消臭スプレーの敵





 臭かった。

「――、」
 何ぞ、とネロは思う。
 朝一番乗りに起きて一階に降りた瞬間だった。臭い、納豆のほうがマシなのではないかと思うくらい強烈な臭いが微かにする。意識しなくてもそれは鼻に刺激を与えた。物凄く簡単に例えると、ドブ川に生魚とクソとくさやを投入したような恐ろしい臭いだ。
 一階の事務机がある部屋の真ん中でぐるりと見回して臭いの集中している方向を嗅ぐと、西側にあるトイレから臭いが漏れているのが分かった。
 扉は固く閉ざされて沈黙している。
「………」
 昨日の夜までは普通だった。それは覚えている。つまり夜から今朝辺りに掛けて何かがあったと考えるのが妥当である。最後にトイレを使ったのは誰だろうか、自分は早々に眠りについたので判らない。
 これは開けるべきなんだろうかと考えていると、二階からバージルが降りてきた。いつもの格好から青いコートを脱いだ姿をしている。気だるげに髪を掻き上げてネロと眼が合った途端、
「…何だこの異臭は」
 眉間の皺が三割増しだ。
「バージル、早いな」
「あぁ。…この臭いは貴様か?」
「いや、俺が来たときにはこうなってた。トイレからすんだけど…最後に使った奴わかるか?」
「俺はお前の後に部屋に戻ったからわからんが…そのとき一階に居たのは愚弟と初代とヒゲだ」
 一番上のダンテは仕事でいない。事務所には今は上記の三人とバージルとネロのみで、この時点で容疑者は三人に搾られた。不思議なことに三人のうちの誰かが犯人であっても全く違和感が無いのは日頃の行いのせいに違いない。ふむ、とバージルはトイレに視線を移し、
「…少し待て」
 と言ってくるりと踵を返してバージルは階段を逆戻りしていった。銀髪が二階に消えるのをネロが見守ってから数十秒後、二階の奥の部屋から若の悲鳴が聞こえた。ドスンゴガンと鈍い音がしばらく続き、その音に何事かと別の部屋の扉が開く音が二回。恐らく初代とおっさんである。しばらくしてから「何すんだよ!」と怒鳴る若と共にバージルが二階から降りてきて、その後ろを眠そうな初代とおっさんが続く。
 三人のダンテはネロを視界に認めて挨拶をしようとし、ほぼ同時に口をつぐんで「おいおい何だこのクレイジーな臭いは」という感じに表情を変えた。ネロはおや?と思う。
「心辺りねぇのかよ?」
 初代が答える、
「俺はバージルの後に寝たからわかんねぇぞ。そのときまで何もなかったし今の今まで夢ん中だったし」
 一人除外。ネロは若と髭ダンテを裁判官の目付きで睨む。異議ありとばかりに若が、
「俺だって初代が上行って一時間くらいしたら部屋に戻ったぞ!残ってたのおっさんだけだった!」
「それ何時頃の話だよ」
 髭ダンテが記憶を探るように眼を左上に向ける。
「…夜中の二時頃だな」
「で、最後まで一階にいたのはおっさんだった、と」
「おいおい待てよ坊や。確かに俺が最後だったけどよ、こんな異臭出した覚えはねぇぞ?」
「ちゃんと流してなかったんじゃねえか?」
「流すって」
「だから、トイレ」
「――トイレからしてるのか、この臭い」
 ネロとバージルは顔を見合わせる。嘘を言っている口振りには見えなかった、ダンテ達だったら隠さず開き直って白状するタチだろうと思うからだ。
 だとしたら、コレは一体誰の仕業なのか。
 自然と皆の視線はトイレの扉に集中する。
 依然として扉は沈黙を守り続けている。
「………」
「………」
「………開けるか」
 ネロが呟き、扉に近づいてドアノブに手を掛けた。何故か緊張が走る。ネロはノブをゆっくりと回してそっと扉を一センチほど開けて、
