First contact.5





 冷蔵庫の中には卵もミルクも入っていなかった。多分、今朝初代がパンケーキを作ったときに使い切ってしまったのだろうと髭は思う。一本残っているジンのビンを掴んで冷蔵庫を閉め、蓋を開けてちびちびと飲みながら椅子に座って机の上に長い足を乗せると、太ももをブックスタンド代わりにしてプレイボーイの雑誌を広げる。
 ふと、事務所内がとても静かなことに気付いた。
 当たり前と言えば当たり前である。今はネロも初代も買い物に出かけていて不在なのだから。それに、つい1ヶ月前くらいまではそれが普通だったのだ。
 随分と短期間に賑やかになったもんだな。
 知らず苦笑が漏れる。一人は嫌いではない、むしろ好きな部類だ。どこまでも自由だし他人の干渉を受けずに済むし、ピザだって好き放題に食べられる。が、それを殆ど奪われている今の状態も満更ではなかった。何故か。
 現在、デビルメイクライの経理と掃除と料理担当はネロに任せている。任せているのだからその三つを髭は気にしなくてもいいわけで、つまり依頼の電話に集中出来るから前よりも助かっているのである。その代わり、ネロに対して髭は文句が言えない。仕事をきちんとやる分なおタチが悪い。曰く、あんたが任せっきりにしてるんだからごちゃごちゃ抜かすな、らしい。前にネロからあーだこーだ指示されるのを断ったら「じゃあ自分でやれ、俺は知らない」とへそを曲げられて一切の責務を放棄され、困った状況に陥った事が何度もある。それでも結局はネロが先に折れてくれるから、髭はどんなにネロに干渉されても何だか憎めないのであった。
 良くも悪くも、バランスが取れているのであろう。
 そこにさらに過去の自分――いや、それに近い存在も加わったが、今のところ特に問題はない。居候するために空き部屋の片付けも勝手にやってたし(ネロが手伝わされてたが)、それに自分の状況を理解もしているから気を使わなくても良かった。
 ただ、いつネロと初代に「あれ」を伝えるべきか。タイミングを見計らっているのだがどうも上手くいかない。
 仕方ねぇ、
「帰って来たら話すか」
 説明役なんてガラじゃないし面倒くさいんだがなぁと髭は思う。
 二人が買い物に行ってからそろそろ二時間が経過しようとしていた。多分冷蔵庫の具合からしてまたガーデンとやらに行ったのだろう。あそこはでかい市場だし、そこに初代を案内しながら回ってるとしたら、そろそろ帰ってくる頃合いのはずなのだが。
 そう思った瞬間、絶妙のタイミングで扉が開いてネロが入ってきた。
「おかえ、」
 雑誌から顔を上げて声を掛けようとした髭は、ネロを見て中途半端に言葉を切る。
 焦げくさい、血の臭いもした。
 ネロの全身は焼けたみたいに黒く煤けていた。火傷は見当たらないが、コートの端や髪の先が焦げている。それに悪魔の血が焼けた臭いもうっすら嗅ぎ取れた。喉をやられたのかケホッと咳き込みながら、
「ただいま」
「……なんだ、火事にでも巻き込まれたのか?」
「ちげーよ」
 そして、後ろから初代がひょっこりと顔を覗かせた。こちらは出掛けたときと同じで変わりはないし、買い物が入った紙袋も抱えている。が、何故か難しい顔をして髭を見ていた。
「…おっさん」
 ネロがツカツカと近寄って机の前で足を止め、少し困り顔で髭を見下ろす。
「…悪い、話しちまった」
「――何を」
 数秒ネロは躊躇ってから、
「……ちょっと色々あって、悪魔に会ったんだ、ガーデンで。それで、一回は倒したと思ったんだけどまだ生きてて、油断して悪魔に食われた」
「……で?」
 ネロは、すぐには続きを話さなかった。
 随分な間を置いてから、ようやく、
「閻魔刀を初代に見られた」



