沈黙を守る悪魔の幸せ





※どんなダンテ達でも大丈夫な方向け。






 俺は宇宙人。お前も宇宙人。というかこの事務所に住んでいる奴全員宇宙人。
 いきなり初代にそう言われた。
「……あ、そう、うん」
 若干引き気味に若は答えてしまった。予想外な言葉が予想外な人物の口から出てとっさに冗談を飛ばせなかった。混乱して思わず、
「そ、そうだよな、あっちの宇宙人から見れば俺たちだって宇宙人だもんな。あながち間違ってないよな」
「真面目に聞け若。そのままの意味だ。俺たちは宇宙人で、地球外生命体で、この星で生まれたんじゃないんだ。オーケー?」
 オーケーじゃない。全然オーケーじゃない。
 罰ゲームでも受けたのだろうか。初代がこんな荒唐無稽な事をのたまうなんてちょっと考えられない。髭あたりと勝負でもして、負けたら異星人になりきらなくてはならなくて、エリア51やヒル夫妻誘拐事件の真相や政府で要人のフリをしている宇宙人は誰かなどを暴露する役をしなければならないとか。若は一人掛けのソファーであぐらを掻いていた足をおろして探るような目つきで初代を見る。ローテーブルの端と端、いわゆる誕生日席の位置にお互い座っている。向かい側にいる初代は同じく一人掛けのソファーに深く座り込んでおり、片足のくるぶし部分をもう片方の膝に乗せていた。
 若は確認を込めて言う。
「冗談だよな?」
「いんや、冗談じゃない」
 絶対冗談に違いないのだが、それにのっかってみたい好奇心もあった。いつもの悪い癖だ。その癖を分かってて初代もしばらく種明かしをするつもりがないと見てとれる。巧いもので、初代の瞳には冗談のひとカケラも見えてこなかった。
「……そりゃ、悪魔を宇宙人って考えるならある意味俺たちも宇宙人だろうけどさ」
「悪魔と宇宙人は違うのさ。俺が言っているのは本物のほうだ。遙か空の彼方の何百光年の距離から、人間が言うUFOに乗ってやって来たガチの宇宙人のほうだ」
 面白い、のっかってやろうと若は思う。初代がどこまでネタを蓄えてあるのか確かめてみようじゃないか。
「それが本当だとして、どうして初代はそれを知ってるんだ?」
「俺はお前らの監視役なんだよ。お上からの要請でな、俺はこん中じゃ一番の古株なんだ」
「? おっさんや二代目より?」
「そりゃ見た目の話だ。俺は宇宙人として一番長く生きてるってことだよ」
 ふーんと若は呟き、
「じゃあさ、もしも宇宙人だってんならどうして宇宙人としての記憶が俺たちにはないんだ?」
「この星の住人と馴染んでいくために記憶をロックしてあるんだ。宇宙人としての記憶があるとどうしても齟齬が生まれるからな。バレるのは避けたい」
「宇宙人なのは俺たちだけなのか」
「いや、この星には他にも仲間が散らばってて、人間に化けて暮らしてる」
 弾切れになる気配がない。これは手強そうだ。
「じゃ、なんで俺たち宇宙人なのにここで暮らしてるんだよ。お星様に帰ればいいじゃねえか」
「そこが俺の話したいところだよ」
 初代は居住まいを正して目を閉じ、
「俺たちの種族はある程度の知識と、ある程度成長した状態で母胎から生まれてくる。知識量はいわゆる日常生活が出来る程のものなんだが、それだけじゃあ到底使いものにならない。歩き方を知っていても実際どうすれば歩けるのか分からないみたいな感じだな。経験が足りないってことだ。だから、違う星々の文化に触れて経験を積ませる。要は留学とか研修ってことだ。数年か数十年を母星で過ごした後に送り込む。で、お前たちはたまたま選定先が地球のこの場所になった。地球人は技術レベルが低く俺たちの存在に未だに懐疑的だから、ここに送られる奴らには記憶に蓋をしてもらってる。……お前たちは宇宙に帰還後かなり重要な任務に就かせる予定でな、精神的にも肉体的にもタフにするために、地球ではかなり過酷な生活に『設定』させてもらった」
