二月十四日。朝からどこか落ち着きがなかったり、もらった義理チョコの数を競ったりしている男子たちの様子は実に微笑ましい。義理チョコの数のことで休み時間いっぱいにお喋りできるんだから、誰かが本命チョコをもらったともなればそれは大事件。
「あっ、戻ってきた!!」
「清田! 何だったんだよ!!」
「んだよ……。別になんでもねぇよ」
私の方を気にしながら広瀬君たちを適当にあしらうノブは居心地が悪そう。そりゃあ、休み時間になるたび誰かから呼び出されればそろそろ私の顔色を伺うだろう。別に気にしないという意味を込めて「行ってくれば?」と送り出しはしたが、こうも立て続けだとなんとも言えない気持ちになってくる。
この前ナオ先輩が言っていた「覚悟しといた方がいいかも」という言葉の意味、今ならよく分かる。毎年この日ばかりは牧さんも自由な時間が全くなかったそうで、休み時間やお昼休み、部活前後は頻繁に呼び出されていたそうだ。モヤモヤしながらそれを見送るナオ先輩の姿が目に浮かぶ。去年の今日に行けるなら「心配しなくても牧さんの本命はナオ先輩なんで安心してください!」と励ましてあげたい。
未来の私が今の私に何か言いに来てくれたらいいのに、なんて馬鹿げたことを思ってしまうくらいには退屈だ。ノブが近くにいない休み時間ってこんなに長かったっけ。私たちの場合は最初から学内公認のカップルではあるものの「今日くらいいいでしょ」といわんばかりの呼び出しラッシュ。彼氏がモテるというのは一見誇らしく嬉しいことかもしれないが、いざ目の前でそういった光景を見るのは――。
「……怒ってる?」
「別に? 行けって言ったの私だもん」
拗ねた言い方をした私に再度声をかけようとしたノブが視界に映ったけど、すぐに予鈴の音が響く。分かりやすく肩を落としたノブの頭にはしゅんと垂れた犬耳が。おまけに元気をなくした尻尾まで見えた気がして面白かった。
***
LHRが終わってすぐに廊下から顔を出してきた他クラスの女子たち。目当ては人によって違うけどその中にはしっかりノブを呼ぶ子もいて。いったい今日何人目なんだろう。ちなみに、私が持ってきた本命チョコはいまだリュックの中。
「あはは、清田の顔。めっちゃカナの顔色伺ってる」
「気にしなくていいって言ってるのに」
「ほっぺ膨らましてなに言ってんの」
「……ノブがかっこいいってこと、凄い勢いで発見されたなと思っただけ」
「でも安心しなよ。清田、チョコは全部受け取ってないみたいだから」
「え!?」
ペットボトルに口をつけながら言ったなっちゃんの言葉につい過剰反応してしまった。朝からの呼び出しは全部チョコレートと告白のセットに違いないのに。
「そりゃ断るでしょ。普段あんなにカナにベッタリなんだし……」
「でもチョコは……義理もあるだろうし」
「なにー? 清田と喧嘩した?」
私となっちゃんの間から顔を出し、さり気なく肩に手を置いてきたのは伊達くん。私の浮かない顔を見てどこか楽しそうなのは気のせいだろうか。
「伊達く……って、凄い荷物だね」
「大きめの袋持ってきて良かったよ」
持参してきた紙袋の中には市販品から手作り感満載のラッピング袋がずらり。“モテる”のベクトルが違いすぎて笑えてくる。これじゃあ本当に王子様…というより、まるでアイドルだ。彼に好意を抱かれていただなんて嘘みたい。
余裕の笑みを浮かべてる伊達くんは後ろで殺気立つうちの男子たちの目なんて気にも止めず右手を私に差し出してきた。え、なにこれ。
「カナちゃんはくれないの?」
「っとぉ〜、すごい自信」
「そりゃあ実績あるし」
重たそうな紙袋を少し持ち上げた伊達くんがこのクラスを生きて出られるか不安になる。まぁ、後ろで悔しがってる男たちに何かする度胸なんてなさそうだけど。
私のリュックには本命チョコと部員用のチロルしかなく、残念ながら期待に応えることはできない。お灸を据えるに値するかは分からないが「調子に乗らないように」と差し出されていた右手を払い落とそうとした瞬間、大好きな香りに思い切り包まれた。
「っ――オレの! 彼女に……っ、何の用だよ!?」
頬に当たるブレザーの生地が冷たい。今度は外まで呼び出されていたのだろうか。ぎゅうっと強く頭を抱え込まれてるせいで目の前は真っ暗。ばくん、ばくんと鳴る激しい鼓動と荒い呼吸のノブに改めて強く抱きしめられたせいか、こっちの心臓までつられて早く鳴りだす。伊達くんに何か言ってる姿を覗き見ればどこか焦った表情だ。
「うおっ、すげー汗。清田が朝から他の女子のとこ行ってるって聞いたから、カナちゃん慰めよっかなーと思って」
「っ、行ってねーよ! 心はずっとここにあんだよ!」