 閉めた。
「?」
 遠巻きに眺めていた髭が、
「なんだ、どうし、」
 そこで口をつぐみ、鼻孔を貫くような臭いが漂ってきて思わず鼻を抑えた。さっきまでとは比べ物にならないほどの異臭が時間差でやってきたのだ。同じく遠巻きにいた初代と若とバージルも気付き、ぎょっとしながら鼻を抑える。
「クッサッ!!」
「クセェ!」
「…臭い…」
 が、最も近場にいたネロのほうが酷かった。密閉空間から勢いよく吹き出てきた臭いが直撃したせいで物も言わず膝をつきドアノブにすがり付いている。若が後退りしつつも声を掛ける。
「ネロ!無事か!?まだ生きてるか!?」
 ネロは、背を向けたままのろのろと左手を上げて弱々しく中指を立てた。
 考えてみれば予測出来る事態だったのだ。トイレが閉まっていた時点で額に皺が寄るほどの臭いがしていたのに、開けたら一体どうなるかは必至である。
「――どうする?」
 初代が誰にともなく訊き、バージルが答える。
「消臭だ。髭、何かあるだろう」
 何故おっさんに問うかと言うと、この事務所は元々おっさんダンテの住まいだからである。が、
「…いや、俺もどこに消臭剤があるかわからん」
「何故だ」
「ネロに任せてるから」
 一斉にネロを見る。彼は未だに立ち上がれずにいた。だが話は聞いていたのか、視線を受けると鼻をつまみながら振り返り答える。
「…リセッシュがダイニングテーブルにある。それだけしかない」
「…ちと火力が足りないな」
 今度からファブリーズも常備するべきだろう。
 バージルはテーブルからリセッシュを取ってきて、部屋全体にまんべんなく吹き掛けた。良い匂いが漂う。だがそれも一瞬のことで、すぐ異臭にかき消されてしまった。むぅとバージルは唸る。
「駄目だ、効果がない」
「うへえ…」
 皆は口呼吸で我慢してるが、流石にずっと鼻をつまんでいるわけにはいかなかった。朝っぱらからなんでこんな目にと誰もが思わずにいられない。本格的に解決策が無くなって立ち尽くしていると、おもむろにネロが立ち上がった。
 決意を瞳に宿していた。
「――元を断つしかねぇ」
 そう宣言するとネロはずんずん風呂場へと歩いていく。しばらくしてからゴム手袋と洗濯バサミを持って戻り、さらにキッチンの奥へと引っ込んでゴソゴソと何かを探る。何も言わず見守っていると、一分くらいしてからネロが姿を現した。
 変質者だった。
「…ぶっ」
 若が吹き出した瞬間ネロのブルーローズが火を吹く。初代と髭が肩を震わせ、バージルはついに無表情を貫き通した。無理もない、洗濯バサミを鼻につけてマスクをし、サングラスを掛けてゴム手袋をしている姿は誰がどう見ても変質者だった。
「…坊や、そこまでするか?」
「遠くにいたあんたらには判らねぇだろうがな、あれは殺人兵器だ。しかも眼に染みるんだぞ」
 鼻声にプラスしてマスクのモゴモゴ感にネロの声音が変わっている。
「俺が行くだけ有り難く思え」
 確かに生け贄にはなりたくなかったので、ネロの男前っぷりには素直に感心した。トイレの中に何があるか判らないので取りあえずネロは青バケツとジップロックを扉の脇に置く。再度ドアノブに手を掛け、合図の前に一度ダンテ達を振り返る。
「いちにのさんで開くから鼻つまんでろよ、あと呼吸もするな」
 もちろんとばかりに彼らはそうした。
 準備完了。
 ネロに迷いはなかった。もうこの際なんでもいいからトイレの中の異臭の元を早く捨ててしまうに限る。糞でもゲロでもホームレスでもいいから来やがれ。
「いくぞ……いち、にの、さん!!」
 ノブを回し、扉が勢いよく開いた。

