「暑い!」
まるでサウナに閉じ込められたみたいに、全身を圧迫してくる猛暑。どうにかしてその魔物を追い払おうと試みるも、少し叫んだくらいではびくともしなかった。
するとそれに呼応するかのように隣から「……暑い………」と、これまた地獄の底から絞り出したような声が耳に流れ込む。…うん、一瞬だけ背筋が凍った。
「ミ、ミステル……だいじょうぶ……?」
「大丈夫に見えますか?」
「見えませんすみません」
「ええ…いいんですよ別に。今の最大の敵はこの暑さですから、あなたに構っている暇なんてありませんし。」
日光を遮るものが何もない砂浜に出てから、芳香剤のCMの漂う香りよろしくどす黒いオーラを放ち続けるミステル。このままここに居たら、魔王か何かに進化してしまうんじゃないだろうか。
とはいえ、せっかく遠出して海まで来たのだ。いくら天気が快晴で予想以上に気温が上がったからと言って、早々に帰ってしまうのはもったいなさ過ぎるというもの。
なにか、海を離れずに熱を鎮める方法はないものか………そうだ!
「海に入ろう!」
「ハァ?」
「うっ…!!で、でも、だって水だよ!冷たいよきっと!」
「…はぁ、すみません。せっかくのお誘いですが、ボクは遠慮しておきます。」
「…そっか………ごめんなさい。」
よく考えたら、確かにミステルは磯臭い匂いとか、潮のべたべたした感じとか苦手そうだよね。
いくら自分が涼を取りたいからって、人に嫌な思いをさせてまで強制するのはよくない。
…でも、でも!!自分が海に入りたい気持ちまで我慢するのは不公平だよね!!?
「あの…」
「いいですよ。海、入ってきたらどうです?」
「えっ、なんで何も言ってないのに分かったの?エスパー!?」
「…それくらい分かりますよ。あなたほど分かりやすい人はそうそう居ませんから…。」
「そ、そうなのかな?…まぁいいや、じゃあ少しだけ遊んできます!」
「ではボクはあそこの休憩所にいますから。適当なところで海から上がって来てください。」
…あったのか、休憩所!!
日陰も魅力的だけど、もう気持ちが完全に海に入るモードになってしまった私は、少しだけ海を楽しんだら早目にミステルの所へ行けばいいか、なんて考えた。
スカートの裾を結んで、脱いだ靴を手に持って、足をぱしゃぱしゃと海に泳がせる。
水着なんて持って来てないから足だけだけど、それでも水と戯れるのは暑さを忘れるくらい気持ちいいし、何より楽しい。
やっぱり我慢しなくて良かった!…なんて一人で満足感に浸っていると、視界の端になにかピンク色のキラキラしたものを捉える。
(…あっ、貝だ!すごい、形キレー…!)
波間にちらちらと見え隠れするピンクの貝殻は、波に揺られて砂浜を踊っている。
…アンティークとはちょっと違うけど、これをミステルに見せたら喜んでもらえるかな?それとも、子供っぽいとか言われるのかな。
まぁでも、ミステルに渡すかどうかを別にしても、今日の思い出にひとつ持ち帰ってもいいかもしれない。そう考えた私は、早速その貝殻を捕まえにかかった。
…はずだったんだけど。
数分後、私が手に持っていたのは形の良い流木だった。
手頃なサイズにこの曲線、そして何とも言えないこの朽ち加減…!!
完全に目移りしてしまった私は、お目当ての流木を手に入れて大満足だった。
これならミステルも興味を持ってくれるはずだ。自然が創った芸術品の美しさを二人で分かち合えたら、それは最高の思い出になるかもしれない。
そんな想像をしながら、早速ミステルの所へ戻ろうと休憩所の方へと視線を向ける。
…でも、いなかった。
さっきまで確かに休憩所の椅子に座ってたのに、ミステルがいない!
一瞬パニックに陥りかけたものの、彼は女の子を一人置いて帰るような人じゃないはず、と思い当たる。
トイレにでも行ったのかもしれない。そう結論付けた私は、足を乾かす時間もいるし、とにかく海から上がってミステルが戻ってくるまで休憩所の日陰で待つことにした。
それから、10分。
足は完全に乾き、纏わり付く砂もなくなったので靴をはいた。
きょろきょろと辺りを見渡すけど、やっぱりミステルの姿は見えない。
いくらなんでも、もう少しで戻ってくるよね…?
少しだけ不安になりながらも、トイレが遠い場所にある可能性だってあるわけだし、暑さでお腹が痛くなっちゃった…かもしれないし、ここから私が動くと余計に会えなくなりそうだったから、そわそわする腰を落ち着けてベンチで彼の帰りを待つことにした。
さらに、10分。
どうしよう…まだ、戻ってこない。
A案、トイレの行きか帰りで暑さにやられて倒れている。B案、私が海に夢中になるあまり呆れて先に帰ってしまった。C案、眉目麗しい彼を狙った誘拐犯が彼の背後に回り………。
どくどくと心臓の音が胸をしめつけるのは、暑いからじゃないと思う。
嫌な予感に、休憩所を飛び出して今すぐ彼の姿を探しに行きたい衝動に駆られる。
…けど、一歩がどうしても踏み出せない。もし、今こっちに向かってるとしたら、入れ違いになってしまうかも…。
そして、さらに10分。
もう…いいよね?