Jポップの歌詞か。そうツッコみたくても私を抱きしめる腕の力が一向に緩まないせいで、二人のやりとりをただ聞くことしかできない。ノブはすっかり敵意剥きだしにしてるけど、きっと伊達くんはわざとA組に来てあんな催促をしたんだと今やっと気がつく。なんて男だ。そりゃあモテるはずだ。私はとんでもなく大きな魚を逃したのかもしれない――けど。
「〜〜っ、ノブ! 苦しい!」
一瞬緩んだ隙に顔を出し、新鮮な空気を取り込む。真っ先に視界に入った伊達くんは「お、いつものカナちゃんだ」と意味ありげな笑みを浮かべてる。なんか恥ずかしいな、それ。
「あ、ありがと……」
「じゃあホワイトデーに期待しとく」
ばいばいと手を振る伊達くんの顔はどこか満足気。一体なんのことかと焦りまくっている余裕を失ったノブに胸の奥がきゅんとしてしまうんだから、私はやっぱりこの男に心を奪われっぱなしなのだ。
「何された、伊達に」
「されてないって」
「……また口説かれたんだろ」
「はぁ!?」
反論しようとしたら、目の前に出されたのはノブのスマホ画面。そにはLINEのトーク画面が開かれていて“カナが伊達くんに口説かれてるから早く戻ってきな”という文章の犯人はまさかのなっちゃんだった。
「はぁ……水野、サンキューな」
「ちょっ、なっちゃん!」
「いつもウザいくらいいちゃいちゃしてるのに、急にそれがなくなるとこっちが調子狂うんだもん」と悪びれもなく言うなっちゃんの意見に他のみんなまで同意している。見世物じゃないのに、ノブが関わると全部見世物みたいになってしまうんだから本当やめてほしい。
力こそ緩んだもののまだ私を離そうとしないノブの額は汗でびっしょり。あの一文だけでどれだけ焦って走ってきたんだろう。ポケットに閉まってたハンカチで汗を拭ってあげると手首をやんわり掴まれ甲に熱い唇が吸い付いた。強い眼差しに射抜かれ全身の毛穴から変な汗が噴き出そうになる。
もう用事が済んだからなのか、なっちゃんが気を利かせたのか。おそらく後者だろうけど、いつの間にか教室内には私たち二人しかいなくてノブの鼓動の音が落ち着いていくのと反比例して今度は私の心音がうるさく鳴る。
「焦った」
「今日一日呼び出されてたノブが言う台詞?」
「オレは全部断りに行っただけ。チョコも、義理だろうがなんだろうがカナのしかもらわねぇって決めてんだよ」
そう真っ直ぐな目で言われ、さっきのなっちゃんの話は本当だったんだと少しだけホっとした。
壁を背にずるずると座りこんだノブ。その脚の間にお邪魔すればすぐに体を引き寄せられ耳を甘噛みされた。
「っ――、ちょっ」
「あいつに渡した? チョコ」
「……渡してないよ」
安堵の熱い息が耳に直接かかってくすぐったい。髪を撫でたり毛先を指で遊ばせたりしながら黙りこくってしまったノブはどこかいつもと様子が違くて余計緊張してきた。「どうしたの?」とおそるおそる声をかけると、真剣な顔で見つめられ思わず体が固まる。私がその顔に弱いって知っててわざとやってるんじゃない……?
「あいつ……伊達だけはダメ」
「えっ」
「マジで。隙あらばで狙ってっから。……ぜってぇ渡さねぇ」
“やきもち”なんてかわいいやつじゃない。いつだったか、中学の男友達を元カレと勘違いして暴走したノブを思い出して顔が一気に熱くなる。そういう時ほど静かになるノブは卑怯だと思う。垂れ耳も尻尾も今じゃちっとも見えなくて、私を抱きしめて離さない大きな体をした一人の男に私の心臓はそろそろ破裂しそう。
このまま流されてはいけないと判断し、慌てて自分のリュックを取りにノブと物理的に距離をとる。背中を向けこっそり深呼吸をしようとしても、痛いくらい突き刺さる視線のせいで吸った息は胸までしか入っていかない。
「オレの本命は朝からちっともくれる気配ねーからさ」
「それは……放課後に渡そうって決めてたから……」
「……なんで?」
「あっ、あんたが……このシチュエーションがいいって……」
保冷剤のおかげでまだ冷えてるチョコレート。それを持ってノブの横に座りなおしながら、数日前ナオ先輩と会ったときのことを思い返す。
“放課後、誰もいない教室での告白は男の夢だ”といつだかナオ先輩に語っていたらしく、なら特別サービスでやってあげようじゃないかとなった今回のプラン。伊達くん絡みの出来事がなければもう少し気楽に渡せていただろうに、黙ったまま私を見つめ続ける今のノブにどんな言葉をかけて渡せばいいのか頭が真っ白だ。
「もしもの話。するよ?」
「お、おう」
もし万が一バスケ部に入らなくて、ノブとの接点ができるより前に伊達くんと付き合ったとしたら――私はノブを好きになることはなかったのだろうか?