 少し時間を戻そう。時は、ネロが悪魔に隙を取られてバックリ食われてしまったところまで遡る。
 悪魔の口の中は火ダルマとなっているからか灼熱地獄のように熱く、ねっとりした唾液と共に顎の肉が上下からネロを挟み撃ちにしてきた。舌の上にうつ伏せに押し付けられて身動きも取れない。おまけに物凄く臭い。そのうちに噛みきろうと咀嚼が始まるかと思いきや、舌が持ち上がって一気にネロを喉の奥に押し込もうとしてきた。力を入れて踏み止まるが喉の入り口近くまで追いやられてしまう。
 冗談じゃなかった。
 この奥に何が待っているのか、どう考えても胃まっしぐらだ。悪魔の胃が果たして人間と同じ機能を持っているのか。そう言えば悪魔の中には胃に「蟲」を飼っている奴もいて、そいつにエサを喰わせるために人間を食すと聞いたことがあるような。もしこいつも同じ類いだったら――そう思った瞬間、何かカサカサと動く音が胃へと続く管の奥から聞こえた気がした。
 さすがに血の気が引いた。
 本当に、冗談じゃない。
 なりふり構ってはいられなかった、無我夢中でネロは右腕を解放した。包帯が魔力に当てられて消滅し、その力を使ってのし掛かってくるヌルヌルした上顎を両手で抑え全力で頭上に押し上げる。そうして出来た僅かな隙間の中で身体を仰向けにし、右足をねじ込んで靴底に上顎を乗せ突っ張り棒代わりにした。青い魔人が背後から窮屈そうに出てきたのを感じながら素早く右腕から閻魔刀を出現させ、ネロは狭い口の中でそれを振り上げる。
「――おらあっ!!」
 斜め一線。
 抵抗なく紙のように上顎が斬れ、それは脳にまで達し外皮をなんなく突き破って外にまで及んだ。端から見れば頭が二つにパックリ割れたようにも捉えられる。悪魔は悲鳴も上げなかった。断面から血飛沫と火の粉が降り注いできて、片眼をつむりながらネロはさらに剣撃を繰り出す。まるでぶつ切りにしているかのように内部を切り裂き、ついに膝をついて立ち上がれるほど隙間が空くと、最後に閻魔刀を大きく振りかぶって縦に真っ直ぐ斬り下ろした。
 悪魔の身体が完全に二つに分かれる。
 凄まじい血が逆さまにしたシャワーのように吹き出し、桃から産まれた桃太郎の如くネロはそこから這い出した。悪魔の身体は未だ炎に包まれていたのでコートや髪の毛に燃え移り、うっとうしいと思いつつそれを手で払い退けた。まったく、一張羅だってのにべとべとになってしまった。
「ネロ」
「?」
 静かな声に呼ばれてネロは振り返る。
 何故か凍りついたように動かない初代が微妙な距離からこちらを凝視していた。
「? なんだよ」
「……それ」
 それ?
 初代はネロを見ていない、ネロが右肩に担いでいるある物を見つめている。これがどうかしたのかと思ったが、そこで思い当たる節に至ってネロは硬直した。
 しまったと心の中で叫んだが何もかも手遅れだった。
 懸念すべき点だったのだ。髭に言われてもいた、過去の自分には見せないほうがいいと。それを承知していたのに。
 ネロは、右手に未だ閻魔刀を持ったまま初代の前に立っていたのだ。
「何だそれ」
 混乱している故の愚問が初代の口から漏れる。ネロは何も言えない、弁解する言葉が出てこない。初代はその間に一歩足を近づけて、まるで感情が入っていない声音で同じ台詞を吐いた。
「何だ、それ」
 悪魔は、いつの間にか跡形もなく霧散していた。