事件や事故だったら、本当に取り返しのつかないことになる。
私のせいで………イリスさんや町のみんなに何て言ったらいいのか分からない。
それに、ときどき嫌味を言われることはあっても、ミステルがいなくなっちゃうなんて絶対に嫌だ!
砂の混じる地面を踏みしめ、私は立ち上がった。
「…おや、どちらへ行かれるんですか?」
「へっ」
「ボクの姿が見えなくて不安でしたか?」
「…………っミステル〜!!!」
「!!」
周りに人がいるのも忘れて、私はミステルの服を引っ張り胸元に顔を埋めた。
よかった。ミステルがいなくならなくて本当によかった。
わんわん大声を上げて泣きながら、彼の服にしがみ付いたら、なんと背中を優しくポンポンと撫でてくれた。
「…すみません。意地悪をしすぎましたね。」
「え…?」
「ボクがいなくなって、あなたがどんな反応をするか、見ていたのですが…」
「そんな…っ!!本気で心配したのにっ!!」
「ええ。悪い事をしたと反省しています。」
「………」
「本当にすみません」
「…………バカ!もういい、帰るっ」
彼に渡すつもりだったものを投げ捨てて、私は歩き出した。
ミステル相手にバカ、だなんて見当違いもいい所だけど、このときの私は怒りやら悲しみやらでとてもじゃないけど冷静になれなかった。
彼の様子から反省の色が濃いのもちゃんと伝わってくる。…けど、今の私の気持ちをどこかにぶつけずには居られなくて、彼を責めてしまう。
つくづく子供っぽいな、なんて自嘲しながら、彼に背を向けてスタスタと帰路を急ぐ。
しばらく早足で歩いたけど、相変わらずミステルは後ろからついてくる。
なんでって…当然だよね。帰るところ、一緒だし…
気持ちは少し落ち着いたけど、彼を許す気にはならなかった。わかってる、意地を張ってるだけなんだって。
「あの…道、そっちじゃありませんよ。」
「!!」
「その…少しだけ、話を聞いてもらえませんか?」
「………」
「………本当は、違うんです。」
「………何が?」
「あなたの様子を面白がって見ていたんじゃなくて…本当は、これを」
そう言って差し出された手のひらの上にあったのは、私が追いかけていたあのピンク色の貝だった。
「これを…拾っていたので、あなたの元に行くのが遅くなってしまいました」
「え………」
張っていた意地が、スッと引いていく。
…と同時に、彼への申し訳なさが押し寄せてくる。
だって、あれだけ海に入りたがらなかった彼が、私のことを見ててくれて、こんなに小さなものを拾うために強い日差しの下、塩水で手足を濡らしてくれて………
「……うっ」
「…?」
「うえぇぇぇぇん!!!!」
「!!」
本日二度目。私はミステルの胸元に飛びついて咽び泣いた。
ごめんなさい。私のことを思っていろいろしてくれてたのに、意地を張って、責めてごめんなさい…!
謝罪の気持ちは言葉にならず、彼の服を引っ張ってただひたすらわんわんと泣く。
綺麗なリボンがちょっと濡れてくしゃっとなってしまった。本当にごめんなさい…!
でも、ふと見上げるとミステルは蔑むでもなく、呆れるでもなく、慈しむような目で私を見ていた。
そっそんなに見ないで。なんかすごく申し訳ないし恥ずかしい。消えてなくなりたい。
「…あなたを待たせて不安にしたばかりか、嘘をついて怒らせてしまいました」
「……っ、う、」
「ボクの落ち度です。…なので、なまえさんが自分を責める必要はないんですよ」
「うえぇぇぇぇん」
泣くなと言われると涙腺が緩んでしまう、泣いてしまう。
止めなくちゃと思うのに止まらない、熱い雫が次から次へと溢れ出てくる。
すると先ほどのように、ミステルの手が背中を優しくポンポンと撫でてくれた。
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「本当に…すみませんでした。今回の件は完全にボクが悪かったです。」
「そう、かもしれないけど………」
「お詫びと言ってはなんですが…ボクにできる範囲で、あなたの要望に何でもひとつ応えさせていただきます」
「えっ、本当に……?」
「……ええ、構いません」
「そうしたら…そうしたらね…」
「?」
「今からもう一回、海に戻ってもいい?」
「えっ、そんな事でいいんですか?」
「うん!」
「そんな…別に、我慢しなくて良いんですよ…?」
「いいの、ちょっと忘れ物を取りに戻るだけだから…!」
「??」
私はこみ上げる笑いを抑えきれず、にんまりと口元に弧を描いた。
とっておきのプレゼントに、ミステルがどんな顔をするか今から楽しみだ。
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「…あら、その貝殻のネックレス…綺麗ね」
「ありがとうございます!これ、とっても気に入ってるんです!」
「…ですって、ミステル。良かったわね。」
「全く…聞こえてますよ。姉さんも、からかうのはやめてください。」
「あらあら、私が声をかけるまで気付かないくらい、そのチェーンを付けるのに真剣だったくせに」
「姉さん!!」
「…あと、時々そこの流木を眺めたり触ったりしてるのも知ってるわよ?」
「姉さんっ!いい加減にしてくださいっ!!」
ああ、あのミステルをこんなに簡単に振り回しちゃうなんて…さすがイリスさん、恐るべしです。
[ END ]
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