「設定って」
「悪魔と人間のダブルって設定」
 若はポカンと口を開けた。
「悪魔なんてこの星にはいないのさ。全部あらかじめ作った記憶だ。魔界もムンドゥスもスパーダもいないし当然母さんも存在しない。同じ母胎から生まれたから顔が量産型になったってだけでバージルとお前は双子じゃない」
「な」
「あ、わり。悪魔がいないってのは語弊があったな。悪魔退治の仕事で地上に出る悪魔はちゃんとこっちで『作った』んだ。リアルだっただろ」
「は」
「お前達に子供時代というものは最初からない。地球に降り立ったときには今の姿で既にここに住んでいたんだ。それ以前の記憶は全て作り物。この設定を作った奴が地球のファンタジー物に興味がある変人、いや変宇宙人っていうのか? とにかくまあ凝り性で、悪魔っつー空想の存在に着想を得て個人的趣味盛りだくさんの複雑な設定をお前達に組み込んだ。正直参ったね、俺もそれに合わせないといけなかったし。百回抗議しても首を振らなかった」
「ちょ」
「魔人化だって身体構造を粒子レベルで変化させるだけだし、魔力はただのXXXエネルギーだ。お前たちはよく育ったよ。予定されていたより何倍も強くなった」
「ま、」
「なんで今こうしてネタばらしをするかっていうと、今日で研修が終わるからなんだ。長かった地球での暮らしもこれで終わり。今から十分後に宇宙からお迎えがくる。本来ならもっと早く終了するはずだったんだが、途中でネロが地球に研修に来ることになっちまってな。タイプが似てたし、フォルトゥナでしばらく馴らしたあとここに来させて一緒にしたんだ。お守りが増えて大変だったんだぜ? まあ結果的に目標レベルまでいってホッと、」
「ちょっと待て!」
 バアン! とローテーブルを叩いて若は立ち上がった。
「あんた――頭イカレちまったのか?」
 初代は片眉を上げた。
「どうして」
「あんたがそんなタチの悪い冗談言えるわけがねえ」
「タチが悪いってなにが?」
「設定とか……設定ってなんだよ。俺が見てきたもの聞いてきたもの全部作られた記憶ってわけか?」
「そうだ」
「言っていいことと悪いことがあるぞ」
「若がそう思うのも無理はないだろうな、まだ『ダンテ』のままだし。宇宙人時代の記憶のロック解除もしてないし」
 何があったんだ、と若は思った。初代の精神に異常性さえ感じ取れた。悪魔やスパーダましてや母のことまで「実は偽の記憶でした」なんて冗談では済まない。しかも自分達は宇宙人ときた。まったく笑えない。
 ふと若は事務机のほうを見やった。髭がいつものポーズで漫画を読んでいる。こちらの会話は丸聞こえのはずなのにまるで変化がみられない。
 妙な悪寒が走った。
「なあ、おっさん」
 一拍置いて「あ?」と髭が顔をこちらに向けた。
「聞いてたよな、今の話」
「そりゃ耳栓でもしなけりゃ嫌でも入るさ」
「なんで何も言わないんだよ」
 髭は、さも当たり前のようにこう言った。
「だって全部ホントのことだろ?」
 それから髭は何事もなかったように漫画に視線を戻し、
「俺も昨日記憶を戻してもらったからな。おおむね若と同じ反応しちまったけど、思い返してみりゃなんてことなかったな」
 グルになって自分をハメようとしているのかと思った。
 後で本気になった自分を笑いものにするのかと思った。
 が、真顔の髭と初代を見て若は得体のしれない物を感じた。まさか、どちらも冗談で言っているわけではないのか。それから若はハッとした。もしかしたら悪魔にやられたのかもしれない。精神的な攻撃をする悪魔と出くわして、一時的に狂気に陥っているとか。そうだそうに違いない、だったら自分だけではこの二人相手は無理だ、キッチンにバージルと二代目がいるから相談しよう――そう思ってソファーから離れたときに初代が言った。
