「今日は随分とご立腹だな」

 カウンターの隣に腰かけたレイさんの言葉に頬を膨らます私はとんでもなく幼稚だ。でも仕方がないじゃないか。数ヶ月間想い人に放置されてへこまない女などいないし、シャボンディ諸島を発つ際何も知らせてくれなかったことを「仕方がない人ね」なんて流せるほど私は大人じゃない。
 どんなに大人びた態度をしてみたところで、レイさんにはちっとも敵わない。ならば背伸びなどせず、徹底的に大人げない態度で可愛げなくいこうじゃないか。そう、今日の私はヤケになってた。

「別に怒ってません。私、怒るような立場にありませんから」
「なるほど。これは少しやりすぎたかな」
「私は今日シャッキーさんとお喋りがしたくてここに来ただけなんです。勘違いしないでください」

 グラスを拭いてるシャッキーさんは少し驚いたあと「そうね。いい女をほったらかしにするレイさんより、私の方がたくさん楽しませてあげられるわ」と落ち着いたトーンで私の我が儘に乗ってくれた。これにはさすがのレイさんも「ははっ、まいったな」なんて苦笑いを浮かべてる。
 レイさんと出会ってから数年が経つ。ナンパから救ってもらったのがきっかけだったけど、そのままあれよあれよと飲みに誘われ「結局、レイさんにナンパされたみたいになっちゃいましたね」なんて冗談に「おや。今更気がついたのかい?」という不敵な笑み。あれにはまんまとやられた。
 こんな素敵な男性に出会ったのは初めてで、どうアプローチすればいいか最初は戸惑ったものだ。否、今もだけど。
 週に数回飲みに行ってお話するだけの関係がずっと続いて、なかなかそれ以上の誘いをかけてもらえないことに真剣に悩んだ。こうなれば直球勝負だと「好きです」が口癖のようになったは一体どのくらい前からだったろう。
 残りのお酒を一気に飲みきっておかわりを求めると「こらこら、飲み過ぎだ」とレイさんに制される。いつの間にか私の限界値を知られてる。それだけの仲になれたのにとても惜しいが、今日は言ってやると決めたんだ。

「レイさん。私、もう諦めます」
「ん? 何をだ?」
「レイさんの……か、彼女にしてもらうのを諦めますっ!」

 言った。ついに言ってやった。これだけ打っても響かないのだ。潔く諦めた方がいい。昨日の夜から何度も覚悟を決めたというのに、いざ口に出すとどうしても寂しくてぽろぽろ大粒の涙が溢れでる。そんなみっともない私を見て今日初めてレイさんの表情がぎょっとしたものに変わった。

「あぁ……これは、本当にやりすぎたみたいだ。悪かった」
「かわいそうに。こんな純情な子を揺さぶったりして……いけない人に捕まっちゃったわね」

 二人して何の話をしているのか分からなかったが、両手を差し出して「きなさい」と笑いかけてくれるレイさんの言葉にドキドキしてそれを無視する意思の強さはなかった。本当カッコ悪い。さっき諦めるって言ったのに。
 鼻をずびずび鳴らしながらレイさんの傍に寄ればふわっと大きな体に包まれる。頭を撫でられたり手を繋いだことは何度もあったけど、こうして抱きしめてもらうのは初めてだ。嬉しくて余計涙が溢れる。これじゃ体内の水分が枯れ果ててしまう。

「嫌だったかな?」
「うぅ〜……分かってる、くせにっ……」
「わははっ、そうだな。好きな子をいじめたいっていうのは、どうやらこの歳になっても変わらんらしい」
「そうやって……ウソばっかつく」

 シャッキーさんが持ってきてくれたティッシュでべしょべしょになった顔を拭き「その手には乗りませんよ」と彼の腕のなかで警戒心を高めると、私の頭を撫でてたレイさんは「困ったな」と眉をハの字に下げた。

