どうしてこんなことになったんだっけ。いきなり近づいてきた牧の整った顔に驚いた瞬間、文字通り唇を奪われた。
 キスは何度もしてるし、牧の家にだってもう二回ほどお邪魔した。一線を越えてはいないものの、付き合ってから通るべき道は順調に通ってる。だけど、それに慣れるかどうかは別問題だ。
 “あ、これからキスするんだな”という流れがあるのは心の準備ができるからまだいい。それより、不意打ちでされるキスに私はとことん弱い。熱い唇が離れたあと、至近距離で見る牧の顔はとっても意地悪でしてやったりと口の端をつり上げて笑うからそれがかっこよすぎてたまらなく恥ずかしい。
 本人が気づいてるかどうかは知らないけど、ゆっくり近づいてするキスのあとは必ず優しく微笑んでくれるのに、今みたいな時は絶対といっていいほど意地悪く笑う。

「ペナルティ、三回目だな」
「っ――そ、それやめてって!」
「苗字で呼んだら罰ゲームだって言っただろう」

 部活終わりの帰り道。まだ学校の敷地内だというのに「牧」と呼ばれたことに過敏に反応したのか、ぐいっと顎を持たれていきなりキスをされた。
 こうなったのは数日前、ノブと「好きな人の声っていいよね」と話したことが発端だったような気がする。そのままその話を牧にもしたら、牧も私の声が好きだと言ってくれて。

――早くその声で、名前を呼んでもらえたら嬉しいんだがな。毎回。

 誰もいない教室でそう言われたことを思い出すたび照れ臭い。名前呼びをすることになった原因はこの前遊びに行ったときのゲーム対決で調子に乗った私自身のせいではあるけど、やっぱり慣れない。それに牧って呼ぶのも結構好きだったりするんだけどな。
 だから、二人きりのときは“紳一”でそれ以外では“牧”。その両立をうまいことさせようと頑張ってるところなのだけど、これがなかなか難しい。

「そもそも……牧とするキスを、罰って思いたくないんだけど」
「随分かわいいことを言うな」
「だって……嫌だとは、思ったことないし」
「罰ゲームとは言ったが、嫌がることをしてるわけじゃないぞ」
「どういうこと?」
「お前の心臓に負担をかける嫌がらせだから、キスじゃなくてもいいんだぞ」

 繋いでた手の指を絡めとる牧はしれっとそう言った。普段なら「嫌がらせ」なんて言わないのに、テンパる私を見て楽しんでるに違いない。
 私が不意打ちに弱いってことも分かって、全部計算でやってたんだと確信した。キス以外に心臓に負担がかかることなんて想像しただけで耐えられない。早死にさせたいのか。

「が、頑張るので……今はまだ勘弁して、ください……」
「ああ。頑張れ」

 ぽんと頭を撫でられたおかげで、痛いくらい鳴ってた胸の鼓動が少し落ち着きを取り戻す。こうやって牧に褒められるのは好きだ。頑張って良かったなって思うし、嬉しそうに微笑む牧の顔を見るとまた次も頑張ろうって思えるから。
 その日の夜、どうしたら名前呼びにシフトチェンジしていけるか知恵を絞った。その結果、頭の中でも“牧”と呼んでしまっていることに原因があるのでは? なんて考えに辿り着いて、翌日からは学校で見かけても脳内で“あ、紳一だ”と思うようにしようと固く決心して眠りについた。


***


 不意打ちキスによる心臓破壊をくらってから早いものでもう五日が経過していた。校内にいるときはいつも通り苗字で呼んでるし、二人きりになった瞬間の名前呼びへの移行も慣れてきた。
 思いのほか早かった私の成長に驚いたのか、この前は紳一に「凄いな。嬉しいぞ」なんて思いきり褒めてもらえたからとても気分がいい。我ながらお手軽な女だなと思うけど、それなりに苦労したから喜びもひとしおだ。