「一分で戻ってこいよ。もうお迎えまで時間がないから」
 重症だ。若は小走りにキッチンに走った。キッチンの入り口から勢いよく顔だけ出し、そこで普段通りに洗い物をしたり片づけをしている二人を見てもの凄く安堵した。
「バ、バージル、二代目!」
 小声で叫ぶと二人は同時に顔を向けた。
「うるさいぞ愚弟」
「……どうかしたか?」
「なんか初代と髭が変なんだって! いきなり俺たちは宇宙人だとか母さんは存在しないとか宇宙に帰るとか言い出して!」
 バージルは、表情を変えなかった。
 二代目は、首を傾げた。
「それがどうした」
「まだ記憶を戻してなかったのか」
 若は、バケツの水を頭からひっかぶった気分になった。サッと顔色が青くなるのが手に取るように分かった。仮にこれがドッキリだとしても、二代目はともかくバージルがこの手のことでグルになるなんてあり得ない。バージルと二代目はお互いの顔を見合わせて、
「XXXはXXXXのロック解除をしてなかったのか。もう三分を切っているぞ」
「バージル、解除がまだならXXXXと言うのはやめたほうがいい。設定通り愚弟かダンテと言い直せ」
「そうだな。――ダンテ、XXX……いや初代のところに戻れ。その状態だとこのままでは精神分裂が」
 そこで若はキッチンから逃げた。リビングに戻り、先ほどと同じ位置にいる髭と初代の無感情な視線を通り抜けて階段をガンガン上がる。廊下を駆け抜け、一番端のドアをノックもなしに無遠慮に開けた。
「うわ! ……ど、どうしたんだよ若? 顔が真っ青だぞ」
 部屋の主のネロはベッドの真ん中に座ってブルーローズの簡易メンテをしていた。分解した銃とドライバー、シーツの上に様々な部品が転がっている。ここまでの距離だけで若は息が上がっていた。
「ネネネネロネロネネロ」
「アグナスかお前、落ち着け」
「み、みんながヤバい」
「は?」
「宇宙人になりきってる」
「はあ? 宇宙人? なんだよそれ」
 ネロはいかにも馬鹿にした目つきで若を見上げた。この反応。ネロはまともな状態のようだ。若はその場にしゃがみこみそうになった。
「よよ良かった、ネロはまだ大丈夫なんだな」
「大丈夫って何が。つーかホントどうしたんだ? 凄い汗だぞ」
「いや、も、とにかく、あいつら悪魔かなんかにやられてるみたいなんだよ。とにかく下に来、」
 後ろだった。
「だぁから悪魔はいないってさっき言っただろ」
 息が止まって数秒固まった。
 それから肩越しにゆっくりと振り返る。いつの間にか真後ろに初代が立っている。腕を組んで呆れた表情をしている。
「ネロはまだ記憶の解除をしていないんだよ。ったくまとめてやろうと思ってたのにしょーがねーなー。今ここで解除するから中入れ」
「め、目ぇ醒ませ初代」
「俺は至って正気だよ」
 初代の両目がすいと横に逸れて瞬きした。次いでベッドに何かが落ちる音。顔を戻すとネロが意識を失って横向きに倒れている。手に持っていたドライバーが滑り落ちて床に固い音を立てる。
「おい――!?」
「さあ入った入った。あと五分もないぞ」
 初代が一歩踏み込んできて思わず若は後退してしまった。蛍光灯が不自然に明滅している。部屋と廊下の境界線を越えて侵入すると初代は組んでいた腕をほどき、黒いグローブの指先を口で加えて抜き取った。