 現在に時刻を戻す。話を聞いて髭はついに雑誌を閉じ、二人を見比べてからネロの右腕に視線を落として、
「――閻魔刀を見られちまったのか」
「……ごめん」
 初代は過去のダンテである。アミュレットを首に掛けていなかったから、マレット島から帰還した後の時間軸から来たのは間違いない。実際そうとも話していた。だから彼は、この時点では閻魔刀がどこにあるか知らなかったのだ。バージルがテメンニグルから閻魔刀と共に魔界へ落ちたのを最後に、初代は刀の行方を見失っていた。
 なのに、初代の視点から見れば、未来の時代で閻魔刀は何処とも知らぬ青年の手に渡っていたのだ。
「度肝を抜かれたな」
 初代がネロの隣りに歩いてきて机に紙袋を置いた。何だか呆れたような表情が滲み出ている。
「魔界に落ちたはずの閻魔刀がこっちに戻って来てて、しかもスパーダの血筋とはいえまさかネロが持ってたなんてな……本当、予想外過ぎて全然気づかなかった」
「てことは、もう知ってるんだな」
「全部ネロから聞いた。どうして閻魔刀が戻ってきてたのか、フォルトゥナって都市で何があったのかもな」
 ネロが居心地悪そうに髭を見ている。成る程、大方動揺した初代に詰め寄られたのだろう。言い訳が咄嗟に浮かぶほどネロも悪知恵が働くとは思えない。髭は溜め息をついて、
「未来のことを知るのは危険な事だって分かってんだろ?」
 初代は肩をすくめて、
「……あのときは驚きのほうがでかくてそこまで頭が回らなかった。今は悪いと思ってる」
「そうか」
 雑誌を放って髭は勢いよく立ち上がった。怒っていると感じたのかネロが慌てたように声を掛ける。
「お、おっさん、あの、」
「ネロ、初代」
 呼ばれてネロは口をつぐみ、初代は無言で見つめてくる。髭は我知らず口元に笑みを浮かべた。
 どうやら、ようやく「そのとき」が来たようだ。
「ソファー座れ、話があるんだ」



********



 なんだろうかとネロは思う。
 わざわざソファーに座らされるなんて思わなかった。大事な内容なのだろうか、自分達が出掛けている間に凄い報酬の依頼でも来たのかもしれない。しかし先程の会話の流れからしてそこにいくとは考えられないし、かと言って説教される雰囲気でもなかった。
 あれこれ考えていると、隣りに初代がどっかりと座ってきた。反射的にそちらを見ると、初代が何故か気遣うようにネロを見返している。
「……?」
 首を傾げると初代は申し訳なさそうに眼を細め、
「あのときは悪かったな、いきなり色々訊いてきて」
「あぁ…」
 あのときとは路地裏での事である。初代は閻魔刀を持ってるネロに迫って、物凄い剣幕で「どういうことだ」「何でお前がこれを持ってる」と詰め寄ったのだ。大の男でも怖じけづくような雰囲気だった。その雰囲気に飲まれて、ネロは思わず口を開いてしまったのだ。
 ネロは苦笑して首を振り、
「いや、いいよ。俺だって初代と同じ立場だったらそうする」
 そう言うと初代も苦笑した。
「若ぇときの名残かな、まさかこの年になってまだ動揺するなんて思わなかった」
「別に気にしねぇって。だって兄貴の形見なんだろ?あそこで動揺しないほうがおかしいって、家族ってそんなもんじゃないのか」
 一人っこの自分には「兄弟」がどんなものか分からなかったが、何となくそう思った。
「……ったく、今時珍しいくらいいい奴だなネロは」
 改めたように初代はそう言って天井を見上げた。何だそれ、どこら辺を聞いていい奴と思ったのだろうか。ネロは全く分からなかったので首を傾げる。横目でそれを見た初代が再び苦笑した。
「仲良いなお前ら」
 そして、髭が向かいのソファーに座りながらそう言ってきた。優雅な動作で足を組んで二人を見つめている。ネロは髭の言葉を鼻で笑って、
「おっさんより初代の方が人が良いからな」
「なんだ、俺は良くないのか」
「あんたは胡散臭くて駄目だ」
「傷つくな」
「だからそこが胡散臭いんだって」
「じゃあ何て言えば良かったんだ?『嬉しい!』って喜べばいいのか」
「……そ、それも嫌だ」
 初代があっはっは!と笑った。それから、
「仲良いなお前ら」
 髭と全く同じ台詞を口にした。ぐるりとネロは初代に目を移し、
「はあ?誰と誰がだよ」
「ネロと髭」
「…なんで」
「それが分からんうちはまだ子供だな」
 ムカつく。この言い方、やっぱり初代もダンテなのだと再確認した。先程の人が良い発言は撤回しようか。
 と、急に髭が真面目くさった顔をして、
「まぁお喋りはこのくらいにして、早速話に入るぞ」
 それから膝の上で両手を組み、
「俺はまだるっこしいのは嫌いだ、だからいきなり本題から言う」
 ネロと初代は頷く。そして、

「初代、お前は過去の俺じゃない」

 さすがに沈黙した。



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