Devil, human, and brother.1




 足下で水が急速に流れている。断じて川ではない。水かさは足首までしかないし、魚だって一匹もいない。それに流れ着いた終点は滝壷のように見えるが、実際はエンジェルフォールよりも深い底にある魔界だ。
「……これは誰にも渡さない」
 その滝に落ちる三歩手前のところで、バージルが喋っていた。
「これは俺の物だ。スパーダの真の後継者が持つべき物――」
 そう言ってアミュレットを握りしめる。足元がおぼつかない、斬られた箇所が痛むのだろうか。それはダンテも同じだった。
 今までどんなに撃たれたり斬られたりしてもすぐ治ったのに、バージルにやられた傷は治ったあともまだ痛みが尾を引くのだ。何故かはわからない。普通の武器ではない閻魔刀のせいかもしれないし、兄弟に傷を付けられたという事実が無意識に脳みそに働いて身体にショックを与えているのかもしれない。だったらおかしいなと思う反面、そうだったらいいなともダンテは思ってしまう。
 バージルが後ろによろけた。
「あ――!」
 落ちると思って咄嗟に駆け寄るが、寸でのところで閻魔刀の切っ先が首に突きつけられる。思わず非難するように見つめると、バージルは様々な感情がない交ぜになっている顔をしていた。あんたもそんな表情するんだと頭の片隅で思っていると、
「お前は行け」
「――。」
「魔界に飲み込まれたくはあるまい」
 意味がわからなくて言葉に詰まる。何でだ、自分も道連れにするのかと思ったのに、何でそんなこと言うんだ。あんたらしくない。
 バージルが足を一歩後ろに下げる。もう後がなかった。
「バージ、」
「来るなっ!」
「ッ、」
 鋭い一喝にダンテは動きを止めた。まるでプライドでも守るかのように閻魔刀は未だ突きつけられたままだ。バージルの強い瞳がこちらを射抜く。
「今更、情けなど掛けられたくない」
「…バージル」
「俺はここでいい。親父の故郷の、この場所が――」
 そして、バージルはこちらを見ながら身体をふわりと後ろに倒した。奈落のような底の闇が彼を招き入れようとする。バージルの足が崖から離れる瞬間ダンテは反射的に手を伸ばしたが、最後の足掻きとでもいうようにバージルが閻魔刀を横に振った。伸ばされた手のひらに真一文字の鮮血が出来る、掴まえようとする動きが止まる。
 声も出なかった。
 バージルが、落ちた。
 小さくなっていくその姿が、青いコートが、あっという間に魔界の障気の中に消えていく。嘘みたいな光景に呆然と見送ってしまったその瞬間、走馬灯の如く先程のバージルの言葉が頭を駆け抜けた。
 俺はここでいい。
 じり、と心のどこかに火が点る。拳を知らず知らず爪が白くなるくらい握りしめる。
 ――ふざけんな。
 ダンテの瞳に力がこもった。
 これまで、『どの世界のダンテ』もこの時点で崖に背を向けて、フォースエッジを手に取りその場所を後にしてきた。何を思ってそうしたのかは本人以外に知る由もなく、この出来事は複数のパラレルワールドでも変わることはないのだろうと思われてきた。
 だが、この世界のダンテは全く違う道を選んだ。

