ハウスマン





 二度寝をしようともう一度布団を被り直したところで微細な震動を感じた。ベッドが左右に揺れているのだ。構わず若は目を瞑るが徐々に揺れは激しくなっていき、ついには若を乗せたまま床をこすりつつドアのほうに移動し始めた。たまらずガバリと起き上がり、
「なんだよ! 今日こそはもう少し寝かせろよ!」
 ベッドが部屋の半ばでピタリと止まった。が、今度は部屋全体が縦に揺れ始めた。ネロの怒りをそのまま現したかのように物が次々と倒れていき、ただでさえ散らかっていて足の踏み場がない部屋が更に混沌と化していく。そのくらいでは屁とも思わないので若は再び布団をかぶったのだがそれが逆鱗に触れたらしい。まるで巨人が部屋を上下に振っているような激しい震動が始まる。若は意地でも寝ようとしていたのだが、天井のランプに亀裂が走る音がしてやっと観念した。三たびベッドから起き上がり、
「分かった分かった! 起きる! 起きるからもうやめろ!」
 その言葉を聞いて揺れは瞬時に収まった。一拍置いてサイドテーブルに放っていたエボニーが重い音を立てて床に落ちる。不気味に静まり返った部屋の中でドアノブがひとりでに回り、ギイイと扉が廊下へと開かれた。
 さっさと下に行け、と主張しているらしい。
「……世話焼き」
 ボソッとつぶやくと部屋の壁をドンと叩かれた。姿は変わっても相変わらず地獄耳だ。若は床に落ちている革パンを拾ってもそもそと履き、ベッドを元の位置にずりずり戻し、エボニーを拾い上げてサイドテーブルに置いた。震動で落ちた他の物は後回しにする。
 一階に降りると事務机で電話番をしている髭が最初に気づいた。雑誌から顔を上げてハッハーと笑いながら、
「モーニン若」
「モーニン……」
「随分と素敵な起こされ方だったみたいだな。こっちもぐらぐら揺れたぞ」
「正直ちょっと酔った……」
「だから早く起きてたほうがいいって言ったじゃねえか。へたに実体がない分タチ悪いぞ」
 髭も若と同じくらい寝相が悪いのだが、初めの一回で髭も同様の攻撃を食らったのが応えたらしい。最近は叩き起こされる前に自主的に早起きをしている。それが若にも出来れば苦労しないのだが、生憎おかんの鉄槌より遅寝遅起と二度寝の幸せを取るのだった。
 キッチンのほうに行くとこちらにも被害が及んでいた。朝メシ担当のバージルがぶつぶつ文句を言いながら床に落ちた調味料や野菜を取り上げており、対する二代目は何事もなかったようにまな板の上でバゲットをざっくざっくと切っている。
「モーニンおにーさんにおとーさん。ミルクくれ」
 キッチンの入り口から顔を出して手を差し伸べる。冷蔵庫は目と鼻の先にあるのだが、ここが足を踏み入れられる限界なのである。若が以前コンロを駄目にして盛大に火事を起こし数日間キッチンを使えなくするという事件以来、料理担当組がきつくきつく若に出入りを禁止しているのだ。というより若はどうにも相性が悪いらしく、その事件が起こる前から色々やらかしていた。キッチンを出入りする度に何がしか食器を破壊したし、お湯を沸かそうと蛇口を捻れば根本からポッキリ折ってしまった。お前は前世で壊滅的にメシ作りが下手な主婦だったか、生前キッチンで殺された怨霊が憑いているに違いないと皆がいわしめた程である。
 バージルがタマネギを籠に戻しながら立ち上がると恨みがましげな視線をこちらに送った。それからため息をついて冷蔵庫に向かうと真ん中の扉を開き、一リットルのミルクパックを取り出す。それから食器棚のコップを一つ取って出入り口の若を振り返り差し出すが、若が腕を伸ばそうとしたところでスイッと手を引いてそれを避けた。
「おいなんだよイジメか!」
「貴様、さっき起きるのを渋っただろう」
 若は唇をとがらせた。掴み損ねた手をもう一度伸ばして今度こそミルクとコップを奪い取り、
「だぁってよー俺の朝の楽しみは二度寝から始まるんだぞ? まだ朝メシまで時間あるんだからもうちょっと寝ててもいいじゃねーか」
「たるんでる愚弟を見かねたネロの気遣いだろう。少しは応えてやれ」
「余計なお世話過ぎるだろ……」
「それくらいが貴様にはちょうどいい。だが……」
 そこでバージルは何もない空間に目をやり、
「ネロ、次からは別の方法でコイツを起こせ。片づけが毎回あって敵わん」
 一瞬の間のあと、オーブントースターの扉が勝手に開いた。反省しているらしい。この数日で分かったことなのだが、ネロは怒っていると事務所中のあらゆる物に辺り散らし、簡単な応答や謝罪には少しだけ近くの何かを動かすという小さな動きを見せる。不思議なものだ。
 二代目がバターを塗ったバゲットを開いたままのオーブントースターに入れながら、
「そっちはどうだ、だいぶ弱っていると思うんだが。まだ粘りそうか?」
