にともなく訊く。返事が返ってくるのを期待していない呟きだった。が、
「『有難う、さようなら』っつったんだ」
 ネロと初代は髭を振り返る。意外な所から答えが返ってきて驚いた。髭は腕を組んで何でもなさそうに、
「この家業続けてるとな、色んな依頼人が来るもんだ」
「……すっげえ意外」
「うん、俺も」
 っだとテメーじゃあドイツ語は判るのかよドイツ語は!と後ろで若が猛然とバージルに食ってかかっている。そこに二代目が「うるさいから止めろ」と容赦のない手刀を若の後頭部にお見舞いして騒ぎを沈静化させ、バージルは「コーヒーを淹れてくる」とさっさとキッチンに引っ込んだ。それを見てネロは、
「…良かったな」
「あ?」
「バージル。やっぱり変わってきてると思う。あの時あの子の魂を斬らなかった。それって凄い変化じゃね?」
 髭と初代はパチパチと瞬きし、ほぼ同時にキッチンのバージルを見て、ほぼ同時にネロを見下ろし、そして顔を見合わせてほぼ同時に嬉しそうに笑った。
 そのとき、脳震盪を起こしていた若がぐらぐらする頭を抱えながらふらふらと立ち上がり、
「……オーケー、謎解きしようぜ」
 何だとばかりに皆の視線が若に集まる。
「俺だけなんか全然話が見えないんだよ。なんかみんな最初から知ってましたって感じだったし。取りあえずネロ、始めから全部話せ。なんでこんな事になったんだ?」
 それは確かに訊きたいところである。皆の目が若からネロに移り、当事者のネロは記憶を手繰り寄せようと視線を右上に向ける。
「……昨日の夜中に目が醒めて、水が飲みたくてなって一階に降りたらあの子がいたんだよ」
 最初は女の子に化けた悪魔かと思った。気配も悪魔そのものだったからだ。だが少女の魂と悪魔が混在しているのに気づき、彼女が悪魔に乗っ取られていることを知ったネロはどうすべきかと考える。そのときこちらに気づいた少女が泣きながら走ってきて、狼狽したネロはそのまま少女の霊体を受け止めてしまい、
「そこで意識がぶっ飛んだ。多分助けを求めてあぁしたんだと思うけど、あの子もまさか取り憑けるとは思わなかったんじゃねぇかな」
 それからネロの意識は浮上したり沈んだりし、間に奇妙な光景が度々フラッシュバックしたと言う。誰かの視点から見ている記憶で、人間の死体が転がっているのがほとんどだった。多分少女の見てきた光景だと思う。行く先々で自分に憑いた悪魔が人を殺していき、風景の移り変わりからして土地から土地をさ迷い歩いてきたようだった。
 少女はたまに『自分の意識』を取り戻して悪魔を抑えようとしていたようで、だが全て失敗に終わっていた。
 何度目かの意識の浮上のとき、少女は誰かに助けを求めようとしていたらしい。
 そのとき、ネロは少女の視点からデビルメイクライを外から眺めていた。
 ――ここに来れば、なんとかしてくれる。
 そんな思いが流れ込んできた。
 デビルメイクライという便利屋が、悪魔退治もしているという話を少女はさ迷い行く中聞いていたらしい。証拠に事務所の中に足を踏み入れようとしたら、悪魔が物凄く暴れて抵抗した。
 頑張って抑えこんで、泣いても抵抗して、でももう限界だと思った瞬間に、ネロは「自分自身がこちらを見ている光景」を少女の視点から見たのだ。
「……それが、ネロが女の子と会ったときのその子の記憶ってわけか」
「多分」
 いつの間にか皆はテーブルに座ってネロの話を聞いていた。バージルが淹れたコーヒーが六人分置いてある。
 ネロはさらに記憶を手繰り寄せ、
「……俺の中に入ってきたら、悪魔の抵抗がいきなり止まったんだ。朧気だったけど覚えてる。多分……」
 区切ってからネロは自分の右腕を見下ろし、
「…こいつが抑えてくれてたんだと思う」
 ネロは朧気な意識の中で、少女が、朝が来るまでネロの身体を借りようと決意したのを感じていた。
 朝が来ればこの建物にいる誰かが来てくれるはずだ、事情を話せばきっと何とかしてくれる。
 そう思いずっとソファーで動かずにいると、誰かが二階から降りてきたのが聞こえた。
 それが若だった。
 少女は慌てた、どう話を切り出そうかまだ決めてなかったから。ちゃんとワケを話さなくてはいけない、そうしないと信じてもらえないかもしれないと思ったから。少女は無視を決め込んだ、その人が手を振ってきたり話し掛けても一切無視した。ただ、どうしようどうしようと言う独り言だけはダダ漏れてしまっていて、若が聞いた「ぶつぶつ何か喋ってた」の正体はそれである。
 やがて、ネロの身体は睡眠を欲しがってきた。