「きみを寂しがらせたのは悪かったが――まさか、付き合ってないと思われてたとは」

 レイさんがさらりと口にした爆弾発言に私の思考は完全に一時停止した。何も言えないで固まってる私を尻目にレイさんは「付き合う、か。こんな老いぼれの口から出る言葉とは思えんな」「ふふっ、二人ともかわいいわ」なんてやりとりをシャッキーさんとにこやかに続けている。
 私がこの数年してきた努力は全てレイさんの彼女になるためだ。なのにもう付き合っていた?そんなバカな話があるわけない。だって私は彼から何も言われてないし、体の関係だって一度もないのだ。すぐ近くにあるレイさんの顔にちらりと視線を向けるとにこりと笑みを向けられ、そのまま額に唇が触れた。

「きみは顔に出やすいな。そんなところがかわいらしくもあるが」
「っ、な、なんで……だって私なにも言われて……!」
「おや、それはおかしいな。愛情表現はそれなりにしていたはずだが」
「だってレイさん……女の子にはみんな優しいから」
「確かに若いお嬢さんは好きだが、こんなスキンシップ誰にでもはせんよ」

 そういってもう一度私の額に唇を落とすと、撫でていた髪の毛にもちゅっと音をたてそのまま目線がぶつかった。言葉を失ってる私に「それとも、もっと過激な愛情表現の方がお好みだったかな?」と不敵に微笑んだレイさんからは大人の色気が溢れ出ている。あまりの衝撃に息をするのを忘れてしまう。私は今日死ぬのだろうか。
 シャッキーさんの「そろそろ私はお邪魔ね」の言葉に体がびくりと反応し、意味もなく慌てふためく。だって、今日の私はこの先の展開なんて何も考えてない。数ヶ月間の放置に現実をつきつけられお別れを切り出してお終いのつもりだったからだ。

「あァ。そろそろ行くとする」
「そうね。もう泣かせちゃダメよ」

 バーを出てすっかり暗くなった街を二人で歩くこと数分。人気のない海岸の辺りまで来て「少しは落ち着いたかい?」と微笑む姿はいつも通りのレイさんだ。

「一生懸命なきみがかわいくてな。つい悪戯をしてしまいたくなる。何も言わずに去ったのは悪かった」
「そ、それは……もう」
「こんな幼稚なことで楽しむうえ、いつでもきみを一番にという約束ができないどうしようもない男だぞ。私は」

 これまでレイさんから聞いた世界の話はどれも面白いものばかりだったけど、きっとそれはその話をレイさんが心底楽しそうに話していたからだ。引退したと言ってはいるが、きっとこの人は一生海の男で自由気ままに生きていたい人。そんなこと言われなくても分かってる。

「レイさん。私のことナメてますね?」
「どこか気に障ったかな?」
「そんな貴方が好きなんです。ふらふらしてもいいです。でも……どこか行くときは言ってください」

 私のむくれた言い方が面白かったのかいつものように豪快に笑ったレイさんはまた髪を一撫でしてくれた。そしてゆっくり口を開くと「私はね、自分の宝は見せびらかさない主義なんだ」と語り始める。

「気に入ったものは、いつも自分の部屋に置いて隠してたさ。誰にも見つからんように」
「とられないように?」
「あァ、そうだな」

 だから、と続けたレイさんは顎に手をあてながら「私を恐いと感じたなら、いま逃げなさい」と微かに笑った。月明りに照らされたその表情は艶っぽくて、どこかいつもの彼と違う。そう――いま私の目の前にいるのはただの“オトコ”だった。
 一歩、二歩と近づいてくるレイさんの瞳ときらきら輝く綺麗な白髪に見惚れていると、最後の確認だと言わんばかりにじっと見つめられる。瞼を閉じると彼の口角が上がったの感じた。そのくらい近い距離にあった私たちの唇はすぐに触れ合い熱を分け合う。すっと離れたのが名残惜しく感じ、思わず「レイリー」と口に出せば彼は意外そうな表情を見せてくれた。

「嬉しいものだな。そう呼ばれるのは」
「ずっと……こうなったとき、呼んでみたいなと思ってたから」
「そうか。それなら、私も呼ばせてもらおうかな」

 低くて渋い、大好きな声に初めて名前を囁かれる。それに続いて「この後はどうしようか」なんて酷く楽しそうに言うんだから、本当に意地悪な人だ。やっぱり、私は今日死ぬのかもしれない。

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