「――ただいま」

 その瞬間、部屋の隅を飛んでいた小虫がばったりと床に落ちた。
 その瞬間、ドブ川にクソと生魚とくさやを投入したような臭いが電光石火の如く事務所を駆け巡った。
 その瞬間、若とバージルが勢いよく背を向けて事務所の窓という窓をぶち開け換気を促し、外にいた野良犬が出てきた臭いに卒倒した。初代は一目散に出口目掛けて走り出したが途中で意識を失って志し半ばで倒れ伏す。
 その瞬間、ネロは臭いの元を確認する前に初代と同じく倒れ込んでいた。洗濯バサミで鼻孔を塞いでも隙間があったらしく、入り込んだ殺人臭は容赦なく嗅覚を責め立て脳が危険信号を出し、「気絶せよ」と命令を出したのだ。最後に髭が呼吸を止めたままネロの首根っこを掴んで被爆地点から遠ざけ、足で扉をバァンと閉めた。反動で部屋が揺れて蝶番が悲鳴を上げる。
 沈黙が落ちた。
 沈黙が落ちた中で、髭が扉に目を向ける。
 物凄く迷ってから、聞いた。
「――風呂は」
 トイレの中にいる年長者ダンテが答える。
「五回入った」



********



 シュールストレミング。
 スウェーデンの名物のニシンの塩漬け。加熱処理をしないまま缶詰に詰めて発酵させる。そのあまりの臭いに「世界で一番臭い食べ物」とされており、そのレベルはくさやの六倍、納豆のおよそ三十倍である。主に南部の国民が食すらしい。味は独特で塩気がかなり効いているので、スライスしたフランスパンと玉ねぎの上に乗せたりポテトの付け合わせとして食べるのが一般的とされている。
 密閉した中で発酵しているので内気圧が上がっており、開けると中身の液体が飛び出してくるので注意すべし。
「――らしい」
 バージルが『世界の凄い食べ物全集その2』と書かれた本から顔を上げた。
 酷い光景だった。
 向かいのソファーではネロと初代が死人よろしくグッタリとしている。もう鼻をつまむ余裕もない。若はバージルの隣りで青い顔をし、髭は洗濯バサミを鼻につけ薄い望みを賭けてリセッシュを吹き掛けている。二時間が経過していた。今はだいぶ臭いは収まっているが、それでもまだごみ捨て場に身投げしたほうがマシだというレベルである。
「……つまりまとめるとどうなんだよ…」
 ネロが息も絶え絶えに訊く。髭がシュッシュッと、
「つまり、旦那が悪魔退治の仕事の報酬のおまけとしてシュールストレミングをもらい受けた。その帰り道にまた別の悪魔の襲撃に会い、倒してるうちに荷物の中のシュールストレミングが落ちた。そして悪魔がそれを斬ってしまい中身が旦那にジャストヒット。悪魔は倒したがいいものの臭いは取れず、ここに帰ってきて風呂で五回身体を洗ってもやはり取れず、部屋をうろうろすると臭いが移ると思い、比較的面積が少ないトイレで被害を最小限に抑えようと身を潜めた。なんでそんな事が出来るかって言うと、ずっと臭いに晒されていたので嗅覚が麻痺してるから。で、どうしようかとうんうん悩んでたらいつの間にか眠りこけてネロが扉を開けた音で目が覚めて、今に至る――ってことだろ?」
 バスルームの中から二代目が「そうだ」と答える。トイレから移動して六回目に突入しているのだ。
 ちなみに、とバージルがまた本に視線を落とし、
「シュールストレミングは屋外で開けるべき、部屋で開けると一ヶ月は臭いが取れないと書かれている。――災難だな、二代目」
 臭いでそれなのに、直接液体を掛けられた二代目がノーマルスメルになる日はいつ来るのだろうか。その間自分達はどうすればいいのか。考えただけで溜め息が漏れる。
「しばらく窓は閉めらんねぇな」
 髭が言い、
「二代目の監禁場所、考えないと…」
 ネロが端から聞けば恐ろしいことを呟く。
 ふと若が何かに気付いたように顔を上げた。
「二代目ー」
『なんだ』
「シュールストレミング?だっけ。それぶっかけられたとき悪魔は平気だったのか?臭い」
『いや、あまりに酷くて一目散に逃げたな』
 悪魔も逃げ出す食べ物。新しいキャッチコピーだ。
「虫除けならぬ悪魔除けか…」
 初代が言い、ネロが「これで逃げなかったらちょっと悪魔尊敬する」と口にしてからむくりと起き上がった。
「おい、まだ寝てていいぞ」
「いい。――腹減ったから何か食べる」
 そこで皆はやっと朝メシを食べていないことに気付いた。誰かの腹の虫が鳴る。
「何にする?」
 訊くと、
「ピザ」
「ピザ」
「ピザ」
 初代と若と髭が揃って言った。デリバリー路線まっしぐらである。バージルも異論は無いらしく、ネロも作るのが面倒くさく思ってたので賛成した。と、バスルームの扉が開いて中から二代目が顔を覗かせる。
「…一つ言い忘れていたんだが」
 何だと皆が視線を向けると、二代目は右手を見せた。何かもっている、ツナ缶を一回り大きくしたかたちの缶詰めだった。赤いラベルが見える。
 こう書かれていた。

『Sur stremming』

「………、」
「三つもらったんだ。一つは依頼主のところで食べた」
 皆は凍りついたまま動かない。二代目は面白がった笑みを浮かべて、自分が一番の被害を被っているのにも関わらずこう言った。
「ピザに載せて食べると美味いぞ」
 バージルが無言で本を開き、「お勧めの食べ方」の欄に視線を落とす。
 フランスパン、玉ねぎ、ポテトと並んで、そこにはピザと書かれていた。


 二代目、あんたはやっぱり大物だ。



090420
「トイレは裏にあるぜ」という設定を完全に無視したんだぜ。









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