Devil, human, and brother.5




 真夜中に目が覚めた。
 窓の外でしきりに降っている大雨と、ガラスに付いた水滴の影がベッドの掛け布団に映っている。バージルはのそりと上半身を起きあがらせ、額に張り付いていたタオルが重力に従って手元に落ちたのをボンヤリと見つめた。頭の芯が朦朧とし、未だに身体は熱い。
 熱が下がっていないことは、体温を計らずとも火を見るより明らかだった。
 おのれ、とバージルは思う。無様にもほどがある。たかが熱を出しただけでこの体たらくとは、テメンニグルでの死闘はそこまで体力を削っていたのだろうか。しかしおかしいと思わずにいられない。熱が出たのは百億歩譲って仕方ないとして、半魔の回復力でもまだ全快しないとはどういうことなのか。
 それとも、中途半端な半魔だから駄目なのだろうか。
 声がした。
『――何をしている』
 バージルは顔を横に向ける。
 部屋の扉の前に誰かが立っていた。夜の闇が上半身を衣のように隠していて足元しかロクに見えない。見覚えのあるブーツとコートの裾、薄暗い中に距離を置いて立っているその姿はまるで霧で出来た幽霊のようだった。じっとバージルを見つめているのが嫌でも分かる。
 あれは、
『さっさとこんな所出ていけばいいだろう。熱があろうが雨が降ろうが"俺"には関係ないはずだ、何を建前めいた理由でここに居る』
 そう言って「悪魔としてのバージル」はバージルを非難する。
 思わず舌打ちした。
「失せろ」
『失せろ? 何を言っている? 失せることなど出来ん、お前は俺だからな』
 まさに我ながらタチが悪い。バージルは手が白くなるほどタオルを握りしめた。
「出ていけるものなら初めからそうしている」
『では何故?』
 ――そんなこと、自分だって分からない。
 本心だ。身体がだるかろうが熱があろうが雨が降ろうが、ここから姿を消すくらい出来る。なのに足が動いてくれない。まるで結界でも張ってあるかのようだった。逃げられないよう呪いでも掛けられたのかと思うほど、この事務所から出ようとする意思が肝心なときにいつも削がれてしまうのだ。それは奇妙な感覚だった。
 まだここに居ろと耳元で誰かがささやいているような。
『なるほどな』
 悪魔としてのバージルは納得したように呟く。
『貴様にもまだ人間の心が残っていたのか』
 意味を把握する前に、バージルのすぐ目の前に突如として別の自分が現れた。バージルを背後に庇うようにして、悪魔としてのバージルに向かい合っている。背中を向けているので顔が見えない。いや見なくてもわかる、こいつは「人間としての自分」だ。
 悪魔としてのバージルはフンと鼻を鳴らし、
『しぶとく残っていたんだな、まるで害虫だ』
 人間としてのバージルは嘲笑う声で、
『あいにく往生際が悪いんだ』
『悪魔の道を選んだ時点で消えたと思っていたが』
『消えてはいない、眠っていただけだ。このチャンスをずっと窺っていた』
『バージルが動かないのは貴様の仕業か?』
『違う』
 即答だった。
『悪魔としてのお前でも、人間としての俺でもないもう一人のバージルが、ここに留めさせている』
 それは誰なのだろう、悪魔でもなく人間でもない自分とはどんな御大層な奴なのか。しかし三人目のバージルは一向に姿を現さず、雨の降りしきる音が聞こえるのみである。
『隠れているのか』
『懸命だな。――さあ、バージル』
 人間としてのバージルが振り返った。
 顔がよく見えるようになる。瞳は生気に溢れて爛々と輝いており、自分の魂に心から誇りを持っている表情だった。光ってはいないのに眩しく感じてバージルは思わず目を細める。
『もう一度選択のときが来た、これが最後のチャンスだ。貴様はいま分かれ道にいる、だから選べ。手を振り払いここから出て再び悪魔の道に踏み入れるか、半人半魔の自分を受け入れて人間らしい道に向かうか、それとも――』
 しかし最後まで言わずに、二人のバージルは瞬く間に煙の如く消失してしまった。
 そして、まるで入れ替わるように声がしたのだ。
『バージル』
 ダンテの声だった。
 奇妙な感覚はまだ続いている。部屋の真ん中にダンテが立っていた。しかし現在の姿ではない、身長はベッドに座っているバージルと同じくらいだし、顔つきも丸っこくて幼い表情である。
 思い出す。
 こいつは、小さい頃のダンテだ。
 ずっと記憶の隅に閉まっていた、母と共に幸せに暮らしていたあの頃のダンテだ。
 ダンテは何を考えているか分からない顔でこちらをじっと見つめていたが、ふいに斜め上を見上げてニッコリ笑った。その斜め上から大きな手が霧のように現れてダンテの頭を撫でる。最初は手だけだったが徐々に腕が見え始め、肩が見えて顔が見えてコートが見えて最後に全身が見えた。