 何の躊躇いもないとでも言うように、バージルの後を追って崖から飛び降りたのだ。

 タイムラグなどすぐに縮められた。速く落ちるために身体を真っ直ぐにして抵抗を無くせば、先に落ちたバージルの姿は十秒もしないうちに確認出来た。バージルは仰向けのまま落下していたためにすぐ真上から降ってきたダンテに気づき、驚愕に眼を見開いて、
「…何のつもりだ!」
 風の唸りに負けないようにダンテも叫び返す。
「ふざっけんなよ!あんた、俺に全部後始末押し付けるつもりか!?こんな塔勝手に立てて悪魔わんさか出しやがって、それで責任取らずに魔界にトンズラなんか許さねーぞ!!」
 違う。
 自分はそんな建前を言うために落ちたんじゃない。
「いいか、引きずってでも連れて帰るからな!覚悟しろよ!!」
 右手を伸ばす。あと二メートルくらいで届くのだが、バージルは険しい顔のままダンテを睨み付ける。
「…馬鹿が!今更どうやって人界に戻るつもりだ!テメンニグルは崩壊した、魔界と人界を繋ぐゲートが無ければどうにもならん!」
「ンなの何とかしてやる!」
「出来るものならやってみろ、だが俺は戻らんぞ!」
「駄目だ!あんたも一緒に帰るんだ!」
 あと一メートル。
「魔界なんか行ってどうすんだよ!?もう親父もいねぇトコに何があるってんだ、悪魔の道を選んだんだからここがお似合いって思ってんのか?あんたはそれでいいかもしれねぇがな、俺はそんなの絶対許さねえ!意地でも連れて帰ってやる!それで、それで……」
 帰ったら、もう一度――。
 その瞬間、バージルの顔が悲しげに歪んだように見えた。
 その瞬間、二人の耳に高齢のジジイとババアが同時に喋っているような声が聞こえた。
『――ミヒャヒャヒャヒャ!』
 そして、ダンテは見た。

 自分達が落ちていってる先、バージルの真下に、巨人でも入り込むのかというくらい馬鹿でかい穴が開いていくのを。



********



 眼を開けると、真っ白な世界にネロは一人立っていた。白いペンキで四方の壁や天井や床を塗り潰したのかというくらいそこには一つの陰影もなく、どのくらい広いのかも分からないし距離感も掴めない。もしかすると、「面積」というもの自体ここには存在していないのかもしれない。
 その世界の中で、ネロは一人の男と対峙していた。
 顔はよくわからない。水で極度に滲ませた水彩絵のように輪郭はおぼろげだったし、陽炎の向こうにいるようにも見える。何となく銀と青の色がわかる程度だ。ただ、冷たい印象を持つのにどこか寂しそうな雰囲気を醸し出すこの男には見覚えがあった。
 あいつだ。
 右腕を負傷したあの日の夜に夢で見た、あの男だ。
「あんた――」
 そこでネロは言葉を探し、
「あんたなんだろ、俺にこの力をくれたの」
『………』
 男は答えない。
「お礼を言いたかったんだ、あんたのおかげであの時キリエを守れた。感謝してるよ」
『………』
 男は答えない。窺うようにネロを見つめている。
 そういえば、あの夜以来一度も夢に出ることが無かったのに、どうして今更現れたのだろう。何か言いたいことがあって出てきたのではないのか――そう問おうとした瞬間、まるで見計らったかのように男が口を開いた。
『感じるか』
「え?」
『似て非なる魂の慟哭が、近づいてくるのを』
 首を傾げる。言ってる意味がよくわからない、何を伝えたいのだろうか。
『俺は自分の結末に後悔など一切ない。が、あちらはどうやら違うらしい』
「あちらって?」
 男が右を向いた。ネロも同じ方向に視線を移す。
 何もない。真っ白な空間が広がるだけだ。
「……なんも見えないけど」
『今はな』
 そして男はネロに向き直り、
『…奴らがこの先どの道を行くかは分からん。何が正しいか何が正しくないのか、或いは正しい道など無いかもしれん。それでも奴らが選んだ道ならば、貴様も何も言わずにいてくれ』
「どういう意味だよ?」
『すぐに分かる。それまでは――』
 ――俺も少し、見ていよう。
 男の姿が急にボヤけ始める、ネロは何か言葉を口にしたが自分の声が聞こえない。煙のように男が消えた瞬間視界が白く塗り潰されていき、身体が無重力に放り出されたかのようにふわりと浮上していく。そして、

 ピシャーンッ!

