カモメの鳴き声と心地よい波の音に混ざって「なァんだ、そういうことか」というサッチの声が遠くの方でした。それに対する「うるせェよい」というマルコの声はとても近くて、なんだったら声の振動が頭に響くほどだ。
 二人のごちゃごちゃしたいつものやりとりに意識が現実世界へとひっぱられ自然と瞼が開いていく。すると目の前には見慣れた紫色のシャツに新聞。インクの匂いに混ざったマルコの匂いに酷く安心した。
 細身ながらも逞しいマルコの体に体重を預けていたことにようやく気がついて「んん……」と小さな声をあげながら彼の腕にぐりぐりと頭を擦りつける。これはもう癖のようなものだ。彼の存在につい甘えてしまう。

「やっと起きたか」
「うん……マルコはなんでここに?」
「支えてやってた男に開口一番それかよい」
「あれ、みんなどこ行ったの?」
「……さァな」

 空は快晴、天候は春のような夏のような。とにかく絶好のお昼寝日和だと判断した私は、さっきまで甲板でごろごろ過ごしていたのだった。
 掃除をしていた新人クルーたちの様子を眺めたり、たまに楽しくお喋りをしたり、いつの間にかうとうとしてしまったり……。そう、確か目を瞑る間際すぐ側にいたのは新人クルーの一人だったはず。果たして彼はどこへ行ってしまったのか。
 所在をマルコに尋ねても「気になるのか?」と素っ気なく言われるだけだった。そう返されてしまうと「別に」としか答えようがない。
 そのあと気になったのは足元にかかっていた見慣れぬ薄手のブランケット。肌ざわりのいいタオル地のそれを勢いよく退けると「おい」とマルコに叱られる。

「このタオル、マルコの匂いがする」
「おれのなんだから当然だろ。……って、匂いで判別するなよい」
「かけてくれたの? ありがとう」
「甲板で脚出して寝るなってこの前も言ったよな?」
「……覚えてない」
「嘘つくなよい。ったくお前は……」

 やれやれとわざとらしいため息を一つついたマルコは新聞の続きを読もうと腕を広げる。その腕に自分のを絡めるとマルコの眉間にぐっと皺がよった。何度も見てきた表情である。

「なにしてる」
「妬いた?」
「……やっぱ嘘じゃねェか」
「ふふふっ」

 新聞をぽいっと横に放り投げ片膝をついたマルコは私に向き合うや否やデコピンを一発食らわしてきた。そこそこ痛い。
 「くだらねェ悪巧みしやがって」なんてマルコはぼやくが、私はいつだって真剣だ。いつまでも私の想いを受け入れてくれないマルコが悪い。

「いつも子供扱いして私を怒らせるからでしょ。だいたい、喧嘩してたのにこんなに優しくしてくれるってことは、もう好きってことでいいでしょ? 愛でしょ? マルコの女ってことでいいでしょ?」
「バァカ。あれは喧嘩じゃなくてお前が勝手に拗ねて出てっただけだろい」

 私たちの間に大した進展はない。ないまま、今日また一つ大人になってしまったマルコ。私だってもう立派な大人だが、マルコとの年の差はそこそこあるわけで焦りがないかと言われればそれは嘘になる。
 この船に乗ってからマルコに想いを寄せるのに時間は必要なかった。誰よりも優しくて仲間思いで大人で、かと思ったら無邪気な一面もあって。
 堂々と彼の隣に立てる女になろうとそれなりの努力はしてきたというのに、マルコはいつだって私を子供扱い。それに年の差というのは残酷なことに一生縮んではくれない。
 こうなれば嫌でも分からせてやると決行した夜のお誘いも不発に終わってしまった。あっさり躱されたことに拗ねて他のクルーを使うだなんて、マルコの言う通り“子供”だと思う。自分でもちゃんと分かってる。えぇそれはイヤというほど。
 けれど女としてショックだったのだ。拗ねるくらいいいじゃないかと頬を膨らましていると「あー、」なんてマルコの気まずそうな声。