 バージルだった。
 小さい頃のダンテの頭を、今の姿の自分が撫でていた。
「誰だ」
 そのちぐはぐな光景に思わずバージルから声が漏れた。彼の顔はこちらからだと惜しい角度で見えない。どんな表情でダンテを見下ろしているのか、何を思いながら頭を撫でているのか。それをどうしても知りたくてバージルはもう一度声を掛ける。
「お前は、誰だ」
 彼の手が止まった。
 しかしダンテの頭に手を置いたまま、もう一人のバージルはゆっくりと、じれったいくらいゆっくりと振り返る。
 その顔を見た瞬間、バージルは目を見開いて戦慄した。




********



 一日が経っても雨は止まず、バージルの熱は一向に引かず、説得作戦もまとまらず、そして髭は帰って来なかった。
 髭の朝帰りなんぞよくあることだ。自由奔放を絵に描いたような男であるからネロや初代は行き先を聞かないこともしばしばである。もっとも、誰が何をしようが他人の事情にはあまり首を突っ込まないようにしようとネロは心に決めていた、
 はずだった。
「どこで間違えたんだ……」
「多分最初からだと思うぞ」
 ネロと初代は二人して洗面所の鏡に向かい合い、眠くて半目になっている顔でシャカシャカシャカシャカと歯みがきをしていた。スタイリッシュのカケラもないいつもの朝の庶民的な光景だ。
「お前も大概お人好しだよな。一匹狼だったんだろ? 一体どうしちまったんだ」
「言うな……自分でも驚いてんだから」
 一日経ってみて頭が冷えると、何だか自分らしくない発言だったように思えてきた。
 他人である若とバージルの話し合いを設けるための手伝いをするなんて、ネロの性格を知る者が聞いたら「中々キツいジョークだな」とか皮肉ってくれるに違いない。とは言ったものの男に二言はないのである。有言実行はもちろんさせてもらう。それに、若を不憫だと思い素直に何とかしてやりたいと思ったのも事実だ。多分、この辺りから道を逸れたのだろうが。
「にしても、バージルの熱が下がらなかったのは好都合だな。猶予期間が伸びた。明日はどうなるか分からないが…」
 そう言って初代はコップの水を口に含んでガラガラガラペッと洗面台に吐き出す。今朝方、ネロがバージルの様子を見に行ったとき彼はすでに起きていて、そのときにどうにか熱を計らせてもらったのである。バージルはずっと憮然としていたがそれはまぁ今に始まったことではない。そして額に手を当ててみれば見事に熱は下がっていなかったのだった。
「雨も熱も長引かないから今日が勝負所だ。時間ねーぞ」
 ネロも同じくガラガラガラペッ、
「なあ、一日でバージルを心変わりさせられると思うか?」
「……まぁ、可能性は低い」
「素直に無理だって言えよ…」
 歯ブラシをコップの中に入れ、鏡の戸棚の蓋を開けて中にしまうと二人は揃って洗面所を出ていく。
 昨夜の若について言えば、バージルが使っているネロの部屋の隣りが空いていたので、簡単に掃除してどうにか寝れるスペースを作りそこに若を放り込んだ。「バージルが夜中に出ていくかもしれないから一階で起きてる」と若は主張していたが、「電気代がもったいないから駄目だ」と実におかんな主張返しをしてネロは譲らなかった。
 どうせ自分は一階のソファーで寝るのだ、誰かが降りてきたら気配で目が覚める。そのときになったら呼んでやるから大人しく寝てろ。
 そう言って無理やり若を部屋に押し込め、髭の帰りをまたぬままネロは寒い一階のソファーで毛布にくるまって眠りについたのだった。部屋の窓から出ていくという手を思いついたのは後からだったが、朝になってもちゃんとバージルは居たのだから結果オーライである。初代も何かと気遣ってくれたらしい、深夜に起き出す気配が何度もした。
 そして、現在の朝に至る。
 洗面所から戻ってきたちょうどそのとき、バスルームから雫をボタボタ滴らせたまま出てきた上半身裸の若が現れた途端ネロはいきなりボルテージを上げた。
「タオルで拭けええっ!!」
「ぎゃあ!?」
 目にも止まらぬスナッチで若を掴み上げて三回床に叩きつける。俺も初日にやられたなあと初代は呑気に思う。もしやあれはこの事務所に来る者の慣例行事なのだろうか。
「いっててて、あーびっくりした。何だよ今のすげーな」
 倒れ伏した若はしかし三秒もすると起き上がりネロの悪魔の右腕をまじまじと凝視する。彼にしてみればお初にお目に掛かる右腕だが、しかしネロは若の顔を見た瞬間柳眉を上げるとバスルームにすっ飛び、持ってきたタオルを強引に若の頭に被せて爪を立てるがごとくゴシゴシゴシゴシ、
「ったくどの世界のダンテも同じようなことやりやがってこのっ」
「ネロ痛ぇ痛ぇ落ち着けって痛ぇ禿げる!」
「禿げろ」
 何だか前にもこんな会話をしたような。