「っ!!」
 条件反射でびくりと身体が震えて眼が覚めた。
 布団の中だった。
 頭まで被っているため周りは薄暗い。ネロは眠い目を擦り、丸めていた身体を伸ばして顔を出すと朝日が差していないことに眉を寄せた。
 何だか部屋が暗いような気がする。
 変だなと思った瞬間、窓からまたピシャーンと凄い音が響いた。同時に眩い光もフラッシュの如く放たれる。
「ぅわっ」
 何なんだよまったくと思いながら見ると、窓の外は嵐だった。唸るような風と叩きつけるような横殴りの雨がビシバシとガラスに当たって景色が見えない。そういえば、昨日のラジオの天気予報ではここ一帯は雨とされていたような。ここまでとは聞いてないのにとぼんやり考えているうちにまた雷鳴が轟く。
 ……こりゃ今日は外出できないな。
 ベッドから這い出して枕元の目覚まし時計を見る。7時24分。
 ネロは黒のタンクトップの上から、いつもの赤いノースリーブパーカーを羽織って部屋を出た。
 この時間だと髭と初代もまだ起きない頃合いで、その前に朝食を作り終わらせるのがネロのここでの日課である。一階に下りて洗面所で顔を洗い、湿気のせいでちょっとしめったタオルで拭きながらキッチンに入って、
「モーニン」
 足を止めた。
 初代がキッチンで真っ赤なカップ片手に挨拶してきたのだ。さすがにコートは着ていなくインナーのみだった。
「……初代?珍しく早いな」
「雷で目ぇ覚めた」
 うるさくてたまんねぇから起きたんだよと続けながらインスタントコーヒーの蓋を開ける。
「おっさんは?」
「部屋には居るっぽいからまだ寝てるんじゃね?図太い神経だよな。コーヒー飲むか」
「飲む」
 初代はティースプーンで大盛り一杯分を自分のカップに入れると、今度は戸棚から黒いカップを取り出した。ネロ用の物である。髭が二ヶ月程前にフォルトゥナのネロの部屋に侵入したとき、飲み物出せと言われて振る舞ったあのカップである。ちなみに初代のは原色みたいな赤で、髭のは禍々しいワインレッドに裸の女が描いてある。趣味が良いのか悪いのか。
「ミルクは入れるか?」
「あぁ」
 答えつつネロはトースターにパンを二枚押し込んでスイッチをオンにする。冷蔵庫に駆け寄って卵を六つ取り出し、器用に片手で割りながらボウルに落としていく。それからミルクを目分量でドバドバ注いで塩コショウも少々。スクランブルエッグらしい。毎度手慣れたものだ。
 コンロには既にお湯とミルクが別々に沸かしてあった。初代はカップ二つにそれらを入れていき、スプーンでぐるぐるかき混ぜてから片方をネロに渡した。
「ほら」
「どうも」
 泡立て器を止めてぐびーっと飲んでから、
「……苦い」
「そうか?半分入れたんだが」
 初代は平然と飲んでいる。味覚に違いがあるのはまぁわかるが、もう少しミルクを入れて欲しかった。頼んでない自分が完全に悪いのだが。苦さに閉口しながらカップを置いて再度泡立て始める。
「初代、バター持ってきて」
「おう。…あ、そういえばな」
「なに」
 ネロは初代の方を見ずに聞く。冷蔵庫を開ける音、
「バターで思い出したんだが、今朝変な夢見てよ。話そう話そうって思ってたんだがすっかり忘れてた。あのな、」
「うん」
「俺の目の前でいきなりマーガリンとバターが人の形になってな」
「うん。……は?」
 思わず泡立て器を止めて初代の方を見る。背を向けている初代は中のバターケースを引き出しながら、
「中身が入ってる包み箱が文字通り変形したんだよ。顔の部分がパッケージの形そのまんまで、黄色い全身タイツみたいなの着てた。そいつらが俺に詰め寄って『あんたはバターとマーガリンどっちが良いんだ!』ってすげぇ声で延々同じ質問してくるっつー夢」
「……それで?」
「別に。『俺はバターがいい』って言ったらマーガリンマンに泣きながら剣で刺された」
「…変な夢」
「だよな」
 初代は髭に比べたらまともだが、たまにくだらない話をするあたりやっぱりダンテに似てる。特にオチもないらしいので、ネロはフライパンを取り出して火を付けた。強火の青い火がともる。
 青。
 ――そう言えば、
 自分も今朝夢を見たような気がする。誰かと話している夢だったと思う。決して初代が見たヘンテコリンな奴じゃなくて、ちゃんと人間だったはずだ。どんな顔かはおぼろげ過ぎて忘れてしまった。何の話をしていたんだっけ、重要だったようなそうじゃないような、
「ネロ」
「あ?」
 バター片手に初代が指差す、
「フライパン」
「え?…うわ!」



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