 なにかの間違いであってほしいと若は思った。グローブから出てきたそれは人間の手ではなかった。まず爪がないし指の間接が一つ多いし、ついでに五本指がその場で七本になった。褐色だったはずの肌はコンクリートのような灰色で光沢と透明性を持ち、中の毛細血管がすべて透けて見えている。よく見ると初代の顔半分も肌色が変わってきており、片目の眼球の白い部分がなくなって真っ黒に染まっていた。異形の手の中で「人差し指」がぐにゃりと伸び、指先にいくほど細い針のようになる。
「痛くはないから安心しろ。耳の後ろのでっぱりにちょっと刺してリンクするだけだ。一秒で終わるから」
 銃声が響き、同時に初代の頭が後ろにのけぞった。
 そのまま倒れるかと思いきや、初代は逆再生のようにのけぞった頭を元に戻した。眉間に撃ち込まれた弾痕から緑色の体液が滴り落ちている。赤くない。赤くないのだ。
「……まったく、撃つほど注射が嫌いか?」
 若はアイボリーで狙いを定めたまま振り絞るように、
「いつから?」
「ん?」
「いつから憑いてたんだ?」
 初代は面食らった表情をし、それからアッハッハと大笑いした。
「まだ悪魔の仕業と思ってるのか。ま、そう考えるのも無理はないか」
「無駄口言ってねえで早く答えろ」
「残念ながら俺は悪魔じゃなくて宇宙人だよ。最初から、な」
「最初から……」
「悪魔のほうが良かったか?」
 言葉に詰まったそのとき、窓の外から唐突に轟音と白い光が降ってきた。太陽を直接見ているかのような強烈に濃い光なのに不思議と目が眩まない。窓からの景色がすべて白に塗りつぶされ、一体どういう原理なのか光は屋根や天井をも突き抜けてきて頭上を覆っていく。
 何か大きな飛行物体が建物の真上にいる――そう直感した瞬間初代の右手が小さく揺れ動いた。伸びた人差し指がムチのようにしなり、認識するより速く若の背後に回って正確に左耳の後ろを刺した。電流が身体中に走り、あっという間に指先まで感覚がなくなっていく。聴覚が遠ざかり、アイボリーが床に落ちる音が聞こえない。受け身も取れずに倒れたのに痛みをまったく感じない。無音と耳鳴りが交互にする。仰向けになった視界は光の白しかなく、そこに初代の顔がひょっこりと覗いてきた。逆光で口元だけしか見えない。何か言っている。
 ――お別れだ。
 ――今まで楽しかった。
 初代の背中からコートを突き破って何かが飛び出した。シルエットしか分からなかったが、ハサミや刃物を組み合わせたアームのようなものが蜘蛛の足の数ほど見えた。朦朧とする意識の中で、視界に髭と二代目とバージルの影が現れる。皆が皆、秘密を誓わせるように唇に人差し指を当てている。
 頭に何かが侵入した感触。途端に記憶の蓋が開いて脳裏に映像がフィルムのごとく次々と溢れてくる。若が最初に見た映像は、泡立つ水の中から見えた満天の星が輝く銀河の景色だった。



「でさ、俺そこで思ったんだよ。『うわこれってもしかして宇宙? 宇宙船から見えてる光景なのか?』って」
「そうか」
「景色がすげえ綺麗でな、星が川みたいに散らばってんだ。あれがミルキーウェイってやつなのかもな」
「それからどうしたんだ」
「さあ。そこで目が醒めたからわかんね」
 肩をすくめた若にキッチンの二代目は苦笑した。キッチンの作りはダイニングから見えるように壁が上半分ほど取り払われており、そこをカウンター代わりにして完成した料理を一時的に置いたり出来る。出入りが禁止されている若はそのカウンターで頬杖をついて中で作業する奴らを観察するのがちょっとした日課だった。こうしていると味見を頼まれるからというのが主な理由だが。 
 二代目の横で初代が「壮大だなあ」と言いながらコーヒーミルのハンドルをゴリゴリ回している。コーヒー豆の挽き立ての香り。
「その夢の中じゃ俺が悪役みたいだな」
「サマになってたぜ。しかも背中から触手まで生やしてまるで親玉みたいだった」