 魂が違えど三大欲求は必ず現れるもので、肉体の主導権を握っている少女はまたもや慌てた。さすがに眠るのは駄目だ、眠ったら起きたときどうやっているか分からない。せめて朝が来るまで待ってほしい、朝が来るまで。
 無理だった。
 腹をくくって、少女はネロの身体を二階まで登らせて部屋に向かった。気配のない部屋左端にしかなかったから、多分あそこがこの身体の持ち主の部屋なんだと思いながら。
 そして、若の部屋の前まで歩いてきたとき、唐突に悪魔が暴れ始めたのだ。
 早く出せ、ここから出ろと。
 全力で抵抗した。
 ネロの右腕の魔人が再び抑えつけ、そのときは事なきを得た。少女はホッとしてネロの部屋に入り、ベッドに潜り込むと同時に死んだように眠りについた。
 朝になって誰かがノックをしてきたのには気づいたが、あまりに眠くて何と答えたか覚えていない。
 昼まで寝てしまうとは思わなかったらしい。
 少女もといネロの身体は飛び起き、太陽が高く上がっていることにショックを受け、どうしようとパニックになっていたらいきなり扉を開けて二代目が入ってさらに驚き、咄嗟に嘘を繕おうとしたらあっさり正体がバレた。
 で、あのときに至る。らしい。
 若は納得がいかない、顎をテーブルに載せてぶーたれる。
「――なんだよ、そんなに覚えてんならずっと意識があったんじゃないか」
「ちげぇよ。今のはあくまであの子が俺になってたときの記憶なんだよ。俺は本当にぼんやり程度くらいにしか意識がなかった」
「……じゃあなに、俺が見たネロは、全部あのガキだったってことか」
 髭がポンと若な肩を叩く、
「良かったな、謎が解けたじゃねえか」
「いーや!まだ一つ残ってる!あんたらいつから気づいてたんだよネロが取り憑かれてるって!」
 若の話を聞き終わったときには、全員が状況を理解したといった感じだった。そこが未だによく分からない、何であれだけで認知したのか。
「……最初から知っていたからだ」
 二代目が静かに言った。初代が、
「俺も」
 髭が、
「同じく」
 バージルが、
「むしろ何故気づかなかった」
 若は口をあんぐり開け、
「――最初からって」
 二代目は空になったカップを置く。
「つまり、あの少女が事務所に入ってきた瞬間から気がついていたんだ。悪魔が入ってきたら自然と眼も醒める。そのときは、まだどういった悪魔かは知らなかったが」
 髭がさらに角砂糖をカップに落としながら、
「ネロに悪魔が憑いた感覚もハッキリ感じ取れてた。いつ襲ってくるかと思ったが、結局部屋に戻って寝たもんだからあのときは拍子抜けしたな」
 若はじわじわと予感めいたものが這い上がってくるのを感じた。まさか、
「じゃ、じゃあ俺の話聞いてたときは!?もうあのときにはみんな知ってたのか!」
「知ってた」
 容赦のない初代の一言。
「むしろ、若は一体なにをのたまってんだって感じだった。まさか気づいてないとは思わなくてな、面白そうだからしばらく泳がせて話させたら本当に何も気づいてないし。いやー笑いを堪えるのが大変だったわ」
 トドメにバージルが、
「あれは傑作だったな。一人コント状態とはよく言ったものだ」
 ネロは若をちらりと見た。ぶるぶる震えてボルテージが上がっているのが傍目にもわかる。たしかにこれは恥ずかしい、自分だったら今すぐ首を吊る。若の脳内羞恥メーターの針がマックスを振り切ったそのとき、ドバンとテーブルを叩いて物凄い勢いで立ち上がった。
 叫ぶ。

「は、早く教えろよてめぇらあああ!!!」

 何で若だけ気づかなかったのか、それは永遠の謎だったりする。
 起き抜けで眠かったからじゃないのか、と皆はこっそり思っていたりする。



********



 余談だが、それからデビルメイクライには不思議な事が一つだけ起こった。
 事務所の入口に、なぜか三ヶ月前の新聞が放られていたのである。
 彼らは新聞を取ってはいない。だから、誰かが悪戯で置いたのかもしれない。
 その一面の見出し記事の内容には、こう載っていた。
『フランスで起こった一家惨殺事件』
 人間業とは思えない方法で一家が殺害されていたらしく、犯人は未だに見つかっていないと言う。
 その一家の写真の中に、マリーと言う名の、あの少女が写っていた。


 彼女が今どうしているかは誰にもわからない。
 ただ、少女が家族の元に帰って天国で幸せにしていたらいい、そう皆は思っている。



090528






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