言うか言うまいか悩みに悩んだもしも話の導入を聞くや否やノブの眉がぴくりと動く。いつもみたいに騒いでくれればいいのに、今日に限って大人しいノブは黙って私の次の言葉を待っている。
「何度も考えたんだけど……いつも二学期入ったあたりで別れちゃうの」
「伊達と?」
「うん。だってさ、廊下でバカやってるノブとか、球技大会や体育祭で活躍してるの見るじゃん。そしたらさ、」
「……したら?」
「っ――す、きに……なっちゃうと思うんだよね、やっぱ」
球技大会をきっかけに存在を気にし始めて、体育祭で確信して、文化祭でよりたくさん喋るようになって――きっと、今日想いを伝えるのではないだろうか。
違う軸の“もしも話”なのに「結局私はノブを好きになるに違いない」と同義語のそれらを本人に暴露するのは普通の「好き」の何万倍も恥ずかしいものだと今知った。その証拠に今私はひたすら床に向かって喋り続けてる。
「カナ、こっち向いて」
「っ、無理」
「じゃあ、オレがいく」
「――、んっ」
自分のスカートから伸びる脚と床しか見えてなかった世界に突如現れたノブの顔が一瞬で真っ暗になる。無理やりされた口付けなのにすごく心地よくてどろどろに溶かされてしまいそうになる。荒い呼吸と共に舌が入ってきて、たまに聞こえるリップ音が教室の湿度をどんどんあげていくようだった。何秒、何分そうしていたか。ゆっくり離した互いの唇を繋ぐ銀の糸にドキドキが加速していく。
「今の告白、最強。……一番キた」
「……ばか」
今すぐ飛びつきたそうな衝動を抑えながら笑う姿に胸打たれないわけがない。すっかり人肌になってしまった膝の上の生チョコを差し出すと、今日一番の笑顔で受け取ってくれた。
「すげぇ。手作り?」
「ん。……溶かして固めただけだけど」
「分かってねーな。カナの気持ちが籠ってんじゃん」
さっそく蓋をあけ一粒口にした様子をじっくり見ていると「食う?」とまさかの声。それはノブのために作ったものだし味見なら家でしたから大丈夫だと咄嗟に顔を逸らしてしまったけど、少し不自然だったかもしれない。
「……なぁ」
「なに……」
「そーいうリアクションされると、せっかくしてる我慢が崩壊すんだけど」
「ちょっ、むぅ……んんっ!」
口いっぱいにココアパウダーの味が広がるのは、強引にけれど優しく捩じ込まれたノブの太い指のせい。セックスの時たまにされる行為ではあったけど、衣服を着た状態で、しかも学校内でこんなことをされるとは予想もしていなかったからつい大きな声が出た。
「こーら。人、来る」
「っ、ふぁかっ……!」
「カナの告白も、ずっと照れてんのもすげー可愛いかったからしょうがねぇだろ。ほら、いつもみたいに舐めて」
「〜〜っ、」
中指の腹が上顎をつぅっと撫でていく感触に腰がぞくぞくする。大人しく言うことを聞いて口内にある指に舌を這わせると、ノブの口から熱い吐息が漏れる。これで興奮してしまったら私も変態の仲間入りになってしまう。それだけは絶対避けたいのに、とんでもなく色っぽい最中のときのような表情で私を見つめてくるこの男からどうやって逃れられよう。
口の端から流れた唾液をぺろっと舐めとるノブと目が合って顔から火が出そうだ。今日はまだ体のどこを触られてるわけでもないのに熱くてたまらない。
「はぁ、……なぁ、コーフンした?」
「し、してない」
「ほんと? 目うるうるしてる。つーか見て。オレ、勃った」
「っ――見せなくて……!」
「最後まではしないから今だけ。な、触って?」
さっきから舐めてだの触ってだの、可愛い口調でおねだりをしてはいるが無理やり指を突っ込んできたり無理やり手を自身へと押しつけたり、その行動には可愛らしさの欠片もない。私の片手じゃちっとも収まりきらないそれは熱くて、鎮まるにはもうしばらく時間がかかりそうだ。
誰がいつ戻ってくるかも分からないこの状況で、新たな一粒を口に放り込むノブ。「呑気に何を食べてるんだ」と文句を口にしようと思ったらそのまま深く口付けされ、少しひんやりした甘い固形物はあっという間に私たちの間でどろどろになっていく。片手から伝わる熱は鎮まるどころか酷くなっているのではないだろうか。
「うん……んめぇ、」
「っひ、人が作ってあげたものを……変な道具にしないでよ!」
「より上手くなる食い方くらいさせろって。……せめてこの列分くらい」
ニヤリと笑って指さした先の生チョコは残り三粒。もう少し小さい箱にしとくべきだったと後悔するも遅し。誰もいない放課後の教室は私の気持ちを表すかの如く紅く染まっていた。