「そりゃどうもありがとよ。でも、宇宙に帰ったら何されるつもりだったんだろうな」
「さあ……続きは見れそうもないし、俺はもう見たくねえや」
 二代目の包丁がまな板の上でニンニクを薄切りにしているのをぼんやり見ながら、
「ぜーんぶ嘘だったなんて、すっげー胸糞悪かったからさ」
 しかもそういう風に「設定」されているときた。設定、という言葉が若にはもの凄く気に入らなかった。今までの人生はレールの上にあらかじめ敷かれていて、自分はそこを渡っていただけだと宣言されてしまったかのようだった。いつかの激情も、死にものぐるいで生き残ってきた経験も、最初からそう仕向けられていただけで自分が選んだわけではなかったのだとまるごと否定されたのだ。たまったもんじゃなかった。
 あんな夢は二度と御免だ。
 ふと視線を感じて目を向けると、初代と二代目が作業を止めてこちらをじっと見つめていた。
「――へえ、お前が夢見の悪さくらいで弱音吐くとはな」
「珍しくへこんでるな」
「な、何だよあんたらニヤニヤすんなよ」
 急に恥ずかしくなってカウンターから身体を離したそのとき、リビングからネロの怒号とガラスが盛大に割れる音が同時に響いた。思わず三人が顔を向けると再びガラスの破裂音。また何かやったのかと初代が呟き、これ幸いと若はキッチンから離れてリビングを覗いた。
 事務机に座っている髭にビール瓶二刀流を振りかぶろうとしているネロの姿があった。
「!? ちょ、ストップストップ!」
 すかさず後ろから羽交い締めして髭から距離をあけた。これくらいで髭がダメージを受けるとは毛頭思っていないのだが、若は以前ワインボトルでやられたクチである。あれは痛かった。なのでとっさに手が伸びたのだ。頭にヘルメットのごとく被せていたアダルト雑誌を下ろし、髭が片手で実に軽く謝ってくる。
「すまんすまん、つい空き瓶溜めちまって」
「貸し一つだぞおっさん!」
「離せー俺を止めるなー! こいつの頭でかち割って破片を部屋にばらまいてやるんだー!」
 般若の如し顔で叫ぶ。ご乱心だ。おまけにソファーに座っているバージルが振り向いて血管が切れそうな顔をしている。とばっちりの気配を感じて避難しようかと思った瞬間、ネロが両手に掴んでいたビール瓶が握力でバッキンと割れた。
「い”っ」
 弾みで拳を作ってしまいネロの掌に深々と破片が刺さる。完全にネロの自滅だ。若は呆れて腕を離し、はっけよいのポーズで動きを止めて唸っているネロの左手を掴みあげた。右手は悪魔の外殻があるから傷は付いていないだろう。
「ったく部屋じゃなくて手の中に破片バラまいてどうすんだよ」
 掌を上にし、刺さっている破片を抜き取ろうとして、
 ――宇宙人さ。
 若の時間が止まった。
 ――俺は宇宙人。お前も宇宙人。というかこの事務所に住んでいる奴全員宇宙人。
 あれは夢だ。現実じゃない。
 ――俺たちは宇宙人で、地球外生命体で、この星で生まれたんじゃないんだ。
 掌を凝視したまま固まった若に気づいてネロが怪訝そうに顔を上げた。
「若? どうし」
 そこで重大なことに気づいたかのように言葉が途切れた。二人の視線の先にある掌から緑色の液体が滴り落ちている。小さな切り傷はすでに治っているのだが、破片が刺さったままの部分は未だに垂れ流し続けていた。肩が硬直し、握りしめる若の手に不自然な力が込められる直前、ネロが乱暴にそれを振りほどいて左手を身体の後ろに隠しながら後退した。明らかに動揺している表情は、ある意味若に答えを出していた。
 誰も喋らなかった。
 生活音ひとつ聞こえなかった。
 しばらくの沈黙の後、若はようやく口を開いた。
「……手ぇ、……洗ってくる」