「あ、そういえば神。さっき牧と思いっきり当たったけど大丈夫だった?」

 カナちゃんが諸々の片づけをしてくれてる間にミーティング内容を纏めていたとき。日課のシューティング練習をしようと横を通り過ぎた神を見てさっきのチーム戦を思い出し咄嗟に声をかけた。勢いよく衝突した二人を見たのは久しぶりだったからビックリしたけど、本人はきょとんとしてる。

「あぁ、大丈夫ですよ。久しぶりに豪快に吹っ飛ばされましたね」
「すごい音したから少し心配だったけど、大丈夫そうならよかった」

 身長はぐんと伸びたし、日頃の鍛錬の成果か、体格もすっかりよくなった神に前ほど気を遣うことはなくなってた。こういうの、なんていうんだろう。母性本能ってやつなのか、後輩の成長に少し感動してしまう。

「ナオ、更衣室全員出たぞ」
「あ、じゃあこれ終わったら最後にチェックだけしてくるね」

 制服に着替え終わった紳一に声をかけられ、残りのメモを素早く記入する。この前はノブの忘れ物があったし、やっぱうちらが確認しないとダメだねなんてカナちゃんと話したのはつい最近のことだ。
 それを待っててくれてる紳一を見て、ふと怪我をしてないか聞いたほうがいいのかなと悩む。神はともかく、紳一が人とぶつかってどこか痛めるなんて想像つかないけど、それくらい凄い音がしたし、ほんの少しの違和感が後に響くこともある。
 私の視線に気がついた紳一の「どうした?」の声色と細められた瞳はとても優しくて、頬がふにゃりと緩んだ。

「あ、いや。さっきの試合でね、神とぶつかったやつ」
「あぁ。何かあったか?」
「ううん。大丈夫だとは思うけど、紳一もとくに怪我とかしてないよね?」

 きょとんとした紳一の可愛い顔に数秒見つめられ「ごめん、そんなわけなかったよね」と笑って誤魔化したけど、その後も目をぱちくりさせてた紳一は小さく笑ったあとぽんと私の頭に大きな手の平を置いて撫でてきた。みんながいる体育館ではちょっと恥ずかしいからやめてほしいけど、心地いいのも事実だからなかなか制止できない。

「心配してくれたのか。ありがとうな」
「いや、まぁ、選手の体調管理もマネの仕事だし」
「そうか。……それにしても、随分成長したな」

 やけに嬉しそうに頭を撫でる紳一の様子とその言葉に疑問を抱いた。けどそれはほんの一瞬だけ。
 紳一が嬉しそうな理由も「成長した」という言葉への引っかかりも、この場にいる全員のリアクションで全て気がついてしまった。

「わ、わた、私……いま、なんて言った……?」
「もう一度呼んでもいいんだぞ」

 にこにこ笑ってる紳一、奥の方で必死に笑いを堪えてる武藤、両手で口を覆ってにまにましてるカナちゃんとその隣で驚いてるノブ。そして――。

「なんだか新鮮ですね。俺も今度リコちゃんに“宗一郎”って呼んでもらおうかな」

 「ね、どう思います?」とわざとらしく私に向かって言う神の腕を思い切り叩いてもびくともしない。去年と比べて私をいじる回数が増えた神はどうやら中身も大分逞しくなったようで憎たらしい。
 どんどん熱くなっていく顔を両手で隠しながら逃げるように更衣室へ向かって走った。途中武藤の横を通り過ぎるとき「焦って転ぶなよ」と言われたけど、そこに心配の色なんてこれっぽっちもない。にやにやと人をおちょくるような言い方に「うるさいバカ!」と叫んでみたものの、きっと今頃ケラケラ笑ってるに違いない。

 後日、徹底して“牧”と呼ぶ私の声帯は常に強張っていたし、暫く部員たちやカナちゃんには「紳一って呼んでもいいのに」なんていじられるし、紳一はいつも笑いを堪えながら「なんだ?」と私の頭に手の平を乗せてくるし、とにかく散々な数日間だった。