 うんこ座りで頭皮を労っている若にネロはふんと鼻息を荒くし、しばらくそうしてろと捨て置いてドスドスとキッチンに消えて行った。その背を見送りながら初代は苦笑を漏らす。
「気をつけろよ、ネロはこういう事に敏感だからな」
「どこの世話好きだよ」
「というよりおかんだな、ありゃ」
 それから初代は若の顔を見つめ、
「……ま、昨日よりは元気そうで何よりだ。でも寝つきは悪かったみたいだな」
 若は驚いてタオルの間から初代に視線を向けた。それから眉を寄せてむっとし、
「何だよ。せっかくシャワー浴びたのに」
「血行良くして眼の下の隈を誤魔化そうってか? ナメんなよ、ネロも気づいてるぜ」
「うそ」
「何のためのタオルだよ。分かりづらい気遣いだよなあ」
 わずかな沈黙があった。
 おもむろに若はタオルで頭を拭くのを止めて考え込む表情になると、いきなり自分の頬を両手でバッチンと叩いた。
 それから真っ直ぐにどこかをぎらりと見つめて、
「……ぜぇってえバージル説き伏せてやる」
 初代は二度目の苦笑を漏らした。この執着心はある意味自分にはないものだ。羨ましい限りだ。
「頑張れよ、若人」
「おう」
 さてその頃のキッチンでは、ネロが台所で腕を組んで唸っていた。
 一応は病人のバージルにも朝食を作らなくてはならないのだが、如何せん仕事の無さといったらフリーターも真っ青なデビルメイクライである。バージルと自分達の分で違う朝食を用意するのは多少なりとも金が掛かるから出来れば一緒のものを作りたい。となると、病人のバージルでも食べやすくかつ自分達も腹が満たされてなお栄養がある献立を考えるのが妥当と言えよう。
 昨晩はそれを失念していたせいでうっかり唐揚げを作ってしまった。そうだバージルも居るんだったと後から気づいたのだがもう遅い、試しに食べるかどうか聞いてみたら物凄く嫌な顔をされて断られた。そりゃ具合が悪いときに脂っこい物など食べたくはないだろう。それを踏まえて脳内でレパートリーをサーチする。
 よし決めた。
「初代ー!ちょっと手伝ってくれ」
 リビングに声を掛けると「Oui, monsieur」と投げやりな返事が返ってきた。ここはフランスかと思う。ネロは冷蔵庫の野菜室を開け、初代がキッチンにやって来たのを見計らって振り向き様にキャベツを丸ごと投げつけた。
「ぅおっと」
「キャベツざく切りにしてくれ」
 初代は片手で受け止めたキャベツを見下ろし、
「――これ全部か?」
「人数二人も増えたからな、てっとり早く野菜スープ作る。これならバージルも食べられるだろうし、あとなんかパンとか出せば大丈夫だろ。ついでに昼飯も余ったスープにトマト缶開けてトマトスープにする」
 まったくよく出来た主夫である。どんな育て方をしたらこうなるのだろうか、例のキリエという子の顔が見てみたい。その間にもネロは固形スープの素やらニンジンやらジャガイモやらをポイポイと台に並べていく。
 初代もまな板を出してキャベツをザックザックと切り始めたそのとき、後から来た若が顔だけヒョイと斜めに覗かせてきた。
「なあ、どっちかの服貸してくれよ。さみぃ」
 そう言ってずびーと鼻をすする。ネロと初代は顔を見合わせた。
「服?」
 そうか、こいつは昨晩裸コートで現れたのだ。上の着替えがないのは当然である。取りに行きたいところだがしかし、今キッチンを離れるのは多少なりとも面倒くさい。ネロはあっさり結論を出して早々に作業に戻りながら、
「朝メシ作ってから持ってくるから我慢しろ」
「えぇ、寒いんだって。あんたサドかよ」
「さ、」
 まさかのS称号にネロの手から玉ねぎが落ちた。横の初代が肩を揺らして笑い、
「そうだな。ネロは顔がサドっぽい」
「か、」
「あといきなりシャワー上がりの奴に攻撃かますのもサドっぽい」
「な。」
 それと自覚がなかったネロは玉ねぎを掴んだ手の形のまま固まってしまった。何てことだ。反応が面白いのかさらに若がつっつこうと口を開こうとし、さすがにこれ以上は酷だと思ったのか初代が遮る、
「俺の部屋から勝手に服持ってきていいぞ。体型的にはネロと合いそうだけど今はバージルが部屋使ってるしな。右から三番目のドアだ」
「サーンクス」
 若はうししと笑ってさっさと顔を引っ込めた。が、停止状態だったネロはハッとし、
「ちょ、ちょっと待て!」
 逆再生みたいに若はまた顔を出す。
「何だよ?」
 服を貸せと言ってきた時点で気になっていたのだ、若は現在昨日と同じズボンを履いている。それはまぁ問題はない。許そう。だがしかし、
 ネロは恐る恐る問う。
「……若、下は?」
 若は平然と答える、
「ノーパン」



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