 ネロが何か言おうとするのをきびすを返すことで防ぎ、うつむき加減に足早にその場を後にした。ドアを開けてすぐ閉めると後ろ手に鍵をかける。止めていた息を鼻から吸い込む。
 一刻も速く確かめたいことがあった。
 若は右手の人差し指を横向きに口元に近づけると、第二関節の辺りに力の限り噛みついた。皮膚を裂いて骨まで歯が届くくらいの勢いでないとすぐ回復してしまう。ガジガジ噛み切っていくうち舌に液体の感触がした。慣れ親しんだ味のはずなのに、初めて口にしたような――
 落ち着け。
 口を離して歯形の傷を見下ろす。まごうことなき緑色の血がそこから流れている。気が遠くなりそうな光景だった。本物の悪魔だって赤い血を持っているのになんだこれは。ダメだ落ち着け、これは夢だ。恐らく自分はまだ眠ったままで、これはさっきの夢の延長線上のことなのだ。
 無理だった。
 二秒もせず塞がった傷にもう一度噛みつこうとして、背後のドアのすぐ向こうに気配を感じた。反射的に振り返ってドアから離れ、そこで銃をコートのホルスターに仕舞いっぱなしだったことに気づいた。コートは二階だ。今は上半身裸なのだ。
「……入ってくんな」
 警告を込めて言うも端から効果がないことは明白である。向こう側の人物は扉を開けようとしてガチャガチャとドアノブを揺すった。すぐに開かないことを察したのか音は即座にピタリと止み、そして、双方がなにもしない妙な間があいた。
 突然、ブン、という電磁波のような低音が扉から広がった。
 吹けば飛ぶような木製の扉の真ん中からいきなり腕が飛び出してきた。壊したのではない。腕と扉の境目には波紋が生じており、扉自体は無傷のままだった。それと同時に蜂の羽音を何倍にも大きくしたような嫌な音が響く。まるで水の中をくぐるように腕はしばし辺りをさ迷うと一度引っ込み、かと思いきや今度は腕の主が身体ごとこちらに現れた。最初からそこに扉などなかったように通り抜け、青いコートをなびかせて若の前に立ちはだかる。
 バージルにそっくりの生命体が、バージルにそっくりの声で言う。
「何か言いたげな顔をしているな」
 夢なら醒めてくれ、と若は思った。醒めることが出来るなら何でもする。
「……あんたも、なのか」
「どういう意味だ」
「悪魔じゃないのか」
 バージルは少しだけ笑った。
「俺の口から『宇宙人』という言葉を聞くのは嫌だろうな、今の貴様は」
 それからバージルは持っていた閻魔刀をスラリと抜き、左の掌に刃を当てると躊躇いなく切った。おびただしい量の緑の体液がぼたぼたと床に落ちる。
「GGY液。ヒトでいう血液だ。宇宙人――エイリアンは皆これが流れている。貴様にはこれが昨日まで赤く見えていただろう。何故なら俺たちは睡眠中体液にXXXXを注入して、一時的にこれを赤色にしていたからだ。だが、今日でその必要はなくなった」
 傷が塞がり、閻魔刀がこちらに向けられる。
「半魔ごっこはもう終わりだ」
 洗面所の蛇口から、ぴちょんと水が滴った。
 鏡棚の端と端に若とバージルの姿が映っている。洗面所は狭い。大人二人がやっとすれ違えるくらいの広さしかない。若の背後は窓と壁だけだが、その気になれば壊して脱出はできる。
 しかし、その後はどこに向かえばいい。
 自分のルーツが揺らいでいる今、全部やり直して、最初から振り出しに戻れというのか。
「夢じゃ、」
 若はうわごとのように呟く。
「本当に夢じゃないのか、これ」
 バージルは死刑を宣告した。
「現実だ」
 そしてバージルはこうも言った。
「貴様が見たという夢は、実際にあったことだ。――ずっと前に」
「え?」
 含みのある言い方に疑問を覚えたそのとき、キーンという高音が両耳に届いた。次いで空間が波打つように歪みはじめ、床が傾いているような錯覚に陥って、きちんと立っているのかさえ認識できないほど平衡感覚がズレた。ヒドい車酔いをしたかのように急激に気分が悪くなり、後ろに倒れそうになったところでバージルが腕を引っ張って無理やり起こした。
「立て」
「! 離せてめえ!」
 二の腕を掴む手を振り払おうとして、

「ダンテ、ラブプラネットに向かうんだ」

「――は?」
 唐突な言葉に意味が分からず硬直する。それに構わずバージルは鼻先を近づけて畳みかけるように、
「いま、初代がジャミングを掛けた。だから今はこちらの声は『あちら』に届いていない。が、効果は長続きしないだろう。だから手短に言う。ラブプラネットだ。場所が分からんとは言わせないぞ」
「ラ――、なんだって? あちら?、」
「時間がない。疑問はすべてそこで答える」
 言ってバージルは人差し指の先を若の額にトンと押し当てた。ピリと電流が走り、直後に脳内に地図が浮かび上がって、事務所からラブプラネットまでの道のりを示す白い光の線が複雑なルートで引かれていく。
「その通りに行け、道を外すと捕まる。後ろの窓から脱出しろ。後は俺たちがやる」
 それからバージルは乱暴に若から身体を離すと背を向けた。
「行け」
 ワケが分からなかった。どれ一つとしてついて行けない。いっぺんに色々な事を指示されて混乱することしかできない。かろうじて、
「あんた――、誰なんだよ?」
 それには答えずバージルは閻魔刀を扉に向けて構え、
「貴様が今回も元に戻らなかったら、こうしようと全員決めていた」
 そう言った。
「行け。ここにいれば処分されるぞ」
 なおも固まっているとついにバージルは振り返って叫んだ。
「のろのろしているな! 早く行け!!」
 空間の歪みが治まったのと、バージルが扉を通り抜けて消えたのと、若が窓と壁を蹴りでぶち壊したのは同時だった。
 事務所の裏側だった。何も変わらぬ青空が広がっていた。それを見たときすべてが夢だったのではないかと思ったが、外に出た瞬間気持ち悪さがぶり返して思わず膝をついてしまった。胃からせり上がるものを何度か飲み込んで耐え、それから若は事務所を振り返った。
 事務所の上の青空に、巨大な亀裂が走っていた。
「……」
 その亀裂の隙間から、長身の人間とタコを組み合わせたような生物が次々と降りてきて事務所の屋根から侵入していた。若に気づく様子はない。頭の中にまた地図が浮かび上がり、ラブプラネットへの道のりを示す白い光の線に注釈が書き込まれる――STEALTH ROAD,GOOD LUCK.XXX
 なんなんだよ、まったく。
「……わっけワかんねー、けど、姿を見えなくする道ってわけか」
 つぶやき、膝に手を置いてどうにか立ち上がった。あらかじめ用意されていたご丁寧なナビゲーション、お前はこの通りに走れというわけだ。
 舌打ちが漏れた。
「くそっ」
 気分の悪さが引いて次に来たのは、やり場のない腹立たしさだった。
「くっそ、こっちは丸腰だぞ! 言う通りにしてやるから誰か俺のコート持ってくるんだぞ! あと全部最初から最後まで説明しろよてめーら!!」
 事務所に向けて力いっぱい指さして叫んだ途端、事務所の二階部分から青白い極太のレーザービームが飛び出した。レーザーは360度をコンマ一秒の速度で一周し、二階全部と、二階にいた『敵』を瞬く間に焼き払った。
 誰かが撃った。多分、味方のほうが。
 エイリアン。
 若は事務所を一瞥してからきびすを返し、地図の通りの道を走り出した。
 わずかに余裕を取り戻しつつある中で、事実はSF映画より奇なりって言うのかな、とぼんやり考えながら。




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