「勉強でもしようか」なんて約束をしたはいいものの、何の教科を集中的にやろうか。机の中からいくつかの教科書を取り出して悩んでいると、帰ろうとしてた友達に「何してんの?」と声をかけられた。

「放課後、一緒に勉強しようって。神くんと」
「わ、ラブラブだ」
「勉強するだけだよ」

 肩に担いでた鞄を隣の机にドカっと置いた友達は、そのまま椅子に腰かけて興味津々といった顔で私を見てくる。ひぃ、絶対からかわれる。

「それにしても、リコと神かぁ〜。最初はビックリしたけど、なんだかんだお似合いだよね」
「神くんに申し訳ないよ……今でも本当に私でいいのかなって思うもん」
「まぁ、神って奥手そうだもんね。まだキスとかはしてないんでしょ?」

 ビクっと肩が跳ねた。その反応を見た友人は「え!?」と驚いてたけど、もちろんキスはまだしてない。
 ただ、神くんが奥手という情報は間違いだと思う。ただのクラスメイトからしてみれば、神くんは爽やかで優しい好青年。もちろん私だってそう思ってるけど、交際を始めてから知ったことの一つは、意外と神くんは強引ってことだった。

「でももう一ヶ月以上経ってるよね? リコはしたいとは思わないの?」
「お、思ってるけど」

 手を繋いだのも、ぎゅっとハグされたのもわりと付き合ってすぐだった。そのたび私は緊張してしまったけど、神くんは優しいから、いつも私の頭を撫でて気持ちを落ち着かせてくれる。そのおかげで緊張する回数も減ったが、一つだけどうにもならないことがあった。
 とにかく神くんは優しい。だからいきなり唇を奪うとかそういうことは決してしない。そのかわり、必ず数秒見つめてきたあと無言で確認するようにゆっくり顔が近づいてくる。優しさなのかもしれないけど、あの雰囲気がすごくすごく緊張するのだ。だってあんなに綺麗な神くんの顔がゆっくり近づいてくるなんて。
 ――だから初めてそうなった時はつい顎を引いて避けてしまった。

「ごめん、焦りすぎたね俺」

 申し訳なさそうに笑って私の頭を撫でた神くんの表情が忘れられない。そんな顔させてしまった罪悪感と、嫌なわけじゃないのにそれを伝えられなかった後悔と。
 あれからハグ以上のことはあえてしてこない。拒否したつもりはこれっぽちもないけど、やっぱり男の子からしてみればあれは“拒絶”なんだろう。いますぐ土下座したい。そして、本当はそれなりに興味がありますって言いたいけど、そんなの女の私から言って引かれたらどうしようって思うと結局何も言えない。

「お待たせリコちゃん」
「神くん」

 話してた内容が内容だけに名前を呼ぶ声がちょっとだけ上擦った。「ファイト」と言い残した友達と入れ違いに隣の席に腰を下ろす神くん。うーん、やっぱり今日も綺麗な顔だ。

「そういえば神くんって何が得意なの?」
「うーん、得意ってわけじゃないけど……日本史とか世界史とか、地理あたりは結構好きかな」
「地理かぁ。この前点数良くなかったなぁ私」
「リコちゃんノート纏めるの上手なんだから、工夫すればすぐ覚えられるよ」

 「例えば……」と自分のノートを広げる神くんの説明はすごく分かりやすかった。この前やった授業の内容などを事細かに噛み砕いて説明してくれる声が心地よく耳に入ってくる。先生の授業より分かりやすいから、これからは神くんが私専用の先生になってくれないかな、なんて都合のいいことを思っていた時。見てはいけないものを見たような気がした。

「え」
「ん?」

 神くんのノートをちらっと見た時視界に入ったのは、綺麗だけど男の子っぽい文字と地形らしき絵。
 地形……であってるよね?という意味を込めて神くんに視線を戻しても、本人はきょとん顔。地形というよりアメーバと表現した方がしっくりくる。少なくとも私の知ってるアフリカ州はこんな形ではなかったはずだ。
 「次のページ見てもいい?」とだけ断ってペラペラ捲ると、他にもたくさんの個性的なイラストがちらほらあった。絵の隣に名称が書かれてないと正直何か分からない。“降水量が多い”と記された横の傘マークがただの矢印に見えたほど。

「神くんって、美術苦手?」
「苦手意識はないけど……褒められたことはないかな?」

 しかも無自覚だ。付き合ってからいろんな面を知れば知るほど、神くんは完璧人間だなぁと恐縮する勢いだったけど、まさかこんな弱点があったなんて。
 そんな無自覚な弱点を発見したことがちょっぴり嬉しくて可笑しい。だんだん笑いが堪えられなくて「ふふ」と変な声が漏れた。

「え、なにがおかしいの?」
「ちがっ……ごめん。神くんの絵が……!」
「……もしかして、下手だって言いたい?」
「ごめっ、本当ごめんっ……あははっ、でも可愛くて……!」

 白い頬が僅かにピンク色に染まってる。こんな神くんを見たのは初めてで写真に残しておきたいけど、今はお腹を抱えるので精一杯だ。笑っちゃいけないと堪えてると「そんなに面白いなら好きなだけ笑い飛ばしていいよ」とため息交じりに言われ、お言葉に甘えてケラケラ声に出して笑ってしまった。

「落ち着きましたか?」
「はぁ……ごめんね。落ち着きました……」
「そんなに笑うほどかな。そりゃ、リコちゃんほど上手じゃない自覚はあるけど」

 真剣にそう言ってるところがまた面白いし可愛い、とは口に出さなかった。今度可愛いなんて言ったらどんな反応が返ってくるか分からなかったから。
 気を取り直して勉強に集中しようとペンを握りなおそうとした時、持ってたシャーペンを取り上げられた。そして右手をぎゅっと繋がれる。

「え、どうしたの?」
「んー? イタズラ」

 手をにぎにぎしたり、私の手の平を開かせたと思ったらその長い指先でゆっくりなぞったり、指をからめたり。
 さっきまでの空気が一変、急に変な雰囲気になってしまって焦る。頬杖をつきながら私の手で遊んでる神くんはどこか楽し気で、たまにちらっとこっちの様子を伺うように見てくる。さっきまで頬をピンク色に染めてた人と同一人物とは思えない。

「神くんっ……くすぐったいよ」

 くすっと笑う神くんからは、なんというか、えっちなオーラが漂ってて顔に熱が集まった。目が離せない。
 楽しそうな神くんの顔がゆっくり近づいてきてまた体がビクっとしたけど、今度こそはとぎゅっと目を瞑った。そしてすぐに感じた暖かくて柔らかい感触に呼吸が止まる。てっきりちゅってするくらいだと思ってたキスは長くて、唇の柔らかさを知るには十分な時間だった。
 少し離れたあと、仕上げといわんばかりにもう一度ちゅっと音を立てられる。えっ、二回された……!?

「笑った罰ね」
「……は、」
「は?」
「恥ずかしくて、死んでしまいそうです……」
「ははっ、死んだら俺が哀しいよ。生きよ。じゃないとまたキスできない」
「え!?」
「……もうしたくない? 俺は何回でもしたいんだけどな」

 普段しない上目遣いでそんなことを言ってくる綺麗でかっこいい彼氏を、誰が断れるというのか。

「友達には正直に言えるのに、俺には言えない?」
「――き、聞いてたの!?」
「聞こえちゃったの」

 神くんが来る前、ここで友達と話してたことを思い出してパニックになる。あの話を聞いて何食わぬ顔で教室に入ってきたのかと思うと、私は到底この人に敵わないなと白旗をあげた。