「……傷つけたなら悪かったよい。ただ、大勢の前であんなこと言うな」
「……抱いてもいいよ? って?」
「二人の時なら言ってもいいって意味じゃねェからな?」

 唇を尖らせ再度むくれているとマルコは抑えきれないようにぷっと笑いだし、海風で乱れた私の髪をさらりと梳く。
 マルコの温かい手にうっとりしてつい瞳を閉じた僅か数秒後、唇に柔らかい感触がした。私の世界から一瞬にして音が消え唇の熱がいつまで経っても消えない。おそるおそる目を開ければ、そこには先ほどまでと変わらない様子のマルコがいる。

「えっ――?」
「どうした」
「い、いま私寝てた? 夢?」
「ついに一秒だけ寝る技でも習得したのかよい」
「えっ、だって……いま、なんか」

 自身の唇を指でなぞりながらもう一度マルコの方に目をやるとふっと悪戯な笑みを浮かべられ、全身の血液が一気に顔に集中した。
 更に距離を近づけてきたマルコは「キス一つでそんなんになるくせに、抱いてもいいなんてよく言えたな」なんて笑った後、もう一度ゆっくり口付けてくる。今回ばかりはさすがに夢じゃないことくらい分かる。――私、いまマルコとキスしてる。
 柔らかなそれが自然と離れる間際、もう一度だけ押しつけられた唇がちゅっと鳴る。可愛らしくて優しい口付けに酷く動揺した。なんで?どうして?と言葉にするよりも早く、全てを察したであろうマルコに「おれの女……ってことでいいんじゃなかったのかよい?」と囁かれ心臓がぎゅっと握りつぶされたかのような衝撃を受ける。平然とした態度のままのマルコが不思議なくらいだ。

「午後には島に着く。そしたら一緒に店でも見て周るか」
「え? う、うん」
「飯は〜、サッチたちがえらく張り切ってくれてたからな。二人で食うのは明日にしよう」
「ま、待って、私、いま混乱してる。……マルコ、私のこと好きなの?」
「……迷惑だと言った覚えはねェよい」

 そんなの狡すぎる。すっかり熱くなった頬を冷やそうと両手を当ててみたが、既に手の平まで熱くなっていてそれどころじゃない。じんわりと手汗までかいてきてしまっていて恥ずかしい。

「ひどいよぉ……」
「なにが」
「いつも、私ばっか好きって言って……」

 すっかり腰が抜けて立てなくなった私をひょいと横抱きにしたマルコは「なら、今夜嫌ってほど言ってやる」としたり顔を浮かべる。そう言われると途端に怖気づいてしまうからガキだとバカにされるのだろうが、これはあまりに卑怯が過ぎる。

「も、ものごとには順序ってやつがあると思いますっ」
「だからまずはデートだろい」
「一日で一通り、ですか!?」
「ったく。本当に、よく抱いていいだなんて言えたな」
「だって……そうでも言わないと……」

 口ごもる私を見て小さな溜息をついたマルコは「ったく。仕方ねェな」と呆れ口調で言った。今までもこうして揶揄われたりバカにされることは多々あったが、これはマルコなりの愛情表現というやつなのだろうか。道理で気がつかないわけだ。
 横抱きの状態からゆっくり下ろされたと同時に船首の方から「島が見えたぞー!」という誰かの大きな声。それによって私たちの間に流れていたいつもと異なる甘ったるい空気も慣れ親しんだものに戻り少しだけ気持ちが軽くなった。

「買い出しはきっとみんなでマルコのプレゼント選びになるね」
「別にいいってのによい」

 「見に行こ!」といつものようにマルコのシャツの袖口を掴むと改めて名前を呼ばれ体がびくりと反応した。見上げれば、いつもとどこか違う目の色をしたマルコがいて再び鼓動が速くなっていくのを感じた。

「どうかした?」
「プレゼントなら、今夜一緒にいてもらうのが一番いいな」
「え!?」
「安心しろ。まだ手は出さねェよい」

 私の頬に手をおいたマルコは、どんどん伝わっていったであろう私の熱に満足したのか微かに笑ったあと先に船首の方へふらりと向かっていく。
 どこまでも余裕綽々な態度に怒りすら覚えその背中に反発の声をあげようとしたが、くるりと振り向いたマルコに「まさかお誕生日さまの言うことが聞けねェなんてこたァ、ねェよな?」と先手を打たれてしまい、私はただ顔を赤くしたまま黙り込むことしかできなかった。

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