 すべてのバゲットを入れ終わるとオーブントースターの扉がパタパタ動いた。ビミョーらしい。二代目が扉を閉めてツマミを回し、五分加熱にセットするところを見てバージルも次の朝メシの準備に戻った。ベーコンに人参にニンニクと貝型のパスタ、それにトマトピューレの缶詰が出されているところからしてミネストローネかもしれない。腹の虫が鳴った。
 コップにミルクを注ぎながらリビングに戻ると、ソファーで初代が片手のプラスドライバーをくるくる回しながら難しい顔をしていた。真ん中にあるローテーブルの上に工具類が散らばっている。
「モーニン初代」
 後ろから声を掛けると初代は振り返らずに「おう」と一言。構わず隣りに座って手元を覗き込むと、カバーが外れて内部を裸にされた小型ラジオがあった。どうやらまた壊れたらしい。前時代の遺物のような旧型のラジオなので月に一回は調子が悪くなるのだが、そのたびにネロがちょちょいと直していたのであまり気にもしていなかった。が、今は当の本人があのザマなので代わりの修理を他の奴がするハメになり、しかしノウハウも何もないので苦戦しているというわけだ。ジュークボックスは叩いて直せてもこれだけは繊細な作業でしか回復してくれないのだった。
「鏡持ってくるか?」
 訊くと初代は視線をそのままに首を振り、
「実際に手に取ってみないと分からないってさ。細かい動きは出来ないんだと」
「不便だなあ……」
「あとあれも調子悪いんだよな、洗濯機。途中で止まるんだよ」
「そういえばネロの管轄だったっけ」
 と言うより機械系はほとんどネロの受け持ちだ。若が出来ることと言ったら天井の電球の取り替えくらいである。
「ついでに経理もネロだな。あーくそ! さっぱり分かんねー!」
 痺れを切らして初代はラジオとドライバーをローテーブルに投げ出した。若はそれを見ながら心の中で『ネロが戻ってきたらリスト』を開き、記憶の筆を取ると十六個目の項目に「ラジオの修理」と付け足す。仕事がどんどん溜まっていくのを間近で見るぶん事務所中からネロの重いため息が聞こえてきそうだ。
 ダイニングでは朝メシがテーブルに次々と置かれていた。こんがり焼けたバゲットにシリアルを混ぜたヨーグルト、ボウルに山盛りの蒸しチキンサラダと、予想通りミネストローネもある。こうして贅沢な食事が出来るのもある意味ネロのおかげである。最初にこの事務所に来たネロが涙ぐましい節制プランとそのサイクルの基本を作り、そこにバージルと二代目が加わって応用を効かせたので、大の男六人が居ても飢えない暮らしが完成したのだ。本に出してもいいくらいだった。あいつハウスキーパーでもやっていけるんじゃないかと若は思う。
 いつもは計六人が集う場所には五人分の食事と五人分の食器が置かれ、席には五人だけが座った。そして髭と初代の間の余った席の前に卓上型の四角いスタンドミラーを置くと、そこでようやくダイニングには『六人』が集まるのだ。この光景ももはや慣れたものであるし、ジャパン式の食事の挨拶『いただきます』も習慣化していた。神に祈りを捧げるよりは動物や魚の命をいただくと言う言葉のほうがよっぽど現実的だ。いただきます。
「前から思ってたんだけどさあ」
 取っ手の付いた丸型のハニージャーからハチミツをヨーグルトにぐるぐる回し入れながら若が言う。
「そうやって鏡置いてるとなんか死んだ人みたいだよな。教室で自分の机に花瓶が置かれてる感じ。いてっ」
 隣のバージルがベシンと若の頭をはたいた。
「縁起でもないことを朝から言うな」
 斜向かいの初代もモグモグしながら頷く。
「お前たまにそういうところデリカシーないよな」
 鏡からも抗議の声が聞こえた。
『勝手に殺すなよ』
 位置的には若の真正面に鎮座するそのスタンドミラーは、元はトリッシュの置き土産だった。
 事務所で使っていたものだったのだが、トリッシュが自由気ままな放浪の旅を始めてからはめっきり使用する機会もなくなり、洗面所の備品棚の中につっこんでそのままだったのを髭が発見したのだ。有り難いことだった。鏡はバスルームと洗面所くらいにしかなかったし、どちらも壁や戸棚に立て付けられているので持ち運びも出来ない。手に持って移動出来るコンパクトな鏡がないと、この先しばらく何かと不便なのだ。
 何故なら、
「やはり腹は減らないんだな」
 二代目がストロベリージャムの瓶を開けながら言った。鏡に映るネロは一つ頷き、
『その辺りはちょっとラッキーかもな、食費浮くし』
 随分と楽観的だ。まあ元に戻るメドがついているせいもあるが。若はバゲットを口に挟んだままテーブルから半身を乗り出して鏡に顔を近づけた。鏡の中では若の後ろにネロが立っており、行儀わりいと呆れ顔で腕を組んでいる。が、背後を振り返ってもその位置にいるであろう姿はどこにもいない。もう一度鏡を覗き込むと、ネロはさっきと同じようにこちらを見ている。
 思わず、
「ドラキュラみたいだな」
『は?』
「ドラキュラって目に見えるのに鏡には映らないって言うだろ? ネロって今はその逆の状態じゃん」
 そう。
 ネロは現在人間のかたちを取っていない。鏡に映る姿だって概念の具象化のようなもので、実際の身体――ネロそのものは、事務所の建物全体に乗り移っているといった具合だ。事務所は今や人の意志が宿った建造物だった。フォルトゥナで神に取り込まれたときと似たようなものらしい。だから事務所内にある全ての物を自由に動かせるし、建物を揺らすことも出来る。壁や扉や柱に至るまで意識が染み渡っているから、まるで四方八方から監視されているようで最初は居心地が悪かったのだが、事務所になっても相変わらずこうるさくポルターガイストで主張するので三日で慣れた。
 そもそもその悪魔は死にかけだったらしく、事務所の外壁にへばりついていたのをゴミ出しに外へと来たネロが運悪く発見してしまったのだ。というより最初は悪魔だと分からなかったらしい。姿は小さなヤモリそのもので、物珍しさに触ろうとしてこのザマになってしまったと言う。一体どんな能力を持っていたのかは知るべくもないのだが、ヤモリな悪魔の力はどうやら日々小さくなってきているらしく、これはそのうち元の姿に戻るだろうとのことで皆の見解は一致しているため焦ることもなかった。むしろこの際だから建物の老朽化具合を徹底的に調べるとネロは張り切ったほどである。結果、機械系の故障四つ、水漏れ予備軍一つ、漏電箇所二つ、修繕要箇所九つとボロボロの有り様なのが発覚し、さらに経理担当の頭を痛めさせたのは言うまでもない。
 そういうわけで、ある意味正しく事務所の主になったネロは、悪魔の力が切れるまで五人をこき使うのだった。
『今日は朝飯食ったらバルサンだからな。初代、ちゃんと買ってるよな』
「おう」
『バージルはキッチンの床下の貯蔵庫整理な』
「もうすぐ終わる」
『で、二代目は外壁修理』
「あぁ」
『若は屋根裏のシロアリ駆除な』
「エー」
『エーじゃねぇ。あとお前の部屋のベッドにダニいるから。食いもん持ち込むな』
 Oh…と初代から声が漏れ、隣りのバージルが椅子ごと若から身を引いて遠ざかり、若はうぇへへと苦笑いの一点張りである。そして、
『あと……おっさん』
 間を置いて呼んだことに髭は片眉を上げ、スタンドミラーをぐるりと自分側に向けた。
「どうした坊や、俺は昨日中にやることやったぞ」
 といっても悪魔退治の仕事を見事に取ってその日のうちに片付けただけなのだが。
 鏡の中のネロは若干険しい表情で、
『いや、なんかおっさんから変な電波出てるから……』
「は?」
『なんか見えるんだよ。異物っつーの? そういうのが事務所に入ると分かるっていうか。おっさん、何か電波出るやつ持ってないか』
「いんや、特に何も、」
「髭」
 二代目だった。視線を前に戻すと、コーヒーを持つのとは反対の手で向かいの髭に来い来いと手招きしている。
「何だよ」
 髭がテーブルに上半身を乗り出すと、二代目は端からそこに狙いをつけていたかのように迷いなく耳の後ろに手を伸ばし、するりと指を這わせると、
 ブチッ
「い"っで!」
 耳の後ろ辺りを押さえて髭が椅子に飛び退いた。目を丸くして事を見守っていた他の集いが二代目に視線を移すと、二代目は小さな黒いヘアピンをつまんでいた。髭の髪の中から先程抜き取ったようで、短い銀髪が数本絡んでいる。
「……盗聴機だな。よく出来てる」
「マジで?」
 と若。二代目がヘアピンを指さしつつ、
「ここが集音マイクで、ここがメモリーだな」
 初代も興味深々で覗き込んでくる。
「へぇすっげえな、ハイテク過ぎだろ」
「大方ろくでもない女に付けられたんじゃないのか」
 とバージル。耳の後ろを労りながら髭は視線を遠くにやり、そーいえば昨日帰りにブルネットのハニーとランデブーしたなあとのたまっている。髭に悟らせずに付けるとは中々の手練れだ。二代目が指で盗聴機をへし折ると、ネロの視点から見えていた電波は一瞬で霧散した。それから溜め息、
『……あんたいつか女に後ろから刺されて死ぬタイプだな』
「そりゃ頂けねえ。女絡みなら腹上死がいいな」
『んなだから盗聴機なんて付けられんだろ……』
 かくしてこの件は未遂に終わったのだが、その後外出する度に髭が電波を発して帰ってくることが発覚したため、以前からもあったのではと危惧して髭の部屋を大捜索する羽目になるのは数日後のことである。
 ちなみに、朝食後には予定通りバルサンが焚かれたのだが、家守と化していたネロにはバルサンは大ダメージだったようで、しばらく事務所内の鏡という鏡から吐き気を催す声が聞こえてきたため皆を寝不足にさせたとかなんとか。



130409



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確かこれ書いてたときスティーブン・キングのローズレッドを